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みたらしだんごの日 (Ⅱ)

2010-07-03 | 記念日
糾の森は、今は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林であり、およそ12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)の面積がある。しかし、かつて京都に平安京が置かれた時代にはその約40倍約495万平方メートルの広さがあったという。それが、応仁の乱(このとき総面積の7割を焼失下と言われる)など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少したという。緑深く、水清かった平安遷都以前の山城国は、渡来人である秦氏などが開拓した稔り豊かな盆地あった。しかし、その中にあって、鴨族は八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族であるが、その鴨族が今の御所市周辺に移り、葛城川の岸辺に代々賀茂神社に奉斎し(鴨都波神社参照)、やがて、山城国葛野郡愛宕郡を支配した(この辺の事情は、以下参考の※8 が詳しい)。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家(神社に仕える神職)となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
賀茂県主の出自に関しては、大和国葛城の地祇系賀茂氏が、山代の国の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、さらにその一流が山城川(木津川)を下り、淀川との合流点から葛野川(桂川)を遡り、高野川と賀茂川(鴨川)が合流する地点までやってきて、そこから上流(北方)の賀茂川を望んで「狭くて小さいけれども、この石川は清川(すみかは)だ」と言ったので、鴨川のことを「石川の瀬見の小川」と名付けた。そして更に、賀茂川の上流久我の山基(久我神社がある。神話伝承によれば、賀茂氏の祖神の誕生の地である。かつてこのあたりは久我國を称していた。)に至り、その時から賀茂と呼ばれたことが「山城國風土記」に書かれている。(鴨族のことは以下参考の※8、※9、※10 ※11など参照)。
京都の鴨川は河川法上では、起点よりすべて鴨川の表記であるが、高野川との合流点より上流は、通例賀茂川・下流を鴨川と表記する。平安時代には流域により表記を区別していたわけではないがこれは、「KAMO(鴨・賀茂・加茂)」という言葉と「KAMI(神)」が同じ言葉だからで、もともと氏族名のカモ(賀茂)というカミ(神)が、川をカミ(上)の方へ遡ったことを示し、賀茂・神・上は連続した語であったからだという。
下鴨神社境内の糺の森は賀茂川と高野川の間に挟まれるように広がっていることから、この森は「河合の森」とも呼ばれている。この河合の森に入ると、すぐ左手に河合神社がある。下鴨神社の摂末社で、神武天皇の母・玉依姫命を祭神として祀っているが、この祭神は本宮の東殿に祭られている神武天皇の母・玉依姫命とは「同名異神」(神武天皇の御母神)だとしている。一説に、この神社は、鴨縣主の宗家である泉の館にあったのではないかという説がある。以下参考の※12:「延喜式神社の調査」河合神社の説明にあるように、古代からの社名が「鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社」とあるように、元は小社であつたが、平安時代の『延喜式』では名神社に加わり月次・相嘗新嘗の祭に預るなど朝廷から重視され、次第に大きく造り替えられてきたようだ。只洲社(ただすのやしろ)とも記すが、只洲は賀茂川と高野川の合流点であることからきており、糺の森の糾を意味しており、もともと秦氏の奉祀する河合神社の森であったらしく、鴨氏が秦氏の婿となり、祭祀権を譲られたようだ。
「糺の森」の「ただす」が何に由来するのかという点については、「只洲」の他、「偽りを糺す」の意とするほか、清水の湧き出ることから「直澄」、多多須玉依姫の神名に由来するなど諸説あるが、興味深いのは、通称木嶋神社また蚕の社で広く知られている京都市右京区太秦にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の元糺の池(もとただすのいけ)に由来するとする説である。同社は「木嶋に鎮座する天照御魂神の社」という意味であり、続日本紀の大宝元年(701年)の条に「木嶋神」の名前で登場する。「木嶋」という名前は、秦氏の土地にあった「蚕(こ)の島」からきたものとも、原野に茂る杜(元糺の森)の様が「木の島」のようであったからとされている。境内には本殿の東側に摂社の養蚕神社があるので、通称「蚕の社」の名前で親しまれているが、この神社のある嵯峨野一帯はかって、朝鮮半島から渡来し、日本に養蚕・機織・染色・醸造などの技術を伝えた秦氏ゆかりの地であり、この神社もそうである。本殿の西には「元糺の池」と呼ばれる泉があり、謎の多い三つ柱の石製鳥居が建っている。中央には依り代として円錐形に小石が積み上げられ、中心には御幣が立てられている。この様子は江戸時代の境内の様子を表した1780(安永9)年刊の『都名所図会)』にも描かれており、泉からは蕩々と湧水があったことが窺えるという(以下参考の※13参照)。3つの角(柱)の延長線上には双ヶ丘(秦氏のものと見られる古墳群がある)・松尾山(秦氏創建の松尾大社)・稲荷山(秦氏創建の伏見稲荷大社)があり、それぞれを指しているのだとか。古来この社は雨乞いの神としての信仰があったともいわれており、また禊の行場でもあったそうだ。土用の丑の日にはこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰もあり、ここでも、毎年、「足つけ神事」が行われている。「元糺の池」と呼ばれるのは、池を囲む森を「糺の森」と呼んでいたが、嵯峨天皇が木島神社から下鴨神社に名を移したので、ここが元祖と言う意味で「元糺の池」と呼ぶようになったと伝承されている。
