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日本初の国際水泳競技会 が開かれた日

2007-08-13 | 歴史
1898(明治31)年の今日(8月13日)、 横浜の西波止場外国人水泳場で、日本泳法と外国人クラブの水泳競技大会が開かれた。これが、日本初の国際水泳競技会 と言われている。ここの日本で初めて国際的な水泳大会は、 横浜市中区の西波止場(イギリス波止場ともいう)沖に於て、水府流太田派水術教場の生徒と横浜在住のアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人などで構成される横浜・アマチュア・ローウィング倶楽部員(YARC)との競技会であった。神奈川県知事を始め国内外の名士も来賓として招かれたというからたいへんな注目と話題を集めた大会だったようである。外国人のクロールに対抗したのが、抜き手の横泳ぎ。体格からして日本が劣勢と思われていたが、結果は100、440、880ヤードの3種目中、100と400は圧勝!長距離の880ヤードはクロールに負けたが、日本古来の泳法はすばらしいと誰もが感嘆したということである。
現在、日本水泳連盟が公認する日本泳法は12流派あり、この12流派のうち水府流太田派だけが明治時代の初期にその淵源(えんげん=根源)をもつほか、他の流派はほとんど江戸時代に誕生しており、それぞれ各藩の河川や海の特色に応じて発達してきたもので、実用上の必要や泳ぎながら弓を射たり、剣や槍を使用したりするなど軍事用の武術として奨励された要素が強い一方、御前泳法として日本的な美が追求されてきた点が、欧州の近代泳法とは大きく異なる。
その中で、水府流太田派 の流祖・太田捨蔵(1831~1892年)は元水戸藩士で、水府流上町泳ぎを習得後、江戸講武所に入り、諸流を研鑽して、講武所の三傑といわれていたそうだが、1878(明治11)年、太田は講武所の同志と隅田川浜町河岸に「水府流太田派道場」を開き一派を立てた。これが水府流太田派の起源だそうである。 太田は各流派の泳法を研究し、その長所を取り入れ、水府流に太田の独創を加え、あらゆる水勢に適応できる実用の游泳術を創案し、「大日本游泳術」としたという。 4代本田存が、東京高等師範学校で指導したことから、全国の学校を通じて広く伝播し、現在の日本泳法の中で、その游泳人口は一番多いそうだ。(詳しくは、以下参考に記載の日本水泳連盟/委員会情報 日本泳法委員会/日本泳法概説 参照)。
日本初の国際水泳競技会 は、その水府流太田派の東京浜町河岸で水練場を開いていた太田捨蔵の門弟たちがYARCに対抗戦を申し入れて行われたものだそうである。YARCは海水パンツ、太田派はふんどしのいでたち。結果はみごと太田派の勝利となり、翌年隅田川で行われたリターンマッチでも太田派が勝利を収めたという。しかし、YARCは横浜の居留地外国人が、球技や競馬に劣らず熱中していたスポーツにボートやヨットがあり、それらを楽しむと同時に泳ぎも楽しんでいたという程度のものであり、体格は立派であるが、泳ぎを専門にしているわけではない。逆に、水府流太田派は泳ぎを修得するための水練をしていた生徒たちであり、水泳のセミプロともいえ、勝って不思議はなかったのである。
日本は、四面を海で囲まれ、河川にも恵まれているため、古くから多くの人々が水に親しみ、子供の頃から水遊びの中で自然と泳ぐ技術を身につけていた。
『日本書紀』には海部(あまべ) が諸国に置かれたと記されている。海人 (あま) は船員として水軍の船にも乗り、中世には游泳術が軍事技術として発達し、このような在来の游泳術を「日本泳法」と呼ぶ。
平家物語』や『源平盛衰記』で有名な「壇ノ浦の戦い」は、長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた合戦であり、治承・寿永の乱の最後の戦いであった。
元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総帥の平宗盛安徳天皇を連れて海上へ逃れ、彦島に拠った。鎌倉幕府の公式日記である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山峨兵藤次秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からないが、この戦いでは、宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。水軍の運用に長けた平氏軍は、最初は有利に戦いを進めていたが、やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗って、平氏軍を押しまくり、平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟ったニ位殿(二位ノ尼)は、安徳天皇を抱いて入水。平氏一門は次々と海上へ身を投じた。宗盛も入水したが、息子の清宗とともに助け出され(自発的な降伏という説もあり)、鎌倉の源頼朝のもとに送られる。この場面を『源平盛衰記』は詳しく書いている。「宗盛公、子息清宗二人は海にも入ず自害をもせず、船中を兎違角違々行給ければ、侍共余に悪く思て、通様にて海に奉(二)突入(一)。人は鎧の上に碇いかり(この頃は石などの重し)を置、冑(かぶと)の上に鎧を重て、身を重してゐればこそ沈むに、是はすはだにて、而も究竟の水練也。清宗は父沈給はば我も沈んとおぼし、宗盛は子沈ば我も沈んと思て、二人ながら沈ず、竪ざま横ざま立游、犬游して沈み給はざりけるを、伊勢三郎義盛船を押寄せて、右衛門督(うゑもんのかみ)を熊手に懸て引上。」と書いている。(以下参考に記載の源平盛衰記〔国民文庫〕巻第四十三P1079<異説には自害云云。>のところを参照) 普通は入水するために身を重くするのに、これをせず素肌で、しかも二人はかなりの水泳の達人だったというのだから、沈むわけは無い。それで捕まって、江戸に運ばれるなど武士の風上のも置けぬとは思うのだが、もともと実用本位で発展した水泳がこのころ以降、武技の一つとして武士の間で考えられるようになり、江戸時代の太平の世が続いたときに芸術の域に達し、武芸十八般の一つにもかぞえられ「水練」とよばれるようになった。武士のたしなみとして「一足・二水・三胆・四芸」と呼ばれたこともある。「足」は「健脚」、「水」は泳ぎ、「胆」は「精神力」、「芸」は武芸の意であるが、このように泳ぎは歩くことの次に大事とされてきた。
