滝番小屋

新城市出沢と鮎滝の近況を紹介、その他雑感を少々。

桜吹雪に抱かれて・・・

2019年04月10日 | 瑠璃光浄土
四月初旬、七久保のお不動様は、この小さな山里にユートピアを具象化する。
窪を渡る春風に舞う無数の蝶に誘われるように、七久保の太田さんが旅立った。
七久保はかつては七戸ほどあったそうだが、近年は太田さん一軒になってしまい、幸市さん一人でこの里を守っていた。

早川孝太郎の『地狂言雑記』のなかに、
・・・・・なんにしても村の氏神の祭りにはなくて叶わぬほどの人気のあったことだけに、村という村で、ほとんど演らぬ土地はなかったのである。南設楽郡作手村字七窪などという村は、山の中の戸数わずか7戸の小村で、全部が炭焼きを渡世にしていたが、こんなところでも狂言を演り、それをまた山坂を越えて、遠くから見物にも行ったものである。七窪などは生涯に一度だって用のある土地ではないが、狂言見物に行って初めて知ったなどと言っている人もあった。村のある限り氏神の祭りには、狂言は必ず演るものという風な思想をお互いがまだ心の奥底に持ち合わせていたのも頼もしかった。氏子の好むところすなわち神の納受し給うと考えたのはもっともなことである・・・・・
と寒村の代表のように書いてあるが、
90年ほど前、先代の欽丈さんがお不動様をお祭りし、最盛期には御縁日に数百人の参拝客があったのも今や遠い昔ばなしになった。

やすらぎホールのディスプレイに昔の七久保が映っていた。

百年ぐらい前の写真だという。
上平井の幸市さんの従姉妹だという、かなり年配の女性(年齢は想像にお任せしますと言われた)に話を聞くことができた。右側の家が太田さんの家だという、新しい家には行ったことがないそうだがこの写真の家はよく覚えている(新しい家でも築後70年ぐらいは経つ)、当時、手前の「あかっと」の窪に3軒あって、この窪に4軒あったので、確かに7軒あったそうである。

その内の一軒が昭和の初めまで七久保にあった私の先祖の家だ。この写真には写っていないが、右下の方にあったと聞いている。子供のころの記憶にあるのは、お茶工場とそれを動かす発電所、一面のお茶の段々畑。私の家から4キロ位あるが、よく遊びに来た。もちろん歩いて。今思うと当時は皆体力があった、一つ下の女の子が、ここから学校に通っていた、私の家のある橋詰まで4キロ、更に小学校まで4キロ往復16キロを小学一年の女の子が一人で通っていたのだ。朝、家を出るとき星が出ていると言った。住むには厳しいところだった。

豊川に住む幸市さんの息子さんが、世話に通っていたそうだが、今後、此処に帰ってくる予定はないという・・。数百年続いた里の歴史が今終わる。

式場の都合と、花祭りで少し足止めされた代わりに、素晴らしい立ち日になった。住めば都、山里の手入れに黙々と日課をこなし、花吹雪に抱かれて旅立った太田さんにとって、ここは替えがたい終の棲家だったのだ。不動の風に舞う花びらは、里の感謝と祝福の涙なのだ。・・・ご冥福をお祈りします。

念仏も とぎれとぎれの 精進落し
太田幸市、享年八十五歳、平成三十一年四月四日逝去・・合唱。
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2 コメント

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同級生 (岡田 年弘)
2019-04-11 09:44:17
孝市君が亡くなったとの事、小学校まで一緒に勉強した仲、62年ほど前に、夏休みに銭亀在住の生徒、浅井伝さん・菅谷功さん他12名ほどで、幸ちゃん家、七久保に遊びに行ったことがあり、それが最初で最後でした。あの長い山道をお姉さんと二人で学校まよく頑張ったものです。
家の横の沢で魚(ハヤ)獲ったり、少し山の上の鏡岩を見たり、沢の土手ににあったプラム(ハダンキョウ?)を食べたり、おにぎりをご馳走になったりと、色々楽しい思いでが・・・・・。
ご冥福をお祈りいたします。          岡田
その後? (岡田 年弘)
2019-10-22 11:19:06
いつも楽しみに拝見しています、最近(9月中頃から)更新が有りませんが、体調でも悪いのではと心配してい居ます。そうでなければいいが。  岡田

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