今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

十六団子の日

2006-03-16 | 行事
今日(3月16日)は、「十六団子の日」
3月16日は田の神が山から戻ってくるとされる日で、東北地方の各地で団子を16個供えて神を迎える行事が行われるそうだ。そして、10月16日には、神が山へ帰る日として同じように団子を供えるという。
『田の神』は民俗学の柳田國男も民俗学辞典などで言っているように、「稲作の豊穰を祈り祭る神。農神。わが国は、水稲栽培を主とする農耕社会であったから、民族信仰として農神を祭る習俗は瑞穂国と称した古代以来、今日に至るまで永く伝承実践されている」ものである。
山は、古代の人々の日常生活とは隔絶した神秘的な世界であった。そこに人は霊威の強い神霊の存在を信じてきた。その代表が『山の神』であった。『山の神』の名は、「大山津見神(大山祇命=おおやまつみのみこと)」や「木花之佐久夜毘売(木花咲耶姫=このはなのさくやひめ)」(ここで、木の花はサクラを意味している。「この花(桜)のように美しい姫」といったところだろう)などとされることもあるが、『山の神』の性格や祭り方は地域や生業の形態によって様々である。一般に農民にとっての『山の神』は、毎年、山と里とを往復する農耕神であり、春には里に下って『田の神』となり、収穫後には再び山に帰ると信じられている。その期日は地域によって一定ではないが、2月10月、、3月と11月とするところが多い。中国地方などでは、春夏の去来をいわず、田植のときにだけ神を招いて送る場合もある。また、他の神には祖神としての性格が認められることが指摘されている。
又、林業などの携わる人々にとっては『山の神』は木の神であり、伐木の際には呪文や供物が捧げられている。山の神の祭り日には、山の神が木種(きだね)を播いているとか、木の数を数えているとか言われ、この日に山に入るのを忌むことが多い。猟師にとっての『山の神』は、獲物を支配する神としての性格をもち、猟師たちが獲物に恵まれるかいなかは『山の神』の意思次第と考えられていた。獲物の解体の際には、首や内臓の一部などを『山の神』に捧げる習慣も各地に見られる。『山の神』の性別についても地域によって説明が異なっている。一般的に『山の神』は女神とされ、『山の神』に男根の模型を供える習慣も見られる。又、山の神は女神なるが故に人間の女性を嫌うといわれ、女性の入山を忌む地域が広く分布している。山の神は醜女(しこめ)だとするところも多く、このため山の神は同様に醜いオコゼを好むとされ、オコゼ、あるいはオコゼと呼ばれる貝を供え物として『山の神』に献ずる地域も多い。又、上越地方などでは、山の神を「十二様(じゅうにさま)」と呼び、1年に十二人(神)の子を産む女神と説明している。一方樵(きこり)の間などでは、山の神は男神とすることもあり、木地師の場合などは『山の神』は夫婦二神だとして、祠の中に男女一対の像を祀る例もある。近江地方では、年に何度か山の神の祭りが行われる。ここでは二又の枝で山の神のオン(雄)とメン(雌)の二体をつくり、石碑の前で交合させるが、これは山の神のもつ豊饒性を表現しているものらしい。山の神は、より擬人化された天狗や山姥(やまんば)のそれと重複する面が多い。秩父地方では、「お天狗様」は『山の神』の別名とも考えられており、毎年子ども達の手で天狗祭りが行われている。
話しは、又『田の神』に戻るが、民間の農耕神は『田の神』と呼ばれるのが、一般的であるが、作の神・農神・歳神などともいい、恵比寿・大黒・亥の神・竈神などのように他の信仰と集合したものも見られる。田の神は農作業の折り目に祀られ、その儀礼の主なものは神迎え・苗代に種を播く時に行う水口祭り・田植祭り・さなぶり・収穫祭だった。
「大和耕作絵抄」の田植の図を見ると、中世の時代、稲の苗を苗代から田に植えつける田植は、稲作において最も重要な行事である。早朝、他の神を迎えて神の見守る前で、田植をし、夕方に飢え終わって田の神を送る。即ち、田植は、実際の作業であると同時に、神事でもあったのである。田植では多くの手が必要となり、互いに手伝いをしあう村の共同作業であった。稲の植え付けは女性の仕事で、「早乙女(さおとめ)」と称された。早乙女は、晴れ着を着て新しい菅笠を被り、囃しや田植を指揮する田主(たろうじ)の音頭にあわせて田植歌を歌いながら、苗を植えつけている。因みに、京都に近い村の早乙女が時鳥(ほととぎす)を讃えて、「時鳥よ おれよ かやつよ おれ鳴きてぞ われは田にたつ」という田植歌をうたっていたことが「枕草子」ででも知らている。又、図では、田植をしているその手前では昼食の準備をしている。田植の日の昼食は田の神と共食する神聖なものだったのである。
