今日(1月21日)は、「ライバルが手を結ぶ日」
1866(慶応2)年の今日(1月21日)、それまで敵対していた長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見し、倒幕の為に薩長同盟(薩長連合)を結んだ。
幕末の転換点となった薩長同盟は、江戸時代後期の1866(慶応2)年1月21日(旧暦)に、幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864(元治元)年の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝(つて)のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により巨頭会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都薩摩藩邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が倒幕運動に協力する六箇条の同盟が成立したといわれている。
以前にNHKの「その時歴史が動いた」の中で、この時の薩長の結びつきに関しては、”当事者たちがつけた名称は存在せず、「薩長連合」「薩長同盟」といった呼び方は、後の研究によってつけられた呼称である。しかも、近年、薩長が合意した六箇条の内容について研究された結果では、「薩摩藩が○○の行動をする」という内容であり、長州側の行動に関する内容が含まれていないことが、着目された。この場合、「同盟」(国家が互いに共同の目的のために同一の行動をとることを約すること「広辞苑」)とは言い難く、「盟約」(固く誓い、約束すること「広辞苑」)と呼称した方が適切なのではないか、という意見が増えつつある。そして、その条項を保証する文書を、土佐脱藩浪人・坂本龍馬は記している”といっていた。
この件については、以下参考の「『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)」にもう少し詳しく書かれている。
又、薩長同盟(盟約)は、あくまで薩長の代表が口頭で約束したものであり、正式な条約文書を取り交わしたり、署名等をおこなったりはしていないので、、どの時点をもって締結日とするかを示す明確な史料もなく、当事者たちの行動等の状況証拠から、21日説と22日説に分かれているようだ。
幕末の転換点となった薩長同盟を、どうして、土佐脱藩の一介の浪人である坂本龍馬らは果たす事ができたのだろうか?
坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走し、薩摩の西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを整えたにもかかわらず、西郷がすっぽかしたために薩長和解工作は失敗に終わっていた。
坂本龍馬は同時進行で、土佐脱藩の仲間20人ばかりとと共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織(1865(慶応元)年閏5月)していた。亀山社中は、私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社であった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努めていた。
この頃、長州藩は、相次ぐ戦いに備え最新式の武器と軍艦を必要としていたが、幕府諸藩は、長州への武器弾薬類の取引を全面的に禁止していた。一方、薩摩藩では兵糧米の調達に苦心していた。この両藩の状態をみた龍馬はひとつの策を考えた。それは、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持ち、双方の利潤になる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
この策略が、両藩に承諾され、亀山社中は、トーマス・ブレーク・グラバーの助力を得て海外からの武器調達を開始。幕府との対立により海外から武器を調達できない長州藩への武器融通を通じて薩摩藩との対立関係を緩和し、薩長同盟の実現に道をつけたのであった。グラバーは、以降、 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売している。彼の邸宅跡はグラバー園として公開され、長崎の観光名所として知られている。
それまで敵対していた薩長のこの同盟が、江戸から明治へと時代を大きく動かすことになったのであるが、この仲介をした立役者である、土佐の坂本竜馬は、1867(慶応三)年12月、京都の旅寓(りょぐう=旅宿)・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺され、日本の夜明けを見ることはできなかった。暗殺犯は、見廻組という説が有力であるものの暗殺をした 犯人が誰かは今もって不明であり、諸説あるが、中には、大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする薩摩藩陰謀説もある(暗殺参照)
。
この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情のようであるが、小泉内閣時代の郵政民営化に反対した政治家に刺客を差し向けた自民党は、阿部内閣になると反対派議員を自民党に復党させ、刺客として差し向けた議員は、使い捨てにしようとしている。
昨日の敵と今手を結んでいるかと思うと、今の見方は、明日になればばっさり切るのが、政治の世界ということか。竜馬の暗殺もその真実は分からない。
(画像は、左:薩摩の西郷隆盛と右:長州藩の木戸孝允。フリー百科事典Wikipediaより)
薩長同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
薩長同盟
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/202360.htm
その時歴史が動いた・出来事:薩長同盟(盟約)が締結される
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_10.html
『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/satumaji11.htm
亀山社中 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E7%A4%BE%E4%B8%AD
亀山社中と海援隊
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse020.html
