モルモンの有力ファミリー その2
”リチャーズ・ヤング・ファミリー(閨族)というのもあるんですかぁぁ・・・・”
「モルモンの有力ファミリー 2012-11-09 13:37:51 | 教会歴史」
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/ec5163e9773ae5344a837a2c656ffad6
で、”閨族”って書きましたけど、正確じゃないのかな、教会初期の始まりにおいては、まずは、えぇぇとですねぇ、この両家のつながりというのは、ブリガム・ヤング(1801-77 1835使徒)とウィラード・リチャーズ(1804-54 英国伝道中に英国籍女性と結婚し、その英国滞在中に、1840年、ブリガムによって使徒に聖任)は、いとこの関係であることに注目すればいいのかな。ブリガムの母アビゲイル・ハウ(1766-1815)は、ウィラードの母ローダ・ハウ(1762-)の妹ですね。ローダはハウ家の第1子で、10人の弟妹がいると・・・・
http://freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com/~hwbradley/aqwg2682.htm#59338
http://en.wikipedia.org/wiki/Willard_Richards
http://en.wikipedia.org/wiki/Brigham_Young
http://en.wikipedia.org/wiki/Franklin_D._Richards_(Mormon_apostle)
http://en.wikipedia.org/wiki/George_F._Richards
http://en.wikipedia.org/wiki/LeGrand_Richards
リチャーズ一族から、使徒が、4人くらい出てるのかな、一番最近では、リグランド・リチャーズ(1886-1983 『52使徒 奇しきみわざ』の著者)ですかぁぁ・・・・他二人は、リグランドの父ジョージ・F・リチャーズ(1861-1950 06使徒)その父(リグランドの父方祖父)フランクリン・D・リチャーズ(1821-1899 49使徒)。
で、前にフランクリン・D・リチャーズ使徒については、マーティン手車隊との関連で、少々、旧掲示板で書いてましたかぁぁ・・・・今朝、その手車隊とリチャーズ使徒との話など、英語の少々読んだりしたんですが、訳すまでは出来なかったので、まずは、掲示板のを再掲ということで・・・・
マーチン手車隊
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E6%89%8B%E8%BB%8A%E9%9A%8A&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
「CHOppItO訳ー・--パート29です 。WEB---- - 2010/03/22 20:41
『わたしたちの受け継ぎ』の70ページには、手車隊の生存者は、後に指導者への非難とか全然言ってないという素晴らしいお話しが載ってます。1856年7月、徒歩で平原を越えロッキー山脈に入っていくのには遅すぎる、危険と意見した者もいたけれど、出発することになったウィリー、マーティン両手車隊は、結局、222名の犠牲者を出したわけですが、・・・・・
裏話的には、当時ヨーロッパ伝道部長として活躍し、ヨーロッパの会員を移住させる指揮をとってたフランクリン・D・リチャーズ使徒(1821-99、49年使徒兼教会歴史員、ウィラード・リチャーズ使徒の甥)が、これら二つの手車隊を遅い時期に出発をさせた責任ありとみなされてるようです。(2006年、モルモン歴史協会年次大会など)
