伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「死に神の名刺」再考 ②

2012年12月13日 | エッセー

 原発を代替している火力発電の主力はガスと石炭である。別けてもガスだ。石油はわずかしか使われていない。ガスは環境負荷が少ない。石炭も技術の進歩で今や石油を超えるクリーン燃料である。埋蔵量は石炭が2000年、石油1000年、そして天然ガスが500年分。産業革命以来2世紀で、エネルギー構造は劇的に変化した。ガスだけであと5世紀もある。次なるエネルギー革命には十分過ぎる時間だ。人類は捨てたもんじゃない。加えてシェールガス・オイルによる「シェール革命」が本格化した。ピンチヒッターどころか、火力発電は今後も堂々たる4番バッターでありつづける。控えにも、2軍にも原発は要らない。選手登録を抹消しても構わない。外のメンバーで優に渡り合える。そういうことだ。
 問題は燃料コストである。ここのところ、天然ガスの高騰による電気料金の値上げが喧伝されている。石油のように偏在せず安定的に確保できる資源なのに、なぜ日本で高いのか。それは電力会社が石油価格に連動する価格設定契約を結んでいるからだ。かつての石油危機がトラウマになったのか。なんとも稚拙で馬鹿げた取引である。シェールの力も借りて足元を見られぬ強気な交渉を貫くなら、改善はいくらでもできる。政府の出番だ。なんとか党のチャラ男外相では埒が明かぬが。

 「死に神の名刺」では、「原発を止めると・・・温暖化の問題もある」と記した。化石燃料を使い続けることは温暖化対策に逆行するという危惧だ。これも我が短慮に恥じ入る。
 話は逆で、研究者によると地球はむしろ寒冷化しているという。立花隆氏などは随分前から小氷河期への移行を唱えていた。筆者も、件の拙稿後は何度も温暖化に否定的な見解を紹介してきた。最近では、地球の温度上昇が17世紀から始まっていたという研究結果がある。これには目を注がざるを得ない。世界的な氷河の融解も同時期からであった。日本でいえば徳川幕府の成立前後、石油を大量に使い始めた第2次大戦後よりはるか遠い昔だ。さらに驚くことに、ヨーロッパでは中世、日本では1万年前の縄文時代の方が今よりはるかに高温であったという。それは明確な資料によって裏付けられているそうだ。そういえばNHKの番組『ブラタモリ』で東京の椿山荘(文京区)を訪ねた折、タモリが太古にはこの真下まで海だったと話していた。別の回では、浅草の伝法院で境内から発掘された4300年前の貝の化石が話題になった。つまり温暖化は化石燃料、二酸化炭素とは関係がないということだ。もっと大きな宇宙規模のリズム、主に黒点変化に現れる太陽の活動に左右されている。そして今太陽の活動が低下傾向にあり、地球は寒冷期に向かいつつある。これが冷静な学識だ。二酸化炭素と温暖化をリニアに繋いで化石燃料を諸悪の根源だと決めつける話には、どこか、どこかのプロパガンダの臭いがする。ただ同じ温度上昇でも、都市部のヒートアイランド現象は人為的原因にまちがいはない。これには対策が必要であるし、改善も可能だ。
 ともあれ温暖化の観点からも、原発は不要である。とても「死に神の名刺」は受け取れない。

 上記の温暖化に続けて、「太陽熱、風力、バイオ、燃料電池など可能性を秘めた分野はあるものの一刀両断の解決にはならない」と書いた。太陽「熱」としたところが、いかにも古い。いまどきは、太陽「光」であろう。だが家庭でのエネルギー使用は熱利用が6割で電気利用を上回る。煮炊きや風呂は熱、テレビや洗濯機は電気だ。だから太陽光発電よりも、昔ながらの屋根に乗せる太陽熱温水器の方がよほど理に適っている。だから、「太陽熱」はあながち外れてはいなかった。燃料電池も技術的な壁は高いが外れではない。風力、バイオ、それに太陽光は大外れである。どれぐらい外れているかは、これまで折々に語ってきたので繰り返したくないが、一例を挙げよう。800億円を投じるというソフトバンクのメガソーラー計画の発電量は全国で20万キロワットである。最新鋭のガス・コンバインドサイクルは、一機でその5倍の発電能力がある。もちろん度外れた巨大な敷地は不要だ。
 だから、『近いうちに』自然・循環型エネルギーにシフトすれば原発に取って替われるというような話は夢幻(ユメマボロシ)、絵空事にすぎない。こんなうまい物言いはどこか、どこかのプロパガンダの臭い芬々だ。原発に取って替われる、というよりもとっくにそうしているのは火電である。気をつけよう! 暗い夜道と自然エネ、だ。

