今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

果ての二十日(Ⅱ)

2010-12-20 | 行事
話はまた少し前の方に戻るが、元の五条大路は松原通と呼ばれていたことは先に述べたが、平安京は現在の寺町通が東京極通(京都市内の通り又、以下参考に記載の※4:「大路小路」の東京極通参照)となり、東京極は、名前の通り、京の東の極みつまり東の端を意味し、当時 そこから東は京ではなかった。つまり、松原通は寺町通から清水寺までの道、つまり、平安京の外の道(他界)であった。
西福寺を通り過ぎ轆轤町(ろくろちょう)の前を通り東大路通の手前頃で、六道珍皇寺の門前に出る。通称六道さんと呼ばれるこの寺は、小野篁が冥界(死後の世界)に通ったと伝わる井戸で知られている。ここに「六道の辻」の石碑が建っている。松原通(旧五条通)が轆轤町(ろくろちょう)にかかるこの付近が、「六道の辻」であり、平安時代以前からこの辺り一帯から山麓(清水寺の一帯、特に南西、阿弥陀ヶ峰〔鳥部山山頂〕辺り)にかけては、「鳥辺野(とりべの)」といわれる葬送の地・・・といっても、死骸を捨て風葬にした場所であったという。
今とは違って、身分の高い人以外、一般人には人が死んでも墓を建てて弔うこともなかったこの時代、葬送は野辺に限っていたようで、京都ではそのような地に「野」の字をつけたようだ。鳥辺野と鳥の字がつくのは、カラスなどの鳥類などに屍肉を食い尽くされるままに放置していたからだとか。このような風葬の地は、ここのほか他、嵯峨野の奥地の化野、洛北(船岡山から紙屋川に至る一帯)の蓮台野があって、ここに葬送される人は未だ幸せで、河原に、道端に死体がごろごろという時代、清水(清水寺)の舞台と称される場所を役人に開放して、ここから投げ落として葬送していたという。この状態はまさに人生最後の別れで、清水の舞台から飛び下ろされる時であり、死んだつもりなら少々の事は頑張れることから、これが諺「清水の舞台から飛び下りる」の始まりなのだという(以下参考に記載の※16、※17参照)。
当時、鴨川の岸も遺体の捨て場であり、葬送の場であったことから、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也が963(応和3)年に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺(六波羅蜜寺 。松原通大和大路東入2丁目轆轤町にある)の創建とする説もあるようだ。このようなことから、この地には、かつて、おびただしい人骨が出土したため「髑髏原(どくろはら)」と称され、その「髑髏(どくろ)」が転訛して「六道(ろくどう)」になったといわれているそうだ(以下参考に記載の※18:「京都通百科事典」の六道の辻参照).
仏教において「六道」とは、迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のことである。つまり、この地が、あの世とこの世をへだてる境界である。清水寺は、六道の辻を越えた先、つまりは死者の世界とも見られていた辺りに建っており、あの大舞台から見渡せる辺り一帯が葬送の地ということになる。清水寺の創始も、延鎮がそれらの魂を供養しようと、音羽の滝近くに庵を結んだのが始まりではないか・・・ともいわれている。
従って、松原通そのものが京の外・異界の世界との境界であるとともに、鳥辺野、六道の辻など黄泉の国に繋がる場所でもあったわけだ。
このような死者もしくは亡霊を含めての鬼や他の妖怪など魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちが姿を変えながら夜明け前の「かわたれ時」(「彼(か)は誰(たれ)時」)から夕暮れの「たそがれ時」(「誰(た)そ彼時」)に、河原をはじめとする村はずれ、町外れの辻、門、橋など「境界」の向こう側(魔界・異界・他界)から人々の前に現れては畏怖を与えた。まさにこの時こそが「逢魔(おうま)が時」であった。
このページ冒頭の画像は、日本の妖怪の基本形を作った画家の一人といわれる鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』(「前篇陰」「前篇陽」「前篇風」の3部構成)の後編に相当する『今昔画図続百鬼』の1枚目「逢魔が時」、塔のそびえる街並みの上空を怪しいものが過ぎていく図である。そこには、「黄昏をいふ。百魅(ひゃくみ)の生ずる時なり。世俗、小児を外にいだす事を禁(いまし)む」とある(週間朝日百科『日本の歴史』より)。み【魅】 とは, 化け物、もののけ。魑魅魍魎のこと。この「怪しいもの」の姿は何故か「入道雲に夕陽が陰影を与えればこのようにみえるかも」とおもわせる姿をしている。夕ぐれの空に何を感じるのか・・・、「怪しいもの」を生み出す心はこんなところにあることを教えてくれているようだ。
昔の人々は今日の私たちには想像できないほど多くの怪しいものに取り囲まれて生活していたわけであるが、当時の人たちにとっては、それらに対して、戦って退治するか、また、それらの気持ちを少しでも和らげて事なきように取り払う、つまり、祭ることで災厄をなさぬよう祈りこめるかの二者択一しかなかったのであろう。それらを鎮める必要から地域によって違いはあるが、経験則から割り出された日をもって、祭り日となっていったものが忌み日である。
】と【祝】の字は良く似ているが、いずれも語源は、述べる(のべる)」の祖語「のぶ」の古い形「のる(宣る、告る)」よりきたものだという。つまり、呪力のある言葉を神や魔に告げる・・・の意である。
平安時代には陰陽道が信じられ、災いがある日を忌み日としていたためか、神道では、念を残して死んだ人の霊魂を慰め鎮める祭りを行う日などが忌み日であったことから、日の吉凶でも凶の方の忌みの方が後世に残ったものと考えられている。そして、戸外にも出歩かないようにし、身を慎み災いを避けたのだろう。
これから迎える正月の注連縄も、、厄や禍を祓うまた、招かれざる客がi家の中に入り込まないようにするための結界として張られたものであった。

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果ての二十日:参考

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