春、桜の下で、円座になって飲み、食い、踊り騒ぐ風俗は、江戸時代に、江戸、大阪、京都など大都市を中心に庶民の間で発達したものだが、古くは、ウツギ(卯の花)、ツツジ、シャクナゲなど山の花をめでる例も少なくない。この花見も昔は、単なる遊山ではなく、田の神を祭り、神と人が共に飲食した故習なのである。
農耕民族である日本人にとって、「ハナ」というのは、もともと「稲の花」のことで、それはそのまま神に捧げるハナであり、神の依り代であった。だから、「花祭り」とは、稲の花の成熟を神に祈願して、豊作を願う行事で、現代人が花を愛でる感覚とは違ったものであった。すでに縄文から弥生にかけての日本列島には、桜はたくさん生えていたが、当初は実用性の上からも、それほど重要な樹木ではなかったようである。ただ、桜の開花の時期が新生を予感させる春であり、「サクラ」の「サ」は、稲田の神霊を指し、「クラ」は、神の憑りつく所の意のクラ(座)の意つまり神の座を意味している。
稲作が始まり、共同祈願を行うようになったころから「神霊の依る花」として尊ばれたのではないかと、考えられている。『古事記』に出てくる木花之佐久夜毘売、は山の神である大山津見神の娘で、サクラを象徴する姫神で、春になると、父の命でサクラの花に姿を変えて稲の穀霊として地上に現れたものともされた。古代人たちは山に咲くサクラの咲き具合によってその年の稲の収穫を占った。花が美しく長く咲くことを願う農民達は春の一日酒肴を用意して山に登り、サクラの木の下で花に祈りつつ楽しく一時を遊んだ。これが今日も見られる「花見」の原型であり、古くは山見とも言われた。「民族学ではサツキ(五月)のサ、サナエ(早苗)のサ、サオトメ(早乙女)のサはすべて稲田の神霊を指すと解されている。…田植えは、農事である以上にサの神の祭りを中心にした神事なのであった。十六団子もこの農事に関わるもの。ただ、お供えする所は神棚や神社ではなく大黒様や恵比須様とかをお祭りしている場所が多いようだ。
(画像は、「大和耕作絵抄」の田植の図。NHKデーター情報部ヴィジアル百貨・江戸事情より)
参考:
山岳信仰 山と神 山の神
http://www5e.biglobe.ne.jp/~yamamosa/5sinkou-2.html
性神信仰 せいしんしんこう
http://www.tabiken.com/history/doc/K/K065L200.HTM
山の神という言葉/古事記」には山の神ということばが四回出ている。
 源氏物語に関するエッセイ・論文集
http://www.iz2.or.jp/essay/9-2.htm
マタギ:マタギが信仰する山の神は異常な性格の女神であり、、大変醜女で無類 のやきもちやきである。
http://www.kumagera.ne.jp/ani/matagi.htm
南九州 鹿児島の田の神:たんかんさ~
http://prosv1.tok2.com/~hayato/tankan/iroiro.html
歳時記/村上商工会議所
http://www.mu-cci.or.jp/jo/saijiki/sai1991.html
七福神大研究
http://homepage1.nifty.com/manekinekoclub/kenkyu/kaibo/7fuku/7fuku.html第2講 花見と日本人(各論)
http://www.sonoda-u.ac.jp/private/k25022/setsu2.htm
源氏物語に関するエッセイ・論文集
http://www.iz2.or.jp/essay/9-3.htm
さくら雑学事典1・日本人と桜
http://homepage3.nifty.com/~tabi/c83/sakura1.htm

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