イエスの生年については、特に、前4年説などは、新約・マタイ伝2:1のヘロデ(大)王の代に生まれたというのと、欧米で聖書についで多く読まれてきたというフラウィウス・ヨセフス(37 - 100頃)の『ユダヤ古代誌』にあるヘロデ王の死に言及しているところの、これら主要2箇所に基づいての、過去110数年前くらいの聖書年代学者さんらの研究に依っているという点ですよねぇぇ・・・
『ユダヤ古代誌』(秦剛平 訳)では、原典にはない“前四年の春、すなわち前四年三月一三日と過越の祭の始まるニサンの月の一三日の間”や“ヘロデの死(前四年)”という文言を堂々と記されている・付加されてる。(p313 など 『ユダヤ古代誌 5』 ちくま文庫)
これはいかんでしょう。 ・・・・秦氏の陰謀だぁぁw。
あぁ、ヘロデ大王の死亡年については、紀元前4年とする従来の説と、紀元前1年とする二つがあるんですかぁぁ。(英文ウィキ)
ここのサイト(聖書考古学デイリーさん)では、その2説について、二人の学者さん、それぞれの対立する見方、応答が・・・・https://www.biblicalarchaeology.org/daily/people-cultures-in-the-bible/jesus-historical-jesus/herods-death-jesus-birth-and-a-lunar-eclipse/
どちらも、さもありなむという感じだなぁぁ・・・・これ訳せないかぁぁ・・・・たまWEBとしては、紀元前1年12月の月蝕ですかぁぁ・・・・それだとイエスの誕生年は紀元後1年になってしまいそう・・・・
英文ウィキ等によると聖書年代学者さんらはヨセフスの月蝕の記述と関連付けたり・・・・。
そのヘロデ大王の死亡年に関しての一つの根拠が月食が起きた年月の推定になるわけですかぁぁ。
『ユダヤ古代誌』17.6.4の最後の一文、「さて、ヘローデースはマッティアスを大祭司職から解任したが、もう一人のマッティアスすなわち騒ぎの扇動者のほうは、その幾人かの同志とともに焚刑に処した。しかし、その焚刑の行われたまさにその夜に月蝕が起こった」(p306)であって、これの月蝕の記事後にはヘロデ死亡の記事が含まれてます。
【17.8.1 p313 「・・・息子のアンティパトロスを殺した日から五日後に死んだ。」とあり、続けて()内に小文字で、‘前四年の春、すなわち・・・一三日の間’と訳者秦氏は挿入してるわけです。】
ここから、月蝕の時期に焦点をあて、年代学者さんたちが、天文学をも駆使・鑑みて推定した結果が紀元前四年。
‘月蝕’が記録されてるのは、ヨセフスの全著作でその一箇所のみ。
今日、その月蝕推定には、さらなる情報が知られ、たとえば当時のユダヤ地方で、紀元前1年12月29日午後6時くらいに最大53%の部分月蝕が起こっていたと。
まぁ、月蝕って平均年2回くらい地球上のどこかで観察し得るわけですが、ユダヤの地で見れたのには4つが候補にあげられると。
紀元前5年9月15日日没数時間後の皆既月食、紀元前4年3月13日の真夜中後の50%未満部分月食、紀元前1年1月10日真夜中前の皆既月食。そして同年12月29日。
刑が執行されるのはきまって午後、夕方にかけてであったという話も・・・・
ヨセフスの記憶にあった(聞かされていた)のは、より多くの人々に記憶されていた、見ていた・聞いていた・知れ渡っていたためとするのが自然では、にゃらば、午前0時前後のとかは却下でしょうかぁぁ・・・・
英文・『ユダヤ古代誌』 http://www.gutenberg.org/files/2848/2848-h/2848-h.htm
「ヘロデ --- ものみの塔オンライン
彼の死の年代 ヘロデが死んだ時に関しては問題が生じます。ある年代学者たちは,ヘロデが死んだのは西暦前5年か4年であると考えています。その年代計算は,かなりの程度ヨセフスの歴史書を根拠にしています。ヨセフスは,ヘロデがローマによって王に任じられた時を算定する際に・・・・
したがって,聖書に基づく年代計算や天文学の情報,また入手し得る歴史上の記録が示すところによると,ヘロデが死んだのは西暦前1年か,もしかしたら西暦1年の初めごろとさえ結論することができます。」
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1200002000#h=28
こちらさんでは、
「 イエスは、ヘロデが死ぬ前に生まれました(マタ2,1;ルカ1,15)ので、イエスが生まれた年を分かるために、ヘロデの死の年が重要であります。多くの教父たち(Ireneus, Clement of Alexandria, Tertulian, Origenes, Eusebius, Epiphanusなど)は、イエスは、紀元前3/2年の冬に生まれたと考えていました。しかし、Emil Schureは、ユダヤの古代史を書き記したFlavius Josephus (37 AD-95 AD) の本に書き記されている色々なデータに基づいて計算して、ヘロデは紀元前4年に亡くなったという結論を出しました。Emil Schureは,自分の研究を“History of the Jewish People in the Time of Jesus Christ”という本の中で発表しました。この本の出版(1897初版)以来、ヘロデが紀元前4年に亡くなったとほとんどの学者に認められましたので、イエスの誕生は紀元前4年以前だったと思われるようになりました・・・・
ヘロデの後継者であった3人の息子の生涯が、彼の死の年の問題に関するデータをもたらす一つの重要な源であります。現在知られているJosephusの文書によれば、3人の息子の一人であったヘロデ・フィリップは、37年間支配した後、ティベリウス治世の20年目に、つまり紀元後33/34年に亡くなったということです。それを計算すると((紀元後)33年間 +(紀元前)4年間 = 37年間)、フィリップは紀元前4年に継承したということになります。しかし、新しい研究の結果、1544年以前のJosephusのすべての本には、「ティベリウス治世の20年目に」ではなく、「ティベリウス治世の22年目に」と書いてあるということが分かりました。つまり、フィリップが死亡したのは、紀元後33/34年ではなく、紀元後35/36年ということになり、継承したのは、紀元前4年ではなく、紀元前1年((紀元後)36年間 +(紀元前)1年間 = 37年間)ということになるわけです。したがって、ヘロデが亡くなったのは、紀元前4年ではなく、紀元前1年であったということが分かります・・・・
」http://nowaksvd.net/jp/star/page02.htm
より詳しく?は、ヘロデの死紀元前4年説の初出は、フランスの造船技師兼天文学者のクレティエン・エデゥアルド・カスパリ(1840-1918 Chrétien Édouard Caspari)の共著作(Florian Riess 共著者)というこっちゃな。で、刺激されたか、その説をヨセフス文書に基づき補強したのがドイツ・プロテスタント神学者 Emil Schürer(1844 - 1910) のその著作という話なんだわな。
ゼニコは何を物語る??
ヘロデ大王の後継者 ヘロデ・フィリップ()のローマから公式にユダヤ地方のテトラーク・太守に認められてから、発行許可の下りた貨幣なわけですが・・・・彼の治世下(紀元前4 ~ 紀元後37)、たくさん見つかってはいても、しかしながら、最古のコインには’第5年’と記されてるという話だな・・・正式に認められなかったのは、前任のヘロデ王が存命中であったということに・・・・だとすれば、死亡年は、紀元前1または紀元後1となるわけで。その第5年が紀元1年にあたるというのはローマの文書からも言えてるらしい。