今日(11月28日)は、「太平洋記念日」
1520(永正17)年、ポルトガルの航海者マゼランが、後に「マゼラン海峡」と命名される南米大陸南端の海峡を通過して太平洋に出た日がこの日(11月28日)とされている。天候が良く平和な日が続いたため、この海を"Pacific Ocean"(平和な・穏やかな大洋=「太平洋」)と名附けたそうだ。
大航海時代に、最初に世界一周をしたことで有名なマゼラン。このマゼラン(フェルディナンド・マゼラン=Ferdinand Magellan )は英語名であり、ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス (Fernão de Magalhães)であるが、ここでは、日本で呼びなれているマゼランを使用する。マゼランは、ポルトガルのオポルト村の近郊で下級貴族の子として生まれる。少年の頃に小姓として宮廷に入り、1505年、25歳でアルメイダの艦隊に入って初めてインドへ航海している。この頃、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機として、ポルトガル国王は、東方諸国の制圧をアルメイダ提督に命じ、20隻の艦隊を派遣し、エジプト、インドの要所を次々に手中に収めた。そして、1506年3月、アラビアやペルシャの商人たちの協力を得て反撃に移ったインドのカリカットのツムリア王のひきいる200隻の急襲をはね返し勝利を収め、インド沿岸の支配権を獲得。この戦闘をカナノーレ大海戦というが、この海戦の船乗りの一員としてマゼランが参加していたのである。
当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれていたこともあり、ポルトガルは、こしょう、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易でにぎわっていたマラッカの領土化を目指していたが、1511年、このマラッカ攻略の船団にもマゼランは参加している。このように、ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、1512年に一旦リスボンに帰還したが、翌年のモロッコでの戦闘に参加し、この時に右足を負傷して以後は右足が不自由になったという。
当時、ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化。両国間に激しい紛争が発生していたが、さらに他のヨーロッパ諸国も海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシラス条約を締結して、各々の勢力範囲を決定し、両国で世界を2分。ポルトガル海上帝国を築いていた。
マゼラン等が、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、110年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌し経済繁栄にわいていた。
航海者としての自信を付けたマゼランはポルトガル王・マヌエル1世に対してへの西回り航路の開拓とそのために船長にしてもらえるように要請した。モルッカ諸島は別名香料諸島と言い、香辛料の産地であった。このマゼランの案は、受け入れてもらえず、また今までの航海(功労)に対する報酬の増額を訴えたが、これも受け入れてもらえず、その上、モロッコでの戦利品を独占したとの疑いまで受け、嫌気が差したマゼランは、ポルトガルを出て、スペインセビリアの親戚の家に移り住み、この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。
1517年、ポルトガルでかなえられなかった野望を遂げるべく、スペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会したマゼランは、モルッカ諸島への西回り航路を熱心に宣伝し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。
1519年9月20日、セビリアから旗艦トリニダード号以下5隻のナオ船は、277名(ツヴァイクの記述によると提督以下265名)の乗組員を乗せて出港した。南アメリカ大陸に沿って南下していき、そして1520年10月21日、遂に西の海へと抜ける道を発見(マゼラン)。その後、艦隊最大の船であったサン・アントニオ号が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡したが、1520年11月28日、艦隊は遂に海峡を抜けて大海に達する。マゼランはこの海が穏やかな事を喜んでマール・パシフィコ(平和の海、太平洋)と名づけた。しかし、海峡を抜けた後はひたすら何も無い海が続き、途中ふたつの無人島を発見したが、100日ほどに渡って食糧補給の機会を得られず、飢えに苦しんだ。1521年3月6日、太平洋に出てから実に99日目にして遂に有人の島を発見、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。現在のグァムだとされる。
3月16日には、フィリピンのサマール島最南端のホモンホン島に上陸しフィリピン諸島への第一歩を記し、それから、レイテ島を回りまっすぐ西へ進み、3月28日にフィリピンのセブ島に上陸。先に上陸させたマライ人奴隷が現地の言葉を理解できたことから、マゼランがかつて東回り航路でやってきたマライ語圏に再びやってきたのであり、マゼランは世界一周を成し遂げたのであった。セブ島で現地の指導者ラジャ・フマボンに面会し、彼をキリスト教に改宗させ、そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島のマクタン島の酋長ラプ・ラプが反対し、マゼランとの戦闘になった。マゼランこの戦闘に敗北し、4月27日戦死した。残された乗組員もひどく人数が少なくなったが、再び航海を続け1521年11月8日、当初の目的地であったモルッカ諸島に何とかたどり着くことができた。
