今日「7月7日」は、「竹・たけのこの日」
全日本竹産業連合会が1986(昭和61)年に制定。
日本缶詰協会等の産物関係者の話し合いの席上で「竹取物語のかぐや姫が竹の中から生まれた日は7月7日ではないか?」という話になり、この日に決定されたという。
かぐや姫の誕生日が「7月7日」・・・というのは、どこから出てきた話か知らないが、我が国の民俗行事の一つである7月7日の「七夕」の由来については、数多くの要素が混ざり合って形成されたものであり、竹取物語などとも関係のない話ではなく竹とも縁のある話でもある。
私たちが知っている.『竹取物語』は、日本最古の物語とされる。また、その話は、日本人の誰もが、幼い頃から童話の「かぐやひめ」として、聞かされてきたものでもある。
この物語では”ある日、竹取の翁が竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹があった。切ってみると、中から9センチほどの美しい人が出てきたので、自分たちの子供として育てることにした。その日から竹の中に金を見つける日が続き、竹取の翁の夫婦は豊かになっていった。小さな女の子は、3ヶ月ほどでこの世のものとは思えないほどの美しい姫に成長し、「なよ竹のかぐや姫」と呼ばれる。5人の公達や帝からの求婚を難題をだして退け、帝の求愛も受け入れることなく、八月十五夜の月の使者に迎えられ、嘆く竹取の翁と帝を残し、月世界へと去っていく話が語られている。最後の場面では、月に帰るかぐや姫が帝に文と不老不死の薬を渡す。悲しみにくれる帝は、これをかぐや姫が昇った天に一番近い山、つまり日本で最も高い山で焼かせる。その後、その山は「富士の山(不死の山)」と呼ばれるようになったと書かれている。
『竹取物語』は、紫式部が書いた『源氏物語』の「17・絵合(えあわせ)の巻」には、藤壺中宮の御前で物語絵合せが行われた時の様子が描かれている。
原文は、以下参照に記載の「源氏物語の世界」の「17・絵合」の第二章 後宮の物語、第四段 「竹取」対「宇津保」を見られると良い。
まづ、”物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。”とあり、最初に、物語の祖である『竹取物語』に対して『宇津保物語』の俊蔭の巻を戦わせる。
「物語の出で来はじめの祖なる」という言葉は、『竹取物語』の位置付けを示す言葉である。「『竹取物語』は、古くから伝わる物語だから、目新しいこともないけれども、かぐや姫がこの俗世にもけがれず、遠くの月の世界に帰ろうという決意を変えなかった前世からの約束は、神代のことであるから、浅はかな女は、見ても分からないでしょう」と左の斎宮の女御の方はいう。
それに対して、右の弘徽殿の女御の方は「かぐや姫が昇天したという空はたしかに手が届かない所であるから、誰も分からない。この世では竹の中に生まれるという約束だったので、身分は低い者の話と思われる。一軒の家の中は明るく照らしただろうけれども、宮中の恐れ多い帝の光とは並ぶことがなかった。阿倍のおほしが千金を投じて手に入れた火鼠の皮衣がたちまち燃えてなくなったのも、たいそうあっけないことだ。車持の親王が本当の蓬莱山の事情を知りながら、偽物を持参して疵を付けたのがよくないと言う。更に、絵は巨勢(こせ)の相覧(おうみ)が描き、説明の言葉は紀の貫之が書いている。紙屋紙〔:巻物用の紙〕に中国渡来の織り物で裏打ちして、赤紫色の表紙、紫檀の軸はよく目にする表装である。」・・・と言っている。
これらのことから、『竹取物語』は平安時代初期に紀の貫之が書いたと考えられ、それまでの神話・伝説・説話といった「語り」とは異なる方法で書かれた物語である。そして、この物語りは、『今昔物語集』の竹取の翁説話のように求婚者3人から竹取物語の5人に改作されたとも考えられている。しかし、『チベットの民話「斑竹姑娘(はんちくこしょう)」には、5人の若者の求婚難題譚があり、求婚者たちの失敗が竹取物語と類似しているといわれているし、また、中国の『後漢書』には、竹の中から人が生まれるという内容が記されているという。もともと、これらのものが取り入れられていたのかもしれない。
『竹取物語』は主人公「竹取の翁」「かぐや姫」そして、5人の貴公子の名前などがすでに存在している名前を用いたものであることや、いくつかの伝承の型、が取り入れられているところに、この物語の方法に特色がある。[○かぐや姫の誕生(竹中生誕説話)○竹取翁の長者譚(致富長者説話)○五人の貴人の求婚(難題求婚説話)○帝の行幸(相聞説話)○かぐや姫の昇天(昇天説話、羽衣伝説)○ふじの煙(地名起源説話)などが取り込まれている。]
