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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

鎌倉幕府滅亡の日

2007-05-22 | 歴史
1333(元弘3=正慶2)年の今日(5月22日)鎌倉幕府が滅亡した。新田義貞が鎌倉に攻め込み得宗・北條高時ら一族約800人が自刃した。
鎌倉幕府は、源平の合戦(治承・寿永の乱)で平氏政権崩壊後、源頼朝が鎌倉に創設した武家政権幕府)である。(鎌倉幕府の成立時期については諸説あるが、成立時期をめぐる諸説を参照)
鎌倉幕府は1333(元弘3=正慶2)年に鎌倉の北条氏が新田義貞らの軍に滅ぼされて幕を閉じた。この間の140年余りを鎌倉時代と呼ぶが、この鎌倉時代の歴史は大きく2つの時代に区分することができる。
先ず、第一期は、源頼朝が鎌倉に入ってから3代将軍実朝までの源氏の時代(1180年~1221年、源氏3代の時代)であり、この時代は、まだ朝廷の力が強く残っていたが、鎌倉幕府の基礎が築かれた。しかし、実朝の死(1219年)によって、頼朝直系の血は早々と途絶えた。
第二期は、1221(承久3)年北条氏を中心とする軍勢が承久の乱後鳥羽上皇方を破り、武家政権が確立した時代。(1221年~1333年北条氏の時代)。全国特に西国掌握の完了、朝廷の掌握により、 鎌倉が名実ともに政治、文化の中心地として機能し、禅宗・律宗・浄土宗など鎌倉新仏教の隆興をみた。4代将軍藤原頼経以降、将軍職は公家皇族を京から迎える形で名目的存在として立て、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制のもとで続いて来た。(鎌倉将軍一覧及び鎌倉幕府の執権一覧 参照)。
しかし、政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的なが立つようになるなど、急激な商品経済の発展があったのは良いのだが、1274(文永11)年の文永の役や1281(弘安2 )年の弘安の役の2 度にわたる元冦があったが、、鎌倉幕府はこれを撃退したたものの、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、武士たちの不満を強めた。そして、急激な商品経済の発展はなにより貨幣経済が浸透し、多くの御家人が経済的に没落し、凡下(ぼんげ )と呼ばれる商人階層から借財を重ねた。1284(弘安7)年に弘安の徳政(以下参考に記載の「※弘安の徳政」参照)、さらに1297(永仁5)年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。
しかし、武家社会だけではなく、後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統北朝)と大覚寺統南朝)とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出そうなどという変則的な体制が成立するという問題が起きていた。(系譜参照)
そのような中、1318(文保2)年後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなり、1324(正中元)、後醍醐の蜂起計画が露呈し、側近の日野資朝俊基が処罰された(正中の変)。
諦めない後醍醐は、1331(元徳3・元弘元)年、赦免された日野俊基を中心に再度倒幕計画を立てたがこれも事前に発覚し、翌年隠岐島へ流された。しかし、これを契機に得宗専制に不満を持つ楠木正成赤松円心など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになると、翌1333(元弘3/正慶2)年閏2月24日、上皇(後醍醐)は隠岐島を脱出。そして、1333(元弘3/正慶2)年、幕府は反幕府勢力の討伐のために京都へ有力御家人の足利高氏(尊氏)を派遣したが、一転、尊氏は後醍醐側へつき、京都の六波羅探題を落とすと、新田義貞も上野国生品明神において挙兵。これに呼応した関東の御家人たちと利根川を越えて南進。途中、高氏の嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)らも合流、義詮を奉じてからは新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、小手指ヶ原の戦い分倍河原の戦いで敗退し、鎌倉へ追い詰められた。5月21日稲村ヶ崎から上陸して鎌倉に攻め入る。そして翌22日、北条高時ら北条一門は東勝寺において滅亡した(東勝寺合戦)。東勝寺に篭った北条一族と家臣は、古典『太平記』によれば、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ腹を切り、最後に高時、安達時顕と自害したという。太平記には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあるとされる。(以下参考の「太平記 1 現代語訳」 の高時以下、北条家一門、自害参照)。これで、鎌倉幕府と北条氏は滅亡した。これが、元弘の乱といわれるものである。後醍醐は京都へ帰還し親政を開始した(建武の新政)。この建武の新政を経て「幕府」という武家政権による政治形態は、足利尊氏による室町幕府、そして、徳川家康による江戸幕府へと継承されていったのである。
楠木正成は河内国・石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)で、生まれ、下赤坂城で挙兵(赤坂城の戦い)したことで有名であるが、大阪府で唯一の村である千早赤阪村が、隣接する河内長野市への編入合併をを検討しているのだという。それぞれの市町村の事情があるのだろうが、このような歴史的に有名な地名が消えていくのかと思うと残念だよね~。以下参照。
市町村合併:大阪府唯一の村、千早赤阪村が河内長野市と合併検討
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070501ddm003010139000c.html
(画像の武者像は従来足利尊氏像といわれてきたが 、その確証はなく、高師直〔こうの諸なお〕像の可能性もあるという。週刊朝日百科「日本の歴史」より)」
鎌倉幕府-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C
Area 鎌倉時代
http://www.j-area2.com/japan/history/kamakura/index.html
鎌倉幕府
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/107140.htm
鎌倉時代
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
鎌倉の歴史
http://www.kamakura-burabura.com/rekisinennpyou.htm
太平記 1 現代語訳
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e01/e01.html
※弘安の徳政
http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/1284_kouantokusei.html



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2 コメント

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稲村ガ崎 (Linda)
2007-05-24 09:41:07
よーさん、おはようさんです。
♪七里ガ浜の磯伝い 稲村ガ崎 
 名将の 剣投ぜし古戦場 ♪
子供の頃、母に教えてもらって歌っていた歌です。
ブログを拝読していて突然思い出しました。

千早赤阪村に僕の高校の同級生が居ました。関学に受かっているのに神大に行きたいと2年浪人して、結局関学に行きました。田舎の御大家のボンボンだったから家の期待が大変やったのでしょう。
桂南光さんが千早赤阪村出身だと訊いたことがありますが、真偽のほどは解りません。
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名前が消える (よーさん)
2007-05-26 07:07:19
Lindaさん、千早赤阪村だけでなく、市町村合併によって、日本中の歴史ある名前が消えてゆくのは寂しいですね。
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