 もう一点。                                                   
「死に至る毒であると知っているだけで十分だ。核は一方に戦争へと向かう原爆となり、他方、平和にバイアスをかけると原発となる。戦争と平和、両極のようでともに放射能という毒を孕んだ双生児なのだ」との愚案について。
 大枠は真っ当であるが、「平和にバイアスをかけると原発となる」はいかにも楽観的だ。いや、『フクシマ』を目の当たりにすれば能天気でもある。前言に身が縮む。こうなれば、識者の言に耳を傾けるに如くはあるまい。昨年5月の本ブログ「とんでもニュースを見て」で引用した内容とほとんど同じではあるが、内田 樹&中沢新一「日本の文脈」(角川書店)から抄録してみる。  


【中沢】原子力はそれまでのエネルギーとまったく違います。石油も石炭も、太陽エネルギーを受けて植物や動物がエネルギーを蓄え、それが地下で化石になったものを掘り出してエネルギーとして使うわけですが、原子力は「生態圏」で何ものにも媒介されていないエネルギーです。原子炉というのは、生態圏の内部に本来はそこにあるはずのない外部が持ち込まれた状態です。その発想は、一神教の最初の発想とそっくりだと思いました。
 一神教の神様は、その超越性ゆえにたいへん危険なものであるけれども、それをどうやって日常生活に取り込むか、そのインターフェイスをつくる努力を、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教もしている。アニミズムだって神様とのあいだにインターフェイスをつくりますが、一神教と比べたら、神様との距離は近くて、もっと親しい、穏やかな関係ですね。
 一神教の伝統があるヨーロッパやアメリカでは、原発が危険なものだとわかった上で受け入れているんですよ。そういう危険なものを受け入れるときにはどうしたらいいのかについて三千年以上考えてきて、そのノウハウの上にやっている。ところが日本はそれをしてこなかった。
【内田】アニミズムの国だから、原発のような一神教的な「恐るべきもの」をどう遇したらよいのかわからなかったということだと思う。
【中沢】もう原発はいらない。だけど、ただ原発は不要って言うだけじゃなくて、その背後にある思考の問題、宗教の問題、そして日本人が、一神教とどうつき合っていくのかということを、これを機会に真剣に考えないといけないですね。


 さすがに哲学者の考察は深く、かつ重い。事故直後の映像で福島第1原発2号機の青地に白い模様が描かれた建屋を見た時、目眩がするほどの強い違和感を覚えた。「一神教の神様」を「どうやって日常生活に取り込むか、そのインターフェイス」がいかに陳腐で貧困か、それを象徴する壁画に見えたのだ。実に安っぽい、貧相な絵だ。「安全」を象るどころか、「安直」をペンキで垂れ流したとしか見えない。「安全神話」の化けの皮だ。興ざめどころか、発想の鈍ましさに身の毛がよだった。「原発のような一神教的な『恐るべきもの』をどう遇したらよいのかわからなかった」成れの果てが、ただ一つ残った建屋のあの壁面ではなかったのか。あれこそが爆風に引き裂かれ放射能に塗れた「死に神の名刺」、それも刷り損ないの1枚だったのではないか。
 件の社会的リゾームは不抜のごとく堅固でも、思想のそれはあまりにも浅い。根茎を成すどころか、デラシネに近い。古くて、いまだに新しい日本の宿痾だ。(この稿、おわり) □