今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

六斎日(Ⅰ)

2010-03-30 | 行事
今日は「六斎日」
「六斎日」は、仏教で、持戒(戒律参照)して慎むべき日とされていた日。
斎日は、身・口(く)・意の三業(さんごう。参照)を清浄にしてものいみ(斎=い)する日をいい、月のうち、8日、14日、15日、23日、29日、30日の6日いを慎むべき日としており、この6日を六斎日とし、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称したようだ。
これは、中国の唐代に百丈懐海(ひゃくじょう えかい)が制定した禅宗叢林(そうりん。寺院のこと)の修道生活を律した規範である禅門の規範(清規)『百丈清規』によると、隋の開皇3年(583年)からは、皇帝の命で正月・五月・九月の三斎月および六斎日には祈祷道場を建てて祈り、殺生をしないようにというおふれを出したということが書かれているそうだが、これは、インドにおいて、古来からこの六斎日には鬼神が人を追って命をうばったり、病や悪い事をする悪日なので、身を慎み、沐浴・断食をして過ごす風習が行われていたが、この風習が仏教にも受け入れられて六斎日には八斎戒を守るようになったのだという。(以下参考の※:「仏事Q&A其の四十一」参照)
これが日本に伝わったものだが、六斎日の歴史は古く、文献上では、日本書紀持統天皇の条に六斎日が見られ、持統5年(691年)2月、公卿らに詔して六斎を行わせた・・・ともいわれているようだが、続日本紀の天平13年(741年)3月乙巳(24日)に、聖武天皇の詔(以下参考の(※:続日本紀(朝日新聞社本)、 ※:市川歴史散歩・国分寺・国分尼寺の世界の『続日本紀』巻第十四参照)にも見られる如く、律令制における令にもこの日は殺生を禁じる規定があり、出家したものは布薩説戒を行い、在家のものは八斎戒を守ることとしていたようだ。
この六斎日にちなんで月に6回行われる市が「六斎市」、月に3回行われるものは「三斎市」と称されるようになったのだが、このことに関して、以下参考の※:「仏教談議 法話 聖徳太子 推古天皇 蘇我氏 日本書紀」のなかに以下のように記されていた。
「推古九年(601年)春三月、三と八の日に、三輪の里に市をたてる。これより毎月六度の市(いち)がひらき、これを六斎市(ろくさいいち)とよんだ。わが国の商業の始めである。」・・・と。
日本の律令制は、概ね7世紀後期(飛鳥時代後期)から10世紀頃まで実施されたが、そのうち、8世紀初頭から同中期・後期頃までが律令制の最盛期とされている。6世紀末期から7世紀初頭の推古天皇の時代に、律令制を指向する動きがあったとする見解があり、確にこの時期に冠位十二階の制定などの国制改革が行われたが、政治・社会体制を大きく変革するものではなかった。当時の朝廷は、との交渉の中で、律令制とその基本理念を知る機会はあった(遣隋使の恵日らが623年に帰国したの律令制について報告を受けている)だろうが、それを実行に移す能力は未だ朝廷に備わっていなかったと思われる。しかし、推古9年(601年)には、三輪の里に六斎市が立っていたというのである。
奈良県桜井市の南東部にそびえる三輪山(みわやま)は、縄文時代又は弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られていることからこの一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。『記紀』には、三輪山伝説として、桜井市にある大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の伝説が載せられている。太古より神宿る山とされる三輪山そのものが神奈備神体山)であることから、大神神社は本殿を持ってない。
そんな三輪の里に推古9年(601年)市が立ったという。週間朝日百科「日本の歴史 47号」によると、古代、モノが商品として交換されるには、ある条件を備えた場が必要であったという。つまり、モノとモノとが交換されるということは、ある特定のモノであることから一旦離れなければならず、そうでなければ、モノは、贈与・互酬(互いに物品や役務などを交換すること)の関係、人間関係から離れられないと考えられていたようで、「市場」は、古くから、日常のモノから離れた無縁の場として設定されてきたようだ。つまり、「神の支配する場」市場に持ち出すことによって物品は俗界の縁から切れた「無縁」のもの「聖なる」世界のものとなり、相互に交換することが可能になると勝俣鎮夫(2000年静岡文化芸術大学教授)は「市と虹」の中で述べているという。
