今日のことあれこれと・・・

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小学校開校の日

2006-05-21 | 記念日
今日(5月21日)は、「小学校開校の日」
1869(明治2)年、5月21日は、京都市の上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と、下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で日本初の小学校の開校式が行われた日だそうだ。
私は、日本最初の小学校は、長野県松本市の旧制小学校・開智学校だと思っていた。同校は、以下参考の旧開智学校-Wikipediaや松本市公式HP等によれば、1873年(明治6年)に第二大学区筑摩県管下 第一中学区 第一番小学 開智学校 として開校。もとは廃仏毀釈で廃寺となった松本藩主戸田氏の菩提寺・全久院の跡地に開校し、女鳥羽川南岸に移ったが、昭和期に使われなくなると現在の場所に移築された。1961(昭和36)年には、明治時代の擬洋風学校建築としては、わが国で初めて重要文化財の指定を受けている。1965(昭和40)年からは明治時代の教育資料を展示した博物館になっている。
ところが、調べてみると、この長野県松本市の旧制小学校・開智学校より前の1869(明治2)年5月21日、近代小学校として日本初の小学校が京都で開校したというのである。
千年もの長い歳月、都がおかれていた京都。明治維新後、東京遷都により、一地方都市として衰退することをおそれた京都府は、京都市を一刻も早く近代都市として生まれ変わらせるために、最初に着手したのが小学校の建設だったそうだ。日本の近代学校制度は、1872(明治5)年8月2日、太政官より布告された「被仰出書」及び翌8月3日頒布された「学制」からスタートしたといえるので、それより3年も早くその精神を先取りして創建されていたことになる。以下参考に記載の京都市 HPの「都市史26 町組改正と小学校」他の情報によると、京都には町組と言うのものがあった。京都の町組とは、道路をはさんで形成された町が集まって地域的に連合した自治組織で、16世紀初め頃に形成された原型が、拡大発展を経ながら1868(明治元)年まで続いてきた。、明治元年に、京都府は)京都の上京・下京を上大組(かみおおぐみ)・下大組(しもおおぐみ)とする新時代の行政組織に衣替えした。この時できた町組が現在の元学区(もとがっく)の原型となった。そして、この町組改正とともに、着手した大事業が、小学校の建設だったのである。京都では、江戸時代から漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である心学などの私塾や寺子屋の伝統が築かれていた。このような風土のなか、1867(慶応3)年、寺子屋を営む篤志軒八代目西谷淇水(にしたにきすい)が官立の教学所設立の建白後、二代目府知事が強力に小学校建設を推進し、読書・習字・算術の稽古場として、一組に1か所の小学校建設を計画。同時に京都府は、町組ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想を立てた。そして、第二次町組改正が行われ、1869(明治2)年1月末に新しい町組が成立したときに小学校建設が急速に進められ、同年5月21日には、2つの小学校で開校式が行われた。そして、その後、約7ヶ月という短期間に町組ごとに64の小学校(番組小学校)を一度に開校したという。これら町組会所兼小学校は、一般に番組(ばんぐみ)小学校と呼ぶそうだ。ただ、多くの小学校は,地元有志の寄附や寺社の敷地の一部でまかなわれ、運動場もなく、民家とあまり変わらない大きさだったそうだ。それに、小学校は単に教育機関であるだけでなく、町会所であり、府の出先機関でもあり、警察・交番や望火楼を設置。塵芥処理や予防接種など保健所の仕事も担っていたらしいが、その経費の一切は町組が負担していたという。最初に建てられた柳池小学校は,戦後の新学制によって,柳池中学校となり、その正門横には、「日本最初の小学校」と記された石碑が建っている。また、下京区御幸町には、旧開智小学校(第十一番組 )の校舎を利用し「京都市学校歴史博物館」 明治2(1869)年に創設された64の番組小学校を中心に,京都の教育の歴史を学校文化財(美術工芸品)と歴史資料によって紹介しているそうだ。
明治政府は、列強国家への仲間入りを目指した。そして、官僚主導による明治維新の諸改革を極めて短期間に進めたとともに、「教育の急速な普及」のため、明治政府は1871(明治4)7月に文部省を創設。教育体系について検討の上、翌1872年(明治5)8月2日には「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」の布告を、そして翌3日には仏蘭西の制度に倣った「学制(抄)」が頒布されている。「被仰出書」には学ぶ場としての学校の必要を謳い、また、学問は旧武士階級だけのものでないこと、つまり国民皆学を強調しており、幕末の教育実態と対比すれば、実に先見の明に満ちたものである。 ここには、「学問ハ身ヲ立ルノ財本共云フベキ者ニシテ、人タル者誰カ学バズシテ可ナランヤ」と言う文言もあり、学問は「身を立てる方策・財産=財本」という考え方が人々の間に広まっていくことになる。ただ,学問云々の意味はかなり曖昧であるが、学問が「身を立てる財産」につながることは、学問が、学問を受ける個人のためそして家族のためになり、ひいては国家の利益にもつながるというきわめて実学に絞りこまれているようである。
そして、当時各地に創設された学校は、時代にふさわしい何か意味のある言葉をもって名づけたものが多かったようだが、長野県松本市の旧制小学校・開智学校、京都の旧開智小学校など、校名の「開智」は、「知識を開くこと」といった意味であろうが、名前の由来は、「被仰出書」の文中にある「~人々自ヲ・・・・其身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ~云々」から命名されたようである。
1872(明治5)年の学制発布で始まった日本の近代教育制度において、初等教育は、当初、尋常小学校という名称の学校で行われた。また、1941(昭和16)年4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の尋常科のほかに、尋常科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の尋常科は、1947(昭和22)年4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、新制学校である現在の小学校に移行した。
(画像は、旧開智学校、長野県松本市にあった旧制小学校で、日本で最も古い小学校のひとつ。フリー百科事典Wikipediaより借用)
参考:
旧開智学校-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E9%96%8B%E6%99%BA%E5%AD%A6%E6%A0%A1
都市史26 町組改正と小学校( 京都市 HP)
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi26.html
京都市立京都柳池中学校ホームページ
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/ryuchi-c/
京都市学校歴史博物館
http://www.gakurehaku-unet.ocn.ne.jp/
明治5年学制頒布当時の『被仰出書』
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2006/04/post_00ee.html
小学校-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1


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