今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

生姜の日(Ⅰ)

2010-06-15 | 記念日
日本記念日協会の6月15日の記念日に「生姜の日」が登録されている。
登録したのは、昨今の健康志向の高まりを背景に”冷え”対策など体を温めることに効果的とされてきた「生姜」に着目し、研究開発をしてきた(株)永谷園。同ホームページを見ると、登録の目的は、そんな生姜の魅力を多くの人に知ってもらうきっかけにてしてもらいたいためとか。(登録は2009年のようだ)。生姜は古来より、体に良い食材として、生活に取り入れられてきたもので、奈良時代からは神様への供え物として献じられているが、6月15日には、生姜の古名である「椒(はじかみ)を名乗る石川県金沢市の「波自加弥(はじかみ)神社」で、生姜を祀る「はじかみ大祭」が行われることからこの日が記念日としたようである。この日には、料理人、医薬業関係者らが多く参拝し、湯立て神事で調整されたショウガ湯を飲んで無病息災や料理の上達を祈っているそうだ(以下参考の※1参照)。
波自加彌神社「はじかみ祭り」の様子 ⇒ http://fcslib.tvkanazawa.co.jp/video_club/detail.php?mv_id=459
以下参考の※1:「はじかみ神主のぶろぐ」によると、由緒は、延喜式内の古社で旧社格郷社で、社名の「波自加彌」は当て字で、歯で噛んで辛)いものすなわち、ショウガ・サンショウ>などの古語で、『薑・椒(はじかみ)』を語源としており、日本で唯一「生姜・山椒など香辛料の古称「薑=はじかみ」の神を祀る神社であるとしている。
創建は養老元年(718年)で、現在地より2キロ後方山手にある四坊高坂に鎮座していたが、源平合戦により社殿を焼失。現在地の田鹿(たぢか)八幡宮に遷座され、復合の神社となったが、後正四位上の神階をもつ波自加彌神が八幡神より上位と考えて、社名を今のものに変更したそうである。境内には、神功皇后三韓征伐の折、朝鮮半島より医薬としての生姜を我が国に初めて伝えた、朝臣武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を祀る摂社屏堂(せっしゃじんべいどう)が鎮座しており、生姜の古名を名乗る本社との関係が伺える。奈良時代、この地方が大干ばつに見舞われた時、国造(くにのみやつこ=現在の知事)が雨乞いのために当社に籠(こも)りました。すると、37日目の満願日に霊水が湧き出して人民は救われました。人々は神に感謝し、供え物をしようと思いましたが、長く続いた旱魃(かんばつ)のため供える物がなかなか見つからず、たまたま干天下(かんてんか)にも自生していた生姜を捧げました。それがこのお祭りの起こりとなりました。現在もその霊泉「黄金清水」は、旧社地である四坊高坂町にコンコンと湧き出しております。“とある。ただ、ここには書かれていないが、以下参考の※2:「石川県神社庁・波自加彌神社」には、“田鹿八幡宮にとっては、庇(ひさし)を貸して母屋を取られた格好になっている。古くはこの地方一帯が生姜の栽培地であったので、守護神として波自加彌神を祀ったことが起源とされているようだが、田近郷(たぢかごう)の総社として、その地名が田近、田鹿、波自加彌と転語したとの説もあるようだ。”・・・との記載がある。社名の変更がいつかは明確でないが恐らく神仏分離が推し進められた江戸時代中期後期以後ではないかと私は思っている。又、以下参考の※2:「神社と神道」には、※1:の霊泉「黄金清水」の下りは以下のような書き方になっている。
“奈良時代に、加賀国で数ヶ月間降雨がなく、草木はことごとく枯れ、牛馬や家畜、人にいたっても多くが渇死したので、国造(くにのみやつこ)が雨乞いをするため当社に社参し、身を清め断食して祈願すること37日目の満願の日、近くの谷より金色の光が輝いているのを発見し、不思議に思ってその場所に赴くとこんこんと霊水が湧き出ていました。”・・と。恐らく、同ブログでは最初はそのような書き方になっていたのではないかと思うが、この文中にある「金色の光が輝いているのを発見し、不思議に思って・・・・云々」・・・は、どこかで聞いたような文言である。
しかも、何故、干ばつの為の降雨祈願に、自生していたショウガを供え祈願して雨が振ったからといって、生姜や山椒など香辛料の古称である薑=はじかみの神を祀る神社になったのか今1つ、私にはよく理解できないでいる・・・・。
古事記』『日本書紀』)の神武東征話の中に出てくるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)は、日向の地に降臨した天孫(天孫降臨ニニギの孫とされている。初代天皇として名を残している神武天皇という名は、8世紀になって、カムヤマトイワレビコに送られた称号・漢風諡号であるが、便宜上、この後の話は神武天皇として進めよう。
初代君主・となった神武(イワレビコ命)は、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと言って、長兄の彦五瀬命ら3人の兄弟と日向を発ち、宇佐、安芸、吉備、河内、熊野、吉野を経て、大和に入りそこを平定して橿原(現在の橿原神宮境内が伝承地)の地に都し、初めて位(大王。後天皇と号するようになる)についた(紀元前660年)と言うのが、記・紀の語る神武の東征伝説である。『日本書記』と『古事記』では、東征に出た後の経路など細部は若干異なるものの話の大筋はほぼ同じである。