リチャーズ使徒らを乗せた装備万端の幌馬車隊一行は、ウィリー隊を通り過ぎる時に、1、2日共に過ごした。その時、時期が遅いから、越冬して来年出発したほうがよいと意見した者を、厳しく叱責、いろいろ苦難はあるが、無傷で、ロッキーを越えシオンの地に入るであろうと主の御名によって語った・予言した・・・・滞在中、牛肉を所望、牛一頭が提供された、途中のフォート・ララミー砦で、代わりの牛を用意すると約束。ララミー砦に着いてみると、そのような約束は反故と判明。さらに食料を切り詰めねばならなくなった、そんななかでの、大雪の嵐・・・・リチャーズ使徒は、ブリガム・ヤングにより、公に非難された・・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Mormon_handcart_pioneers
http://www.mormoncurtain.com/topic_mormonhandcarts.html
CHOppItO訳ー・--パート29です Wです - 2010/03/22 21:18
Wです
およ
こちらに移したんだね
じゃーコピーしておくよ
> リチャーズ使徒らを乗せた装備万端の幌馬車隊一行は、ウィリー隊を通り過ぎる時に、1、2日共に過ごした。その時、時期が遅いから、越冬して来年出発したほうがよいと意見した者を、厳しく叱責、いろいろ苦難はあるが、無傷で、ロッキーを越えシオンの地に入るであろうと主の御名によって語った・予言した・・・・滞在中、牛肉を所望、牛一頭が提供された、途中のフォート・ララミー砦で、代わりの牛を用意すると約束。ララミー砦に着いてみると、そのような約束は反故と判明。さらに食料を切り詰めねばならなくなった、そんななかでの、大雪の嵐・・・・リチャーズ使徒は、ブリガム・ヤングにより、公に非難された・・・・
太平洋戦争の「インパール作戦」みたいだ
師団長達の反対を押し切って強行された作戦は、物資の補給ができず現場は悲惨な状況になった
作戦を視察した牟田口中将は食料、弾薬の欠乏を訴える将兵にたいして「大日本帝国軍人は食料や弾薬が無くても大和魂で戦え」と言った
結局作戦は中断、おびただしい数の餓死者を出した
作戦を強行した、南方軍司令長官牟田口中将は何の責任も問われることはなかった
教会では「マーチン手車隊」の悲劇は「美談」として語られてきた
「大失敗」を「美談」にすり替えることは大きな間違いでしょう
手車隊の生存者が誰も教会を離れなかったというのは、また別の話だと思う
人の心がどうであったにせよ、間違いは間違いでしかない
CHOppItO訳ー・--パート29です 採鉱技師 - 2010/03/23 13:56
> 師団長達の反対を押し切って強行された作戦は、物資の補給ができず現場は悲惨な状況になった
>
> 作戦を視察した牟田口中将は食料、弾薬の欠乏を訴える将兵にたいして「大日本帝国軍人は食料や弾薬が無くても大和魂で戦え」と言った
>
> 結局作戦は中断、おびただしい数の餓死者を出した
>
> 作戦を強行した、南方軍司令長官牟田口中将は何の責任も問われることはなかった
「自分自身で合理的判断を行い、無理な戦いは避ける
戦い方で、逆に拠点を守り抜く部隊が多く
建前上で死守せよという内地からの命令を
精強な東北、九州の部隊は真面目に受け取り
玉砕してしまうので、関西の部隊は、意外と役立ったとの
参謀本部の高官の述懐もあります」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212250792?fr=rcmd_chie_detail
馬鹿みたいに盲従することが信仰ではない、と言うことです。
CHOppItO訳ー・--パート29です 採鉱技師 - 2010/03/23 14:02
> 馬鹿みたいに盲従することが信仰ではない、と言うことです。
日本人のメンタリティーを見ると、戦争の失敗から何も学んでいないということです、か、ねぇ?