又、私たちが知っている「竹取物語」は、平安時代のものだが、竹取の翁の名前は「さぬきのみやつこ」つまり「讃岐の造麻呂」といい、この人は大和国広瀬郡讃岐郷に住んでいた讃岐氏の一族と言われ、その讃岐氏とは讃岐国(現在の香川県)を支配していた斎部氏の分家で、この斎部氏は祭祀を司る一族であることから、讃岐の造麻呂も祭祀を司る人物と推測できるという。また、 『古事記』には、讃岐垂根王(サヌキネタリネノミコ)と言う人物が出てくるそうで、彼の兄弟に大筒木垂根王(オオツツキタリネミコ)という人がいるというのである。
『古事記』のカグヤヒメノミコト(迦具夜比売命)は第十一代・垂仁天皇の后の一人であるが、その曾祖母の名をタケノヒメ(竹野比売)、そして、その父の名が、オオツツキタリネミコ(大筒木垂根王)だという。つまり、祖母の名はそのまま竹で、父の名も筒になった木、つまり竹に通じるため、カグヤヒメは「竹から生まれたかぐや姫」のモデルになってもおかしくはない人物ではないかと言われている。また、『万葉集』にも「竹取翁(たけとりのおきな)」の話が載っている。[『万葉集』巻十六の竹取翁の歌(3791~3802、序および長・反歌と娘子たちの和した歌9首)]。この話も、「竹取物語」の元になった話の一つかもしれないが、内容は大きく違っており、直接は関係なさそうだ。
かぐや姫が八月十五夜に昇天するのは、遣唐使や日中交流によってもたらされた中秋の名月観賞の影響だろうといわれているが、古代、中国でも日本でも、月はしばしば不老不死のイメージと重ねられて伝承されていたようであり、『万葉集』巻十三には、次のような歌がある。
「天橋も長くもがも高山も高くもがも月夜見の持てるをち水い取り来て君に奉りてをち得てしかも」(3245)
つまり、天に渡れる長い橋や、天まで届く高い山があったなら、月世界で月読命が守っているという若返りの水を取ってきて、主君にささげ、その老いを止めることもできるのにという嘆きの歌である。満ち欠けをくりかえす月に、衰えてはまた若返る永遠の命を見るという想像は古代人にとっては、自然なイメージであり、月と不死のイメージが重なっていたようである。
そして、このようなイメージがあればこそ、かぐや姫が帰る先は月でなければならなかったのであろう。かぐや姫の迎えが月から来てこそ、その迎えのもたらした不死の薬を帝に献ずるという筋立てが首尾一貫してくるのである。
また、かぐや姫に求婚する貴族の5人の貴公子(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足)には、「大伴御行(おおとものみゆき)」など、その名前から、天武天皇側について、壬申の乱で活躍した人々を思わせる方法をとったのは貴族批判のカムフラージュだったのかもしれない。「大伴御行」は、平安時代に活躍する伴氏の先祖で、この伴氏、866年に起こった応天門の変により失脚、政界より追放されている。
ところで、「竹」は道具の材料になるだけではなく、古くは薬用にも重宝していた植物だったそうで、日本古来の和方医学について記した『大同類聚方』や『医心法』にも筍や竹を用いた薬の作り方が多数収められているという。その効能としては美肌、熱さまし、解毒、止血、咳止めと多様で、調剤にも用いられているのだとか。薬は、もともと古代中国での薬方だったものが渡来人によって伝えられたものが多いだろう。『竹取物語』の最初は、”いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、たけをとりつつ、よろづのことにつかひけり。・・・とある。『竹取物語』の翁が姫を見つけてから、竹の中に金を見つける日が続きお金持ちになるが、かぐや姫の原型は日本に製薬を伝えた渡来人が竹から薬を作って大もうけしたのかもしれないな~。しかし、筍栽培などが有利な経営であったときに拡大した竹林面積が、近年、竹の利用が減ったことや、近隣諸国から筍が大量に輸入されるようになったことから、竹林が放置され、自然拡大でどんどん広がり、木を枯らすようになったとして、悪者扱いになっているようだ。今日の「竹・たけのこの日」を設定した理由も、そのよう状況を、七夕と関連付けて、私達に竹について理解をしてもらおうという趣旨かもしれないね~。
7月7日「七夕」のことについては、以前のブログ、今日(7月7日)は「七夕」で書いたのでここで見てね。→ ここ
(画像は「竹取物語」 - 電子書籍eBookJapan/監修:平田 喜信 まんが:岸名 沙月)
参考:
竹取物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
竹取物語
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taketori.htm