秦氏は、上賀茂神社・下鴨神社の創建に関係が深いが、以下参考の※17:「葛野大堰」によれば、上賀茂神社の社伝によれば、上賀茂神社に祭られる別雷神の父、すなわち玉依比売の夫は火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、『古事記』はこの神が秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大宝元年(701)に建立した京都の松尾大社に祀られている大山咋神(おおやまくいのかみ)であるとしている。このため、秦氏と賀茂氏とは婚姻関係で結ばれていたこと、上下賀茂神社の神と松尾大社の神とは共通の姻族神であったことが窺えるという。
下鴨神社の摂末社河合神社北側に糾池跡がある。小さな社であるが、本殿は本宮の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
この河合神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれた鴨長明は、いろいろの事情によって、望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の地位につくことが叶わず強い厭世感を抱くようになり、やがて随筆『方丈記』を書くにいたったといわれている。この神社の境内に、鴨長明が暮らした方丈が復元展示されている。
糺の森の中を流れる小川は4つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられている。下鴨神社の御手洗川は、かつては鴨川・高野川・泉川からしみだした自然の池であったという御手洗池を水源としている。糺の森の東側を流れる泉川は高野川の支流である。奈良の小川は御手洗川に泉川の流れの一部が合流したもので、賀茂川の支流である瀬見の小川に取り込まれて糺の森の中央を流れている。
鴨長明ゆかりの社・河合神社から下鴨神社参道に出ると瀬見の小川がある(下鴨神社公式HPの境内地図参照)。
「石川や 瀬見の小川の清ければ 月も流れを たづねてやすむ」
【通釈】石川の瀬見の小川は、水が清いので、賀茂の神がここに鎮座されたように、月もこの流れを求めて射し、澄んだ光を川面に宿している以下参考の※7:千人万首の鴨長明 参照)
この歌は、もともとは、鴨長明が源光行主催の鴨社での歌合で詠んだ神祇歌であるが、ここに書かれて「石川の瀬見の小川」は、現在下鴨神社境内を流れている「瀬見の小川」ではなく、かつては河合神社のそばを流れていた賀茂川の上流の異称であることは先にも書いた通りである。「すむ」は、澄む・住むの掛詞であり、「住む」には神が住む(鎮座する)意が籠ってる。
長明は下賀茂神社の禰宜の家に生まれ当然、瀬見の小川や故事のことを当然知っていて、瀬見の小川の水鏡に映る月光の美しさに、賀茂神社の縁起(神がその流れ遡り加茂の地に鎮座した)を重ねて詠んだものであるが、加茂川の上流が瀬見の小川と呼ばれる事を他の参加者が知らなかったために、歌合の場では負けを喫した。後に長明は賀茂社の縁起にその旨の記述がある事を公にし、神社の秘事を軽々しく開示するとは何事かと賀茂社の神職たちの批判を浴びながらも、自歌が正しかったことを主張。この歌については、『無名抄』の「せみのを川事」に長明自身の詳しい記述がある(以下参考の※13参照)。この歌は人々の人気を博し、後に撰された『新古今和歌集』に収録されるに至っった。
しかし、このような神社の秘事を軽々しく開示する不用意さが災いしたことが、優秀な歌人にして随筆家であるにもかかわらず禰宜になれなかった大きな要因かもしれない。
「御手洗や清き心に澄む水の賀茂の河原にいづるなり 」と歌う能の「 賀茂」では、鴨の民と秦の民との融合が謳われている。以下参考の※:15:「能:賀茂ノ巻」も参照されると良い。
又、参考に記載の※16:「明神川と泉川」を、見ると上・下加茂(鴨)社に流れている小川のことが良く判るが、下鴨神社より北に位置する上賀茂神社を見ると、ここには、加茂川の支流である明神川が、境内に流入している。この明神川も下鴨社に流れる泉川も川と言う名前がついているが、実際は農業用水であり自然河川ではない。
上賀茂神社境内の中を流れる水流は、流れにしたがって名前を変えていくことで知られている。まず、賀茂川の明神井堰から取水された流れは、上賀茂神社本殿のそばでは、御手洗川と呼ばれる。一方、上賀茂神社の北東部、丸山と小丸山の間を通る蟻ヶ池からの流れと、小丸山の東側に位置する小池からの流れは、境内に流れ込む直前で合流し、御物忌(おものい)川という名で本殿前を通過する。これら二つの流れは本殿下流で合流し、橋殿をくぐると今度は楢(なら)の小川と呼ばれるようになる。さらに楢の小川は境内を南に流れ出ると、今度は又、明神川と名前を変え、境内付近に建てられた社家の家々の前を流れる川となる。このように神社の境内に流入した農業用は聖なる川として大きく姿を変え、参拝客などが身を清める禊(みそぎ)の川として古くから大切に扱われてきたという訳だ。又、現在の明神川の流末は暗渠になっていて水の行方が不明瞭になっているが、明治大正期あたりまでは泉川と合流していたそうだ。つまり、上賀茂神社の禊の川と下鴨神社の禊の川が一体となっていたわけだ。
下鴨神社の糺の森は、江戸時代より京の夏の避暑地として知られ、糺の森を流れる川の辺に茶店が建ち並び、船を浮かべた茶会のほか能(糺能)や相撲の催しが行われるなど庶民の納涼場として賑わっていたようだが、明治時代になると、下鴨神社は国の管理する神社となり、庶民の行事も次第に廃絶して納涼市の姿も消えてしまったというが、又、市民の努力で憩いの場として復活してきているようだ。
以下の図は、年代未詳だが、恐らく明治期のものだろうと思われる下鴨糺の森の御手洗池の茶店の光景である。貴重な写真だ。
長崎大学付属図書館:幕末・明治期日本古写真メタデーターベース:下鴨糺の森の御手洗池の茶店(2 )
(掲載の画像:1枚目みたらし団子、2枚目糺の森の清流「瀬見の小川」Wikipediaより)

みたらしだんごの日  (Ⅰ)

みたらしだんごの日  参考

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