中世の史書や貴族の日記には、虹の立つところに市を立てなければならないと言う慣行が存在したと記されているそうだ。世界の多くの国の民族神話として「虹」は、天と地との間の橋との認識をもっているようだが、日本でも「虹は天国から地上に向かって出る」「虹は天の橋」等の伝承があり、『日本書記」『古事記』の創生神話(日本神話参照)に見られる』「天の浮橋(あめのうきはし。天沼矛参照)」を虹と解することが可能であり、天神が虹を通って下界へ降りてくる・・。つまり、虹が天界(他界)と俗界とを結ぶ橋・・と信じられていたようだ(以下参考の※:「Iris〔イーリス〕」参照)。そうなれば、虹の立つところは天界と俗界の境にある出入り口で、神々の示現する場であり、そのため、虹の立つところでは神迎えの行事をする必要があり、その祭りの行事そのものが市を立て、交換を行なうことであったらしい。
日本の市の起源は、主としてその語源を探ると、身を清めて神に奉仕する「斎(いつき)」と言う語に結び付けられており、「斎(いつ)く地(ち)」が「イチ」と縮んだとされているようで、この語源説が妥当性を持っていることは、中世の市が三斎・六斎という「斎日」に立てら、「三斎市」「六斎市」といわれたのも、この日が天界から四天王が、下界に下りてくる日とされたからであり、平安時代中期の作とされる『枕の草紙』には「おぶさの市」と言う市名があげられているが「おぶさ」は虹をさす言葉であり、当時に、虹の市が現実に存在していたことになる。そのほか、古代の市には「阿斗桑(あとくわ)の市」・「海石榴(つば)市」など木の名を冠した市が多く見られるが、『枕草子』第11段“市”には以下のような市の名が書かれている。
“市は、辰の市。里の市、海柘榴市。大和にあまたある中に、泊瀬に詣づる人のかならずそこに泊るは、「観音の縁のあるにや」と、心ことなり。をふさの市。飾磨の市。飛鳥の市。 ”・・と(以下参考の※:「古典文学講座 『枕草子』の世界」 より)。
この木と市の関係も虹と市との関係と同じで天に向かってそそり立つ大木が、天の神々が降りてくる神の依代(よりしろ)とされ、そこが、虹の立つ場と同じく天界と俗界の境界領域とされ、固定的な市の立つ場となった。同じく、市と密接な関係をもち、イチコ・イタコなどと呼ばれる巫女も、この観点から言えば神を呼び出す媒体としての役割を担っていたことになる。このように、原始的な市は神々がこの世に現れる場であることがその本質であり、交換する場である市としての機能は、その非日常的で特殊な空間という特質と深く結びついていたものであったようだ。古代の市はたんに売買としての場としてのみ存在していたのではなく、神の存在を前提として種々の機能をもっていたが、市本来の売買を含めた広い意味での交換機能を持っていたことは言うまでもない。見知らぬ男女が歌をかけあうことを通して求婚する歌垣は市で行なわれることが多かったようだ。又、市の状況がそこにある木と結び付けられて万葉集にも歌われている。
「海石榴市の八十のちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも 」 (巻十二-2951)
「八十(やそ)のちまた(街)」とは、たくさんの道が分かれるところを指し、人びとの行き交う交差点であり、人の集う広場でもある。意味は、“海石榴市(つばいち)のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、せっかく結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことだ”と言った意になるのだろう。「結ぶ」はイワウ」とも読み、「祝う」に通じる言葉でもある。『万葉集』には紐の歌は約50首にものぼるというが、紐を結ぶことには、紐の結び目に想い(魂)を込めるの呪術的な祈りがあり、歌垣で紐を結びあうのは、結婚の約束である。
以下参考の※:「神話の森・>歌語り風土記海石榴市」又、※:「万葉散歩>奈良県桜井市金屋、海石榴市、歌垣」にもあるように、 海石榴市(つばいち)は、わが国最古ともいはれる市で、三輪山の南麓の初瀬川べり(桜井市金屋)にあったそうで、海石榴市とは椿市の意味で、山の民が持参した山づと(土産)の椿の木を市に植ゑ立て、山姥(やまうば、やまんば)がまづ鎮魂の歌舞をして、里の民と交流したものが起源といはれているようだ。「八十のちまた」と謡われているように、四方八方から主な街道がこの地で交わり、山全体が御神体という「三諸(みもろ)の神」(三輪山のこと。参考の※:「やまとうた」の千人万首-高市皇子の歌参照)の麓という土地柄もあって人が集まりやすく、ここで物の交換が行なはれ、やがて市として発展していったようだ。市は、歌垣の場でもあり春と秋に、若い男女が出会いを求めて海石榴市に集まってきて恋の歌のかけ合わせ(片歌の交換)をして、男性が首尾よく女性の名前を聞き出せば結婚の了解を得たことになった。
そんな、市は単なる未婚の男女だけでなく既婚の男女の交歓も許された場であったようだ。このような交歓も広い意味での交換と捉えれば、市場に入った人達はすべて自由な交換可能な人間に転化すると考えられていたようだ。「市場」は「市庭」とも書かれるが、目に見えない力に支配された"庭"でもあったわけだ。

六斎日(Ⅱ)へ続く

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