竹取物語/竹取翁に関連した歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/
源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
『源氏物語』拾い読み
http://homepage1.nifty.com/totoya/genji/genji.html
かぐや姫考目次
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kaguyahimetop.htm
紀貫之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B
壬申の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
応天門の変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
箕と竹の歴史
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-48.html
全日本竹産業連合会
http://www17.plala.or.jp/jba/index.html
巨勢(こせ)の相覧(おうみ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E6%B4%BE
変若水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%8B%A5%E6%B0%B4
全日本竹産業連合会が1986(昭和61)年に制定。
日本缶詰協会等の産物関係者の話し合いの席上で「竹取物語のかぐや姫が竹の中から生まれた日は7月7日ではないか?」という話になり、この日に決定されたという。
かぐや姫の誕生日が「7月7日」・・・というのは、どこから出てきた話か知らないが、我が国の民俗行事の一つである7月7日の「七夕」の由来については、数多くの要素が混ざり合って形成されたものであり、竹取物語などとも関係のない話ではなく竹とも縁のある話でもある。
私たちが知っている.『竹取物語』は、日本最古の物語とされる。また、その話は、日本人の誰もが、幼い頃から童話の「かぐやひめ」として、聞かされてきたものでもある。
この物語では”ある日、竹取の翁が竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹があった。切ってみると、中から9センチほどの美しい人が出てきたので、自分たちの子供として育てることにした。その日から竹の中に金を見つける日が続き、竹取の翁の夫婦は豊かになっていった。小さな女の子は、3ヶ月ほどでこの世のものとは思えないほどの美しい姫に成長し、「なよ竹のかぐや姫」と呼ばれる。5人の公達や帝からの求婚を難題をだして退け、帝の求愛も受け入れることなく、八月十五夜の月の使者に迎えられ、嘆く竹取の翁と帝を残し、月世界へと去っていく話が語られている。最後の場面では、月に帰るかぐや姫が帝に文と不老不死の薬を渡す。悲しみにくれる帝は、これをかぐや姫が昇った天に一番近い山、つまり日本で最も高い山で焼かせる。その後、その山は「富士の山(不死の山)」と呼ばれるようになったと書かれている。
『竹取物語』は、紫式部が書いた『源氏物語』の「17・絵合(えあわせ)の巻」には、藤壺中宮の御前で物語絵合せが行われた時の様子が描かれている。
原文は、以下参照に記載の「源氏物語の世界」の「17・絵合」の第二章 後宮の物語、第四段 「竹取」対「宇津保」を見られると良い。
まづ、”物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。”とあり、最初に、物語の祖である『竹取物語』に対して『宇津保物語』の俊蔭の巻を戦わせる。
「物語の出で来はじめの祖なる」という言葉は、『竹取物語』の位置付けを示す言葉である。「『竹取物語』は、古くから伝わる物語だから、目新しいこともないけれども、かぐや姫がこの俗世にもけがれず、遠くの月の世界に帰ろうという決意を変えなかった前世からの約束は、神代のことであるから、浅はかな女は、見ても分からないでしょう」と左の斎宮の女御の方はいう。