神武(イワレビコ命)は日向より船で東征に出た途中あちこち立ち寄り、安芸で軍備を整えたうえで、神武の軍が初めて浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)へ入ろうとすると、この地(大和)を支配する長髓彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、長兄・彦五瀬命は亡くなる。神武の軍は、太陽に向かって攻撃するのが良くないとして、熊野の方に迂回するが、このとき、暴風に遭い、後の2人兄弟も亡くしている。兄達兄弟を全て亡くした神武は、息子の手研耳命(タギシミミ)とともにやっとの思いで、熊野に着くが荒らぶる土地の神があらわれその毒気に当てられたりする。東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を授け、その剣の霊力により助けられる。また、この地の地理に疎い神武は、険しい山の中を、天照大御神より送り込まれた八咫烏(やたがらす)に導かれて、無事に越え、吉野、莵田(宇陀)へと進軍。道臣命)らを用いて兄宇迦斯(えうかし。大和の磯城(しき)地方 〔磯城の地は、菟田から大和へと通じる要害の地〕を支配していた豪族。以下参考の※:4の磯城氏考参照)、土雲八十梟帥 (やそたける)らを滅ぼし、いよいよ、宿敵長髓彦の軍と再度戦うこととなった。しかし、連戦しても一向に勝てず、常に苦戦したが、金色に輝く鳶(とび)が神武の弓にとまり、まるで稲妻のように光り輝き、それに眩惑された長髓彦の軍が戦意を喪失したところを攻め、長髄彦を打ち、橿原の地に宮を築き、即位して、大和王権を樹立したというのが、記紀の語る神武東征説話の大要である。
・ ・・・?これだ・・・先に書いた波自加彌神の由緒の中で私が聞いたことのある文言「近くの谷より金色の光が輝いている・・・・云々」恐らくこの、『古事記』の神武東征の中に出てくる「金色に輝く鳶」を、イメージしての文言であろう・・・これを念頭に置いておこう。
大和地方で神武東征に最後まで抵抗したこの豪族の長・長髄彦は、旧添下郡鳥貝郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。記紀では「長髓は是邑(ゆう)の本の號なり。因りて亦以て人の名とす。」と説明している。又、天皇の軍が鵄の瑞祥(ずいしょう)をえて勝利したことから、「皇軍の、鶏の瑞を得るに及りて、時人乃りて鶏邑と號く。今鳥見と云うは、是訊れろなり」。これが金鵄勲章の元になった金の鵄である。強烈な雷の象徴なのなのだろう。一説には、このとき飛来した金鵄は金山彦神が遣わしたものだともいわれているそうだ(以下参考の※:4の神武東征参照)。記紀の話を書けば限りがない。神武東征の話など興味ある人は以下参考にある日本の神や氏族などの関するものを参照されるとよい。
『古事記』は物語中心の記述法であるが、そのなかに多くの歌謡が挿入されている。神武天皇の東征の際、神武が歌を詠み、天忍日命の後裔であり、大伴氏の祖である道臣命と共に大活躍した久米部によって、士気を鼓舞する為に歌われたのが久米歌(来目歌)であり、6種ある(久米氏については以下参考の※5:「海神の国」の久米氏・山部氏参照)。そのうち、長髄彦をうち倒そうとした際に唄われた「久米歌」の中の2番目の歌に「はじかみ」の名が出てくる。それが以下の歌である。
「美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟」『古事記』
【現代訳】〔みつみつし 久米の子等が 垣下(かきもと)に 植ゑし椒(はじかみ) 口疼(ひひ)く 我(われ)は忘れじ 撃ちてしやまむ〕
【通釈】いさましい久米の者どもの、陣営の垣の下に植えた山椒。その山椒じゃないが、口がひりひりするような恨みを俺は忘れないぞ。やっつけずにおるものか。
「疼(ひひ)く」は「ひりひりと刺す様に痛む」ことであり、この歌では、山椒の激しい辛さが何時までも忘れられないと、かつての戦いで兄を殺された怨みを忘れないといっているので、「ハジカミ」が「ショウガ(生姜)サンショウ(山椒)」などの古語とする説もあるが、この歌に出てくる「ハジカミ」はどう見ても「ショウガ」ではなく「サンショウ」のことである。
因みに、久米部は神武東征で軍事的役割を担った海人族のようだが、膳夫(かしわで。食膳を供する)の職掌に関する事柄や、海神としての生活体験だけでなく農耕の体験からと思われる事柄も歌われていことに注目される。

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2 コメント

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「薑」で検索して参上? (甚七)
2011-03-08 09:39:15
山椒の日があるとは、知りませんでした。

今日も少し成長したことを実感させて戴きました。ありがとうございます。
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お礼 (よーさん)
2011-03-08 14:08:14
甚七山、ブログ見てくれて有り難う!
私は、このブログ・・ボケ防止、勉強のつもりで書いています。
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