マゼランの死後、艦長となったフアン・セバスチャン・デル・カーノが率いるヴィクトリア号1隻がセビリアに帰港したのは1522年9月6日のことであった。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であったという。
結局、初めて世界を一周して地球が丸いことを証明したのは、マゼランというよりもその生き残った乗組員だったのである。また、この世界一周航海によって日付に一日のずれがある事が実証された。(国際日付変更線参照)
1565年にはスペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を征服したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分がスペインの領土となった。マゼランが発見した群島(フィリピン)は、当時の皇太子フェリペ2世にちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。
マゼランはフィリピンにキリスト教を持ち込みスペインの領土宣言をした人間であるが、その行為に怒り勇敢に戦ったマクタン島の首長ラプラプは、侵略者と戦った英雄として今もフィリピン人に崇拝されている。その敵味方として戦った2人の記念碑が隣り合って建てられているのは皮肉と言うものか・・・。
今は、スペイン、その後のアメリカの植民地からも独立したれっきとした国ではあるが、その国名には、今だに侵略した国の王の名前が付いているというのもかわいそうな話だね~。
(画像は、マゼランの航路。フリー百科事典Wikipediaより。拡大図。)
参考:
フェルディナンド・マゼラン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3
スタンプメイツ・切手で綴る 大航海の物語
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/framspecl.htm
大航海時代- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3
スパイス&ハーブ総合研究所 | スパイスの歴史
http://www.sbsoken.com/jiten/history_05.html
ヴァスコ・ダ・ガマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E
セブ島旅行ガイド。・セブ島の歴史・ラプラプ像とマゼラン記念碑
http://www.cebuguide.net/index.htm
マゼランの世界一周
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/06_kindai/06-06_magellan.html
1520(永正17)年、ポルトガルの航海者マゼランが、後に「マゼラン海峡」と命名される南米大陸南端の海峡を通過して太平洋に出た日がこの日(11月28日)とされている。天候が良く平和な日が続いたため、この海を"Pacific Ocean"(平和な・穏やかな大洋=「太平洋」)と名附けたそうだ。
大航海時代に、最初に世界一周をしたことで有名なマゼラン。このマゼラン(フェルディナンド・マゼラン=Ferdinand Magellan )は英語名であり、ポルトガル語ではフェルナン・デ・マガリャンイス (Fernão de Magalhães)であるが、ここでは、日本で呼びなれているマゼランを使用する。マゼランは、ポルトガルのオポルト村の近郊で下級貴族の子として生まれる。少年の頃に小姓として宮廷に入り、1505年、25歳でアルメイダの艦隊に入って初めてインドへ航海している。この頃、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を契機として、ポルトガル国王は、東方諸国の制圧をアルメイダ提督に命じ、20隻の艦隊を派遣し、エジプト、インドの要所を次々に手中に収めた。そして、1506年3月、アラビアやペルシャの商人たちの協力を得て反撃に移ったインドのカリカットのツムリア王のひきいる200隻の急襲をはね返し勝利を収め、インド沿岸の支配権を獲得。この戦闘をカナノーレ大海戦というが、この海戦の船乗りの一員としてマゼランが参加していたのである。
当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれていたこともあり、ポルトガルは、こしょう、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易でにぎわっていたマラッカの領土化を目指していたが、1511年、このマラッカ攻略の船団にもマゼランは参加している。このように、ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、1512年に一旦リスボンに帰還したが、翌年のモロッコでの戦闘に参加し、この時に右足を負傷して以後は右足が不自由になったという。
当時、ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化。両国間に激しい紛争が発生していたが、さらに他のヨーロッパ諸国も海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシラス条約を締結して、各々の勢力範囲を決定し、両国で世界を2分。ポルトガル海上帝国を築いていた。