それに対して、右の弘徽殿の女御の方は「かぐや姫が昇天したという空はたしかに手が届かない所であるから、誰も分からない。この世では竹の中に生まれるという約束だったので、身分は低い者の話と思われる。一軒の家の中は明るく照らしただろうけれども、宮中の恐れ多い帝の光とは並ぶことがなかった。阿倍のおほしが千金を投じて手に入れた火鼠の皮衣がたちまち燃えてなくなったのも、たいそうあっけないことだ。車持の親王が本当の蓬莱山の事情を知りながら、偽物を持参して疵を付けたのがよくないと言う。更に、絵は巨勢(こせ)の相覧(おうみ)が描き、説明の言葉は紀の貫之が書いている。紙屋紙〔:巻物用の紙〕に中国渡来の織り物で裏打ちして、赤紫色の表紙、紫檀の軸はよく目にする表装である。」・・・と言っている。
これらのことから、『竹取物語』は平安時代初期に紀の貫之が書いたと考えられ、それまでの神話・伝説・説話といった「語り」とは異なる方法で書かれた物語である。そして、この物語りは、『今昔物語集』の竹取の翁説話のように求婚者3人から竹取物語の5人に改作されたとも考えられている。しかし、『チベットの民話「斑竹姑娘(はんちくこしょう)」には、5人の若者の求婚難題譚があり、求婚者たちの失敗が竹取物語と類似しているといわれているし、また、中国の『後漢書』には、竹の中から人が生まれるという内容が記されているという。もともと、これらのものが取り入れられていたのかもしれない。
『竹取物語』は主人公「竹取の翁」「かぐや姫」そして、5人の貴公子の名前などがすでに存在している名前を用いたものであることや、いくつかの伝承の型、が取り入れられているところに、この物語の方法に特色がある。[○かぐや姫の誕生(竹中生誕説話)○竹取翁の長者譚(致富長者説話)○五人の貴人の求婚(難題求婚説話)○帝の行幸(相聞説話)○かぐや姫の昇天(昇天説話、羽衣伝説)○ふじの煙(地名起源説話)などが取り込まれている。]
又、私たちが知っている「竹取物語」は、平安時代のものだが、竹取の翁の名前は「さぬきのみやつこ」つまり「讃岐の造麻呂」といい、この人は大和国広瀬郡讃岐郷に住んでいた讃岐氏の一族と言われ、その讃岐氏とは讃岐国(現在の香川県)を支配していた斎部氏の分家で、この斎部氏は祭祀を司る一族であることから、讃岐の造麻呂も祭祀を司る人物と推測できるという。また、 『古事記』には、讃岐垂根王(サヌキネタリネノミコ)と言う人物が出てくるそうで、彼の兄弟に大筒木垂根王(オオツツキタリネミコ)という人がいるというのである。
『古事記』のカグヤヒメノミコト(迦具夜比売命)は第十一代・垂仁天皇の后の一人であるが、その曾祖母の名をタケノヒメ(竹野比売)、そして、その父の名が、オオツツキタリネミコ(大筒木垂根王)だという。つまり、祖母の名はそのまま竹で、父の名も筒になった木、つまり竹に通じるため、カグヤヒメは「竹から生まれたかぐや姫」のモデルになってもおかしくはない人物ではないかと言われている。また、『万葉集』にも「竹取翁(たけとりのおきな)」の話が載っている。[『万葉集』巻十六の竹取翁の歌(3791~3802、序および長・反歌と娘子たちの和した歌9首)]。この話も、「竹取物語」の元になった話の一つかもしれないが、内容は大きく違っており、直接は関係なさそうだ。
かぐや姫が八月十五夜に昇天するのは、遣唐使や日中交流によってもたらされた中秋の名月観賞の影響だろうといわれているが、古代、中国でも日本でも、月はしばしば不老不死のイメージと重ねられて伝承されていたようであり、『万葉集』巻十三には、次のような歌がある。
「天橋も長くもがも高山も高くもがも月夜見の持てるをち水い取り来て君に奉りてをち得てしかも」(3245)
つまり、天に渡れる長い橋や、天まで届く高い山があったなら、月世界で月読命が守っているという若返りの水を取ってきて、主君にささげ、その老いを止めることもできるのにという嘆きの歌である。満ち欠けをくりかえす月に、衰えてはまた若返る永遠の命を見るという想像は古代人にとっては、自然なイメージであり、月と不死のイメージが重なっていたようである。
そして、このようなイメージがあればこそ、かぐや姫が帰る先は月でなければならなかったのであろう。かぐや姫の迎えが月から来てこそ、その迎えのもたらした不死の薬を帝に献ずるという筋立てが首尾一貫してくるのである。
また、かぐや姫に求婚する貴族の5人の貴公子(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足)には、「大伴御行(おおとものみゆき)」など、その名前から、天武天皇側について、壬申の乱で活躍した人々を思わせる方法をとったのは貴族批判のカムフラージュだったのかもしれない。「大伴御行」は、平安時代に活躍する伴氏の先祖で、この伴氏、866年に起こった応天門の変により失脚、政界より追放されている。