しかし、この頃の武芸としての日本泳法は、今のスポーツである通常の泳ぎ方のみではなく、武術としての実用的な「水練」である。日本泳法の流派の1つ、「観海流」はより長く泳ぐために発生したもので、津藩が採用したもの。平泳ぎを基本としたその泳法は遠泳に適しているとされる。
今のスポーツとしての水泳は、プールなどで行われるスピードのタイムを競うものが中心になっているのではないかと思うが、戦後の私たちが子供の頃には、プールなども市営か県営のものしか無く、学校での水泳も、近くの海での夏の臨海学校などで行われていた。そして、泳ぎの中心は、形としては平泳が中心で、横泳ぎも重視していたが、遠泳、つまり、疲れず長い距離を泳げることが中心であった。私が練習していた垂水の海は明石海峡に面したところであり、の流れが速い。私なども1時間くらいなら海の沖で泳ぎっぱなしでいられたが、沖に出るのは比較的楽だが、潮に流され岸に帰ってくるのは大変だ。よく流されるので、高校学校の水泳の時は、白の晒しの六尺の水褌で泳いだ。泳ぎやすいし、溺れかけたものを助ける時にも褌がつかめるので、いいのだ。溺れている人の救助方法や人工呼吸の仕方なども水泳と同時に練習した。兎に角、実用的なものであり、水に溺れて死んだりしないこと、また、溺れている人をいかに助けるかなどを重点にしていたように思う。最近は、プールで泳いでいる人が多く、須磨の海などへ行っても沖に出て泳いでいる人を殆ど見ない。と言うより、余り沖に出られないようにロープを張っている。海には波があるので、プールで泳いでいる人は泳げない人が多いようだ。私など海になれた者にとっては海の方が潮に乗れるので泳ぎやすいのだが・・・。そうそう、私はクロールも特異だったが、意外と平泳ぎは余り上手ではなく、長時間泳ぐ泳ぎ方としては横泳ぎが一番楽でいいと思ったね~。(以下参考に記載の四泳法の基本、横泳ぎ参照)
(画像は、水泳、「北斎漫画」国立国会図書館蔵。NHKデーター情報部編ヴジュアル百科「江戸事情」より)
水泳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%B3%B3
日本泳法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%A1%93
海人 - Wikipedia
財団法人 日本海事広報協会
http://www.kaijipr.or.jp/cgi-bin/diary/diary.cgi?year=2008&month=8&day=9
日本水泳連盟/委員会情報 日本泳法委員会/日本泳法概説
http://www.swim.or.jp/11_committee/16_jpn-swim/0210051.html
スポーツ文化史料情報館/書庫明治8(●885 )
http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/new_page_25.htm
壇ノ浦の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E3%83%8E%E6%B5%A6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
源平盛衰記(国民文庫)全巻
http://www.j-texts.com/sheet/seisuik.html 
水泳の歴史
http://www.geocities.jp/tattyan55jp/suieinorekisi.html
遠泳 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B3%B3
日本遠泳協会
http://www.nihoneneikyoukai.com/
横浜市中区「歴史の散歩道」フランス波止場で潮干狩り
http://www.city.yokohama.jp/me/naka/sighthist/sanpo/rekisi/rekisi-22.html
企画・連載 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 8)マリンスポーツ 勝敗分けた“国際試合”
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/kikaku/071/8.htm
四泳法の基本、横泳ぎ
http://www.aqaexe.com/06s/204.html

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2 コメント

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Unknown (ジャン)
2008-05-23 16:04:49
泳ぐのは、結構体力使いますが
楽しいものですね。
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泳ぎ (よーさん)
2008-05-23 17:46:15
ジャンさん、本当に泳ぐのは疲れます。でも、楽しいですね。
昔は体力向上のために、泳ぎも、溺れないこと(事故防止)を前提に遠泳などを主にしていましたが、今の人は海などでどれくらいの距離や時間を泳げるのでしょうかね。
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