今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿に成功

2009-10-16 | 歴史
いつもブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日」の10月16日の歴史のところに、”1886(明治19)年10月16日、岡田竹四郎が武庫川右岸で宝塚温泉の開鑿(かいさく)に成功”とあった。
宝塚温泉は、兵庫県宝塚市武庫川の河畔あたりにある温泉である。
宝塚市と言えば、大阪から約30分程と近く、あの有名な宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場のある地として良く知られているが、温泉のあることはあまり広く知られていないようだが、宝塚大劇場自体が、元々は宝塚温泉の対岸の川沿いに作った「宝塚新温泉」に客を呼ぶアトラクションとして阪急電鉄の創始者小林一三が始めたものであることは、以前にこのブログ9月1日「宝塚歌劇団レビュー記念日」でも書いた。
以下参考に記載の青空文庫の小林一三 「宝塚生い立ちの記」の中で宝塚旧温泉のことにも触れているところがあるのでその部分を以下に抜粋してみた。
“宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近ではあったが、ずっと川の中へ突き出した武庫川の岸にささやかな湯小屋が設けられていて、その傍らに柳の木が一本植わっていた。そして塩尾寺へ登って行く道の傍らに、観世音を祀った一軒の小屋があって、尼さんが一人いた。湯に入るものはそこへ参詣をしてから、流れの急な湯小屋の方へ下りて行ったものだ。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のことであり、それ以後保養のために集って来る湯治客は、やや増加したとはいうものの、多数の浴客を誘引する設備に欠けていたので、別にめざましい発展も見られなかった。
 その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げて、対岸に宿屋や料亭が軒をならべるに至ったのであるが、明治四十三年三月十日、箕面有馬電気軌道株式会社(現在の京阪神急行電鉄株式会社の前身)の電車開通当時は、武庫川の東岸すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。
箕面有馬電気軌道はその開通後、乗客の増加をはかるためには、一日も早く沿線を住宅地として発展させるより外に方法がなかった。しかし住宅経営は、短日月に成功することはむずかしいので、沿線が発展して乗客数が固定するまでは、やむをえず何らかの遊覧設備をつくって多数の乗客を誘引する必要に迫られた。そしてその遊覧候補地として選ばれたのが、箕面宝塚の二つであった。こうして箕面にはその自然の渓谷と山林美とを背景にして、新しい形式の動物園が設置され、宝塚には武庫川東岸の埋立地を買収して、ここに新しい大理石造りの大浴場、および瀟洒な家族温泉を新設する計画をたて、明治四十四年五月一日に完成した。当時としてはモダーンな娯楽場として発足したのである。“・・・と。これが、「宝塚新温泉」、後の宝塚大劇場の出発点である。
かって、「湯のまち」として栄えたという宝塚には、古くは中世の頃「小林の湯」と呼ばれる温泉があったそうで、歌人藤原光経が1223(貞応2)に訪れた記録があるという。また小林一三の 「宝塚生い立ちの記」の中にも書かれているように伝説では「塩尾寺(えんぺいじ)」(伝説は※:「宝塚市:宝塚の民話」の第1集ー4塩尾寺と宝塚温泉を参照)のふもと武庫川にある大柳の下で湯を発見したとも言われており「川面の湯」の名も伝えられているようだ。
以下参考に記載の※:「写真の中の「明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -」の中の関西編宝塚温泉には、阪鶴鉄道が通っていた頃の川面あたりから撮ったものと推測される当時の宝塚温泉の風景説明がある(興味のある人はここ参照)。
室町時代からの「塩尾寺観音縁起」などにより、病気治療に卓効(たっこう。優れたききめ)のあることが知られていた武庫川右岸、鳩ヶ渕に湧いていた水を温泉場にしようと思い立った者が出てきた。それが、今日のブログの表題となっている岡田竹四郎と言う人物らしい。彼が、宝塚温泉の開鑿に成功したのが「今日は何の日~毎日が記念日」に書いているような1886(明治19)年10月16日のことであったかどうか、日付のことまでは分らないが、以下参考に記載の※:「『宝塚温泉』の近代宝塚温泉の発見と黎明期1」には、宝温泉の老舗旅館分銅屋(現在は廃業)の創始者、小佐治豊三郎が記した1911(明治44)年11月3日付の『宝温泉発見以来の顛末』には、温泉発見の経緯が記されているようで、その内容を読むと確かに、最初に開鑿話を持ちかけてきたのは岡田竹四郎なる人物だったようだ。そこには、以下のように記されている。