ところで、「竹」は道具の材料になるだけではなく、古くは薬用にも重宝していた植物だったそうで、日本古来の和方医学について記した『大同類聚方』や『医心法』にも筍や竹を用いた薬の作り方が多数収められているという。その効能としては美肌、熱さまし、解毒、止血、咳止めと多様で、調剤にも用いられているのだとか。薬は、もともと古代中国での薬方だったものが渡来人によって伝えられたものが多いだろう。『竹取物語』の最初は、”いまはむかし、たけとりのおきなというものありけり。野山にまじりて、たけをとりつつ、よろづのことにつかひけり。・・・とある。『竹取物語』の翁が姫を見つけてから、竹の中に金を見つける日が続きお金持ちになるが、かぐや姫の原型は日本に製薬を伝えた渡来人が竹から薬を作って大もうけしたのかもしれないな~。しかし、筍栽培などが有利な経営であったときに拡大した竹林面積が、近年、竹の利用が減ったことや、近隣諸国から筍が大量に輸入されるようになったことから、竹林が放置され、自然拡大でどんどん広がり、木を枯らすようになったとして、悪者扱いになっているようだ。今日の「竹・たけのこの日」を設定した理由も、そのよう状況を、七夕と関連付けて、私達に竹について理解をしてもらおうという趣旨かもしれないね~。
7月7日「七夕」のことについては、以前のブログ、今日(7月7日)は「七夕」で書いたのでここで見てね。→ ここ
(画像は「竹取物語」 - 電子書籍eBookJapan/監修:平田 喜信 まんが:岸名 沙月)
参考:
竹取物語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
竹取物語
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/taketori.htm
竹取物語/竹取翁に関連した歌
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/
源氏物語の世界
http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/
『源氏物語』拾い読み
http://homepage1.nifty.com/totoya/genji/genji.html
かぐや姫考目次
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kaguyahimetop.htm
紀貫之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%B2%AB%E4%B9%8B
壬申の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
応天門の変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
箕と竹の歴史
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-48.html
全日本竹産業連合会
http://www17.plala.or.jp/jba/index.html
巨勢(こせ)の相覧(おうみ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E6%B4%BE
変若水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%8B%A5%E6%B0%B4
何時も思いますが毎日が何かの日になっていますね。
僕も獣医の日を決めてみますかな。3月4日なんかどうでしょうね。理由?はい、掛け算の九九で三四じゅうい(十二)って言いますでしょう。えっ!お寒い親父ギャグですって?仕方がありませんね、3月はじめはまだまだお寒いです。チャンチャン。アハハ。
仲秋、つまり旧暦八月十五日は、必ず仏滅なんですね。だから仏滅が縁起が悪いなんて言ってたら、お月見はできないことになります(^o^)
六曜(先勝、友引、・・仏滅)が根拠のない下らない迷信ってことは、よーさんもどっかにお書きになってましたっけ?
ザ・ランスさん、明治になって新暦になったときに、仏滅だなんだと根拠のない迷信と言うことで使わなくなったのに、現代人がそんなこと信じるなんて信じられない・・・(^0^)
僕の結婚式は仏滅でした。式場は我々のみだったので 披露宴の時間もたっぷり取れました。まだ別れもせずに続いていますよ。
テレビドラマはあまり見ないほうなんですが、昔、たまたま見たドラマで、ショーケンといしだあゆみが、式場が安いからってんで13日の金曜日仏滅さんりんぼうという日に式を挙げるというのがあった。あんまりおかしかったんで、今でも覚えてるんですが、あの二人、その後実生活でも結婚したけど別れちゃった。やっぱりあんな日に挙式したから?いや、それはドラマの中の話し・・・