1866(慶応2)年の今日(1月21日)、それまで敵対していた長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見し、倒幕の為に薩長同盟(薩長連合)を結んだ。
幕末の転換点となった薩長同盟は、江戸時代後期の1866(慶応2)年1月21日(旧暦)に、幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864(元治元)年の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝(つて)のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により巨頭会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都薩摩藩邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、薩摩藩家老の小松帯刀と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が倒幕運動に協力する六箇条の同盟が成立したといわれている。
以前にNHKの「その時歴史が動いた」の中で、この時の薩長の結びつきに関しては、”当事者たちがつけた名称は存在せず、「薩長連合」「薩長同盟」といった呼び方は、後の研究によってつけられた呼称である。しかも、近年、薩長が合意した六箇条の内容について研究された結果では、「薩摩藩が○○の行動をする」という内容であり、長州側の行動に関する内容が含まれていないことが、着目された。この場合、「同盟」(国家が互いに共同の目的のために同一の行動をとることを約すること「広辞苑」)とは言い難く、「盟約」(固く誓い、約束すること「広辞苑」)と呼称した方が適切なのではないか、という意見が増えつつある。そして、その条項を保証する文書を、土佐脱藩浪人・坂本龍馬は記している”といっていた。
この件については、以下参考の「『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)」にもう少し詳しく書かれている。
又、薩長同盟(盟約)は、あくまで薩長の代表が口頭で約束したものであり、正式な条約文書を取り交わしたり、署名等をおこなったりはしていないので、、どの時点をもって締結日とするかを示す明確な史料もなく、当事者たちの行動等の状況証拠から、21日説と22日説に分かれているようだ。
幕末の転換点となった薩長同盟を、どうして、土佐脱藩の一介の浪人である坂本龍馬らは果たす事ができたのだろうか?
坂本龍馬は中岡慎太郎たちと共に薩長和解にむけて奔走し、薩摩の西郷隆盛が京都へ上京する際、下関へ立ち寄り、長州の木戸孝允と会談する手はずを整えたにもかかわらず、西郷がすっぽかしたために薩長和解工作は失敗に終わっていた。
坂本龍馬は同時進行で、土佐脱藩の仲間20人ばかりとと共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織(1865(慶応元)年閏5月)していた。亀山社中は、私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社であった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努めていた。
この頃、長州藩は、相次ぐ戦いに備え最新式の武器と軍艦を必要としていたが、幕府諸藩は、長州への武器弾薬類の取引を全面的に禁止していた。一方、薩摩藩では兵糧米の調達に苦心していた。この両藩の状態をみた龍馬はひとつの策を考えた。それは、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというもので、その間を龍馬が率いる亀山社中が取り持ち、双方の利潤になる取引をもって両藩の和解を図ろうと考えたのである。
この策略が、両藩に承諾され、亀山社中は、トーマス・ブレーク・グラバーの助力を得て海外からの武器調達を開始。幕府との対立により海外から武器を調達できない長州藩への武器融通を通じて薩摩藩との対立関係を緩和し、薩長同盟の実現に道をつけたのであった。グラバーは、以降、 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売している。彼の邸宅跡はグラバー園として公開され、長崎の観光名所として知られている。
それまで敵対していた薩長のこの同盟が、江戸から明治へと時代を大きく動かすことになったのであるが、この仲介をした立役者である、土佐の坂本竜馬は、1867(慶応三)年12月、京都の旅寓(りょぐう=旅宿)・近江屋(京都市中京区)で何者かに中岡慎太郎と共に暗殺され、日本の夜明けを見ることはできなかった。暗殺犯は、見廻組という説が有力であるものの暗殺をした 犯人が誰かは今もって不明であり、諸説あるが、中には、大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする薩摩藩陰謀説もある(暗殺参照)
。
この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情のようであるが、小泉内閣時代の郵政民営化に反対した政治家に刺客を差し向けた自民党は、阿部内閣になると反対派議員を自民党に復党させ、刺客として差し向けた議員は、使い捨てにしようとしている。
昨日の敵と今手を結んでいるかと思うと、今の見方は、明日になればばっさり切るのが、政治の世界ということか。竜馬の暗殺もその真実は分からない。
(画像は、左:薩摩の西郷隆盛と右:長州藩の木戸孝允。フリー百科事典Wikipediaより)
薩長同盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E9%95%B7%E5%90%8C%E7%9B%9F
薩長同盟
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/202360.htm
その時歴史が動いた・出来事:薩長同盟(盟約)が締結される
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_10.html
『激動の明治維新』見学②-坂本龍馬による薩長同盟覚書-(薩摩旅行記)
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/satumaji11.htm
亀山社中 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E7%A4%BE%E4%B8%AD
亀山社中と海援隊
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse020.html