“1884(明治17)年3月初め豊三郎のもとへ、川面村(現在の宝市川面(ここ参照)に住む岡田竹四郎が訪ねてきて、竹四郎の父親五平次が長尾山の中腹桜小場(現在の宝市桜ガ丘)に山田の開発を始めたが、資金不足のため途中で中止せざるを得なくなっていた。せっかく開墾した山田もこのままではもとの荒野になってしまうので、父の遺志を継いでやり遂げたいと思案した竹四郎が、人づてに豊三郎が牛のことにくわしいと聞き及び、牛馬の力で開墾できないものかと相談に来た。宝に住む竹四郎の親戚の田村善作宅へ行っての帰り道、竹四郎から「酸い水と鹹い水」が湧く場所があると教えられ、汲んで帰って、飲んでみるとおいしかったので、知り合いの医師に贈ったところ、飲料・浴用ともに適する最上の鉱泉であると絶賛された。この水から山塩(温泉水を煮詰めてつくる塩のこと)を採取する計画をひそかに立てていたが、このとき温泉場を開設しようと決意し、田村善作や岡田竹四郎に相談したところ、二人も大いに賛同してくれた。そして、ある日、三人は温泉場の設備や営業状態を調べるため有馬温泉を訪れ、地元の人に「有馬では、宿屋にみな『坊』の名がつけてあるのはなぜか」と尋ねたところ、「この地は昔から仏様に因縁が深いので」ということであった。それではわれわれの温泉場にも縁起のよい名をつけようと、命名を田村善作に一任し、『宝温泉』と決まった。土地の開拓や家屋の建築に着手する一方、鉱泉の試験を大阪衛生試験所(現:国立医薬品食品衛生研究所 大阪支所。詳しくは、以下参考の※:「ギャラリー広場」参照)へ依頼し、1886(明治19)年3月26日その結果が示され、翌1887 (明治20)年5月5日開業に至った。”・・・と。
これを読むと、1887(明治20)年5月に宝温泉が開業したというのだから、その前年の1886(明治19)年10月16日に開墾に着手したとしてもおかしくないよね。
宝温泉は彼らを含む創立会社が、地元から鉱泉湧出所である伊孑志(いそし)村302番字三昧(現在の湯本町9番29号)あたりの山林715歩(ぶ)の永代借地契約を結び経営。温泉場は崖の下にあり、多量の土砂を投入して埋立て、浴場を建てたという。・・・つまり、1 畝=30歩。1歩=約3.305785㎡=約1坪だから、約225坪位の土地を借りて始めたということだ。
開湯当時は、まだ鉄道はなく、大阪や神戸方面から宝塚温泉に来るには、省線(しょうせん。国電。現在のJR。当時、鉄道省管理であったためこう呼ばれていた)西ノ宮駅から人力車で10キロ近い道のりを北上するか、または、武庫川を浅瀬伝いに渡るか、水の深い所に板を架けるか、「伊才志の渡し」と呼ばれた渡し舟で渡るしかなく、川が増水したときは渡ることができなかった。そのため、入浴客の急速な増加を望むことができなかったため、1892(明治25)年に会社を解散して、温泉場を閉鎖。閉鎖された温泉は、宝塚温泉場持主組合によって復活するが、1897(明治30)年9月29日の大雨で武庫川が氾濫し、浴場は流失してしまったという。
この年1897(明治30)年12月に、宝塚温泉のあった場所とは反対の武庫川左岸に阪鶴鉄道が宝まで開通し宝塚駅ができている。しかし、この頃は、まだ、右岸と左岸との間に行き来できる橋はなかったそうだ。
宝塚温泉は、1899(明治32)年に新築し、開場したようだが、この頃右岸と左岸を結ぶ宝来橋(蓬莱橋とも書くらしい。宝来橋については、以下参考の※:宝塚歴史散歩が詳しい)が作られたようであり、それ以降、浴客も増加し、旅館・料亭の数も急速に増えたようだ。その後、阪鶴鉄道の重役でもあった小林一三らが阪鶴鉄道の役員を辞職して箕面有馬電気軌道を作り、宝塚温泉の対岸(武庫川東岸)に、1911(明治44)年、現在の宝塚大劇場の基礎となる大理石造りの大浴場を備えた娯楽場「宝塚新温泉」を建設している。
小佐治豊三郎は、“明治44年の状況を「旅館旗亭を合せ50余軒、其他の人家200余戸を有し、尚日に月に発展の状況を呈する一大温泉場となるに至れり」と記しているという。
この時から、もともとあった宝塚温泉は宝塚旧温泉と呼ばれるようになったようだが、その後、この新・旧温泉は上手く住み分けして栄えていたようである。
「武庫川の 板の橋をば ぬらすなり 河鹿の声も 月の光も」
この句は、明治の歌人与謝野晶子が、夫の与謝野鉄幹と、大正6年(1917年)6月に3週間ほどかけて阪神間を周遊した際に宝来橋付近で詠んだものだそうで、宝歌劇団の雑誌『歌劇』の創刊号(1918年8月刊)に、「武庫川の夕」という題で三首掲載されているものの1つ。現在の宝来橋の南詰めの、宝塚市が設置した公設民営型温泉健康施設(ナチュールスパ宝塚)の建物のそばに、これを記念した句碑が建っている。
塩尾寺の由来記(『塩尾寺縁起』にある“老女が夢の中に出てきた僧侶のお告げで「武庫川にある大柳の下に湧いている霊泉に湯浴みをすれば、病は癒える」と告げられそのとおり霊泉を湯にして身を洗ったところ病が癒えたと言われる大柳の下はこの公設民営型温泉健康施設(もとは市立宝塚温泉泉と言っていたらしい)の近くだそうである。
私は、神戸に住んでおり、神戸者にとっては、有馬温泉の方が規模も大きく、近くて便利なので、有馬には行っても宝塚温泉には行ったことが無い。宝塚と言えば、家人と一緒に宝塚歌劇の観劇に行ったり、子供が小さい頃は、宝塚ファミリーランドへはよく連れて行ってやったのだが・・・。
1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、阪急宝塚駅近くなどでは、震度7を記録し甚大な被害をもたらした。震災前は武庫川の河畔に旅館ホテルが数多く並んでいたそうだが、今では温泉は若水旅館(以下参考の※:「宝塚温泉ホテル若水参照)とナチュールスパ宝塚のみとなっている。
尚、かって旧宝塚温泉の浴場に掲げられていた巨大な看板(冒頭画像参照。大画像は、ここで見れる)は、ホテル若水の大浴場前に掲げられているようだ。その経緯は、以下参考の※:「神戸新聞|阪神・北摂|1世紀健在です 宝塚温泉の看板、ホテルが継承」を参照。)
(画像は、絵はがき「宝塚旧温泉正面」宝塚市市史資料室より)
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