マゼラン等が、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はアレキサンドリアやベネチアに代わる商業都市となっており、110年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌し経済繁栄にわいていた。
航海者としての自信を付けたマゼランはポルトガル王・マヌエル1世に対してへの西回り航路の開拓とそのために船長にしてもらえるように要請した。モルッカ諸島は別名香料諸島と言い、香辛料の産地であった。このマゼランの案は、受け入れてもらえず、また今までの航海(功労)に対する報酬の増額を訴えたが、これも受け入れてもらえず、その上、モロッコでの戦利品を独占したとの疑いまで受け、嫌気が差したマゼランは、ポルトガルを出て、スペインセビリアの親戚の家に移り住み、この時に居候先の娘ベアトリックスと結婚した。
1517年、ポルトガルでかなえられなかった野望を遂げるべく、スペイン王・カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝・カール5世)に面会したマゼランは、モルッカ諸島への西回り航路を熱心に宣伝し、カルロス1世はこれに大いに心を動かされ、マゼランを艦隊の長に任命した。
1519年9月20日、セビリアから旗艦トリニダード号以下5隻のナオ船は、277名(ツヴァイクの記述によると提督以下265名)の乗組員を乗せて出港した。南アメリカ大陸に沿って南下していき、そして1520年10月21日、遂に西の海へと抜ける道を発見(マゼラン)。その後、艦隊最大の船であったサン・アントニオ号が反乱分子の手に落ち、多くの食料を積んだまま本国に向けて逃亡したが、1520年11月28日、艦隊は遂に海峡を抜けて大海に達する。マゼランはこの海が穏やかな事を喜んでマール・パシフィコ(平和の海、太平洋)と名づけた。しかし、海峡を抜けた後はひたすら何も無い海が続き、途中ふたつの無人島を発見したが、100日ほどに渡って食糧補給の機会を得られず、飢えに苦しんだ。1521年3月6日、太平洋に出てから実に99日目にして遂に有人の島を発見、島の村落を襲って島民らを殺して食料を強奪するが、現地住民によって奪還され、怒ったマゼランは焼き討ちをかけ、ここをラドロネス諸島(泥棒諸島)と名づける。現在のグァムだとされる。
3月16日には、フィリピンのサマール島最南端のホモンホン島に上陸しフィリピン諸島への第一歩を記し、それから、レイテ島を回りまっすぐ西へ進み、3月28日にフィリピンのセブ島に上陸。先に上陸させたマライ人奴隷が現地の言葉を理解できたことから、マゼランがかつて東回り航路でやってきたマライ語圏に再びやってきたのであり、マゼランは世界一周を成し遂げたのであった。セブ島で現地の指導者ラジャ・フマボンに面会し、彼をキリスト教に改宗させ、そして彼を王として認めるように周辺の島々に要求したが、これに隣島のマクタン島の酋長ラプ・ラプが反対し、マゼランとの戦闘になった。マゼランこの戦闘に敗北し、4月27日戦死した。残された乗組員もひどく人数が少なくなったが、再び航海を続け1521年11月8日、当初の目的地であったモルッカ諸島に何とかたどり着くことができた。
マゼランの死後、艦長となったフアン・セバスチャン・デル・カーノが率いるヴィクトリア号1隻がセビリアに帰港したのは1522年9月6日のことであった。生き残り無事に帰りついた乗組員は、わずかに18名であったという。
結局、初めて世界を一周して地球が丸いことを証明したのは、マゼランというよりもその生き残った乗組員だったのである。また、この世界一周航海によって日付に一日のずれがある事が実証された。(国際日付変更線参照)
1565年にはスペインのミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を征服したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分がスペインの領土となった。マゼランが発見した群島(フィリピン)は、当時の皇太子フェリペ2世にちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われている。
マゼランはフィリピンにキリスト教を持ち込みスペインの領土宣言をした人間であるが、その行為に怒り勇敢に戦ったマクタン島の首長ラプラプは、侵略者と戦った英雄として今もフィリピン人に崇拝されている。その敵味方として戦った2人の記念碑が隣り合って建てられているのは皮肉と言うものか・・・。
今は、スペイン、その後のアメリカの植民地からも独立したれっきとした国ではあるが、その国名には、今だに侵略した国の王の名前が付いているというのもかわいそうな話だね~。
(画像は、マゼランの航路。フリー百科事典Wikipediaより。拡大図。)
参考:
フェルディナンド・マゼラン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3
スタンプメイツ・切手で綴る 大航海の物語
http://www.k5.dion.ne.jp/~a-web/framspecl.htm
大航海時代- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%99%82%E4%BB%A3
スパイス&ハーブ総合研究所 | スパイスの歴史
http://www.sbsoken.com/jiten/history_05.html
ヴァスコ・ダ・ガマ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%9E
セブ島旅行ガイド。・セブ島の歴史・ラプラプ像とマゼラン記念碑
http://www.cebuguide.net/index.htm
マゼランの世界一周
http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/06_kindai/06-06_magellan.html