伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

3つのトンチンカン

2012年06月14日 | エッセー

 O沢元代表は原発再稼働に反対だそうだ。と聞いて、事の意外さになんだか気持ちの悪い連想が浮かんだ。乙女が女に至る端境を前にして見せる含羞、いや年増が意外にもなにかの拍子に見せる乙女のような可憐……。
 そのどちらも、以下の記事で微塵に砕けた。
〓〓民主党内で消費増税をめぐる亀裂が深まるