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日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始(1)

2010-03-19 | 歴史
03月19日日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始した。
日本住宅公団というのは、かつて存在した特殊法人で、現在の都市再生機構の前身の一つである。
1955(昭和30)年、7月8日に日本住宅公団法が公布され、25日に、日本住宅公団が設立登記された。その後、同公団は、住宅に困窮する勤労者のために住宅及び宅地の供給をおこなってきた。
日本住宅公団が設立された、1955(昭和30)年と言えば、先ず政治的には、1951(昭和26)年に、サンフランシスコ講和条約を巡って、賛成派(右派)と反対派(左派)に分裂していた社会党が、この年(1955年)の10月、1951(昭和26)年以来、4年ぶりに分裂状態を解消 した(社会党再統一)。
一方、戦後直後から社会主義勢力の台頭を危惧していた保守勢力は、戦前の政治潮流のしがらみや、吉田(吉田茂)対鳩山(鳩山 一郎)に見られるように、戦後発生した対立によって、乱れに乱れていたが、この社会党再統一に刺激され、当時の二大保守政党である吉田率いる自由党と、それに対抗するために出来た鳩山率いる日本民主党が11月15日、合併し、今日ある自由民主党を結成(保守合同)。唯一の保守政党による単独政権が誕生した。いわゆる「55年体制」の発足した年であり、日本の戦後政治にとっては画期的な年であった。このことにより、戦後日本が、曲がりなりにも二大政党制に転換したのであるが、その後、社会党は自民党に変わる政権政党には育たなかった。結局、自民党が、以後、殆どの総選挙で安定多数を確保し長期政権を維持し、財界や官僚との一体化を進め、支配体制を強化した。そのため、本来ニ大政党制に転換したことを意味するはずであった、55年体制と言う言葉も、自民党の長期支配や政・財・官・業の一体化を意味する言葉となってしまったのは残念なことである。ただ、この体制下で、その後、日本の経済の高度成長が効率的に推進され、国民生活が向上してきたことは否定できない。
一方、戦後10年を迎えた日本の経済は、この年の後半から、高度経済成長の始まりとなった神武景気の幕開けの年でもあった。
1956(昭和31)年に、経済企画庁が「日本経済の成長と近代化」を副題とする『経済白書』を発表。その結語の「もはや戦後ではない」という言葉が流行語ともなった。
それは、第二次世界大戦における敗北による荒廃や混乱も、1950年代の朝鮮戦争特需により、1955年(昭和30)には、最も経済水準をよく示す指標であるといわれる1人当りの実質国民総生産(GNP)が戦前を越えた。つまり、日本の経済にとって、戦後の復興期は終わったという判断が示されたのである。
戦後の日本は、疲弊した国内産業の建て直しの為に、国策として石炭の増産を実施し、鉄鋼業や石炭鉱業などに重点的に資金を配分する(傾斜生産方式)等を採用し、経済の再建に努めたが、日米安全保障条約の締結により、日本は国土の防衛をアメリカに一任出来るようになり、高コストの軍事費(防衛費)を抑え経済政策に優先的に配分できるようになったことも、経済成長の大きな要因ではあった。そんな経済の体質も近代化によって変わっていく。経済の近代化は何よりも旺盛な設備投資とともに推進されるイノベーションによって推進された。『経済白書』はそれを「技術革新」と呼んだ。
日本は戦争により、欧米諸国との技術水準のギャップが拡大していたことから、導入可能な技術革新の種が豊富に存在していたことから、欧米からの生産技術の導入し、また、それだけでなくその技術を利用した新製品の開発・普及と共に生活スタイルの革新(欧米化)も勧めた。
1950年代の生産技術の革新は目覚しく鉄鋼、電力、造船、電気、精密機器、自動車石油化学など各産業で新製品の開発が進んだ。中でも日本人に計り知れない影響を与えたのはテレビのだろう。テレビは急速に変化してゆく社会に向かって開かれた「情報の窓」となり、一家団欒の中心に位置することで、当時は、高度経済成長の家族の連帯を支えるという一面もあった。この日本の経済成長を支えたのが、良質で安い労働力、余剰農業労働力といった人的資源が蓄積されていたことであった。
又、都市の環境整備も進められていたので、当時どこへ行っても工事場だらけであったが、工場の建設だけでなく消費の順調な拡大に支えられ新しいビルや商店も増え、東京の銀座も戦後10年を経過して完全に甦っていた。