あっ、
CHOppItO訳ー・--パート29です 。WEB---- - 2010/03/23 18:44
あぁぁぁ、なるほどぉw、地方・県民気質ですねぇぇ・・・・・
手車隊の話ですが、この時代、翌1857年から、ユタ戦争が勃発(58年まで)、57年9・11には、マウンテン・メドウ虐殺事件が・・・・
で、手車隊への永代移住基金の援助金は、ゼロになり、それでも57年は、約480人(死者6人くらい)、ソルトーレーク盆地までやってきた。58年は、ユタ戦争で、中止に。59年235人(死者6)、60年357人(死者1)。56年は、援助金のもと、約2000人(ウイリー、マーティン両隊の除いた3隊では、死者27)
大陸横断鉄道完成の1869年までに、約7万人の教会員の移民があって、そのうち、手車隊は、56年から60年までの5年間、10隊で、5%未満の約3000人。・・・・・車軸に金属を巻くとか、しない安い造りで、費用を削った分、途中、磨耗などで修理が必要となり、日数がよけいにかかった・・・・
57年には、ユタ遠征のため進軍してた米国陸軍の隊長は、餓死しそうになってた手車隊に、牛一頭、贈ったと記録されてる(敵に塩を送る??)・・・・
これって、なんというこった、あの、リチャーズ使徒と正反対じゃぁ、あぁぁりませんかぁ・・・・貧しい者を助けるのが、弟子と『教義と聖約』52:40には、あるようですが・・・リチャーズ使徒は、また、イタリアでも、移民しようとする教会員に向かって、無事に皆、ソルトレーク盆地に到着するからと勧告・激励したという、実際は、途中病死とかで何人か亡くなった・・・・移民者の日記に・・・・それにしても、あの両手車隊犠牲者、いろいろプレッシャーがあったんでしょうけど、人命第一の方向では、なかったということか、大切しなかったというか、残酷というか・・・本当に”当たる”予言だったら、助かってたか・・・・
・・・・・アイリング使徒の、日本の教会員が、将来、もっと伝道をするようになるというようなお話があったと思いますが、1,2年くらい前、ネットで見つけたサイトで、今は消えちゃったようですが、アイリング使徒とネルソン使徒だったか、パキスタンと北インドに訪問中、同じような内容の話を地元教会員向けに語ったような内容だったと記憶・・・パキスタンは、モスレム国かな、教会員いたような感じだった・・・・これは、案ずるに、何か、特別なみたまの賜物で、語ったというよりも、教会員の現状等を鑑みての、常識的・実際的なアドバイスだったか??!!・・・・まぁ、アジアでは、教会員の伝道に期待されるということなんでしょう・・・・ということは、伝道アドヴァイザとかの召しと
いうオムナイ氏のリーダーシップに一層の期待が・・・・
そのサイトは、from the dust とかなんとかだったか・・・・今は、これに変わっちゃったみたい・・・・
http://www.mormonworld.org/category/mormon-asia/
CHOppItO訳ー・--パート29です Wです - 2010/03/23 21:28
Wです
>それにしても、あの両手車隊犠牲者、いろいろプレッシャーがあったんでしょうけど、人命第一の方向では、なかったということか、大切しなかったというか、残酷というか・・・本当に”当たる”予言だったら、助かってたか・・・・
>
予言は全て「ふさわしい状態であるならば」という条件付きだから
予言が成就しなかったのは、お前の行いが悪いからだよ、てなとになってしまう
残酷な話です
予言成就のために頑張ったが達成できず落ち込んでいると、「お前の未熟さが原因だよ」なんていわれるのと同じ
幹部達も、軽率な予言を謹んでほしいものだ
CHOppItO訳ー・--パート29です 。WEB---- - 2010/03/24 21:32
まぁ、教会幹部とヒラ会員とは、月とスッポンみたいなものでしょうか、指導者や幹部の発言を批判するようなこと言えば、信仰がない、教会に背いているとなって、最悪、破門になるのかも・・・・
1856年、 ニューヨークにいたジョン・テイラー使徒(1808-87、後の管長)は、フランクリン・D・リチャーズ使徒(1821-99、 49使徒)に、時期的に遅くなってからは、教会員に出発する勧告をしないようにと注意を促していた。 が、リチャーズ使徒は、聞き入れた様子はなく、ヨーロッパの教会員に、約束の地へ出立するのは、神の意思であり、信仰によって、モーセに神が行ったように、嵐を分かつであろうなどとして勧告したと。奴隷船のようなタコ部屋の船内に閉じ込められて、ニューヨークに着いた聖徒らのうち幾人かは、テイラー使徒とリチャーズ使徒との間が険悪となり、どちらどう指揮をとるのかなどで言い争うのを目撃したという・・・・
・・・・自分的には、また妄想的といわれそうですが、以前のスレで書いた、あのウイラード・リチャーズ使徒が、カーセージの牢獄で、ジョセフを撃ったという示現を見たというサイトの影響でしょうか、フランクリン・D・リチャーズ使徒も、なんか怪しいという先入観があるんでしょうか・・・・
」