しかし、そのような目覚しい経済の発展の中、当時は都市への人口流入が急速に進み、都市部の住宅が極端に不足していたなか、誕生間もない日本住宅公団は、高層団地の建設に全力をあげていた。そして、日本住宅公団が初の入居者募集を開始したのが、1956(昭和31)年3月19日のことであった。千葉の稲下団地(普通分譲住宅)と大阪の金剛・東長居両団地(賃貸住宅)である。
入居第1号の賃貸住宅である金岡団地(大阪・堺市)の家賃は2DK(6畳と4畳半に台所)で、月4,600円、入居資格は月収2万5000円以上。当時の課長クラスの収入が必要だった。シリンダー錠、ステンレス流し台、洋式トイレ、ガス風呂など近代的な設備を備えていた。当時はまだ、食べる部屋と寝る部屋を分けたDKに加え、シリンダー錠でプライバシーも守られたニュースタイルの「団地」が輝いて見えた時代だった。入居第1号の金岡団地の今と昔の変貌は以下で見れる。
YOMIURI ONLIN: いまむかし写真物語No.08 金岡団地(堺市)
http://osaka.yomiuri.co.jp/55/20070728ka0a.htm
5月1日には千葉稲毛団地で入居が開始される。又、東京・葛飾区青戸でも4階建て38棟の建設が急ピッチで、夜間の突貫工事になっていた。青戸団地の入居者を募集したのは同年7月であり、11月には完成し、直ちに入居が開始された(冒頭掲載の写真は青戸団地建設の様子。4月のもの。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)。その後、ほとんど人家の無い地域が団地建設による人口増加に伴い、住環境が整備されていった。
日本住宅公団により、1960年代には、首都圏や京阪神圏の郊外で多数の集合住宅を集積した団地が建設されるとともに、広域の大規模な都市基盤開発を伴うニュータウンの計画・建設などに主体的役割を担った。ニュータウン開発の手法には大きく分けて国の機関や地方自治体が法的根拠(新住宅市街地開発法や土地区画整理事業法)に基づいてマスタープランを起案し自らがデベロッパーとなって建設するものと、民間デベロッパーが任意に建設するものがある。そして、1970年代には都市再開発事業も手がけるようになった。
公的機関が開発した大規模ニュータウンは長期に渡り広域広大な造成を伴ってインフラストラクチャー等の都市基盤整備工事を実施し、マスタープランに基づいて住宅を基軸に複合多機能都市として建設される場合が多い。三大都市圏での代表例としては、東京都市圏の「多摩ニュータウン(東京・多摩地域。国内最大規模)」「港北ニュータウン(横浜市都筑区茅ヶ崎を中心)」「千葉ニュータウン(千葉県内)」「竜ヶ崎ニュータウン(茨城県竜ヶ崎市)」「常総ニュータウン(茨城県守谷市、つくばみらい市、取手市、常総市)」、大阪都市圏の「千里ニュータウン(大阪府,日本国内初の大型ニュータウン)」「泉北ニュータウン>(大阪府堺市南区など)」、名古屋都市圏の「高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市東部)」等がある(詳細は「日本のニュータウン」を参照)。
しかし初期の公団は築年数の経過と共に老躯化の進行と共に、時代に適合しない建物も増えて行き、また、高度成長期の中核的労働力である比較的年齢層の近い核家族世帯が短期間に集中して入居したため、初期入居世帯の世帯主の高齢化も懸念されるようになった。1981(昭和56)年10月1日、日本住宅公団は、住宅・都市整備公団法により解散。宅地開発公団と統合され、業務は住宅・都市整備公団に承継された。経済も安定期に入って住宅の需要が減少したことに伴い、建設する住宅も量から質への転換を図ることが必要となり、良質な住宅の新規建設、既存住宅の改築などをしてより住み易い環境を提供するなど都市地域の居住環境が良好な公団住宅や宅地の大規模な供給をするほか、市街地開発事業を目的とするようになった。しかし、住宅事情を改善するために設立されたのにもかかわらず、以前は割安物件として人気のあった公団住宅もバブル景気崩壊後は、分譲価格や家賃を高値で維持したために、公団住宅(分譲マンション等)の平均価格が民間の平均価格を上回る状況となってしまった。そのため結局多数の売れ残り分譲物件を大幅に値下げすることになり、住宅都市整備公団の財政事情は一気に悪化し、分譲事業も賃貸事業も不振に陥り事業見直しの必要に迫られ、結局法律改正による廃止が決定し、1999(平成11)年10月、新法人である都市基盤整備公団に引き継がれた後、2004(平成16)年7月より都市再生機構(略称:都市機構またはUR)へ移管された。

日本住宅公団が、大阪・堺市金岡団地等で初のアパート入居者公募を開始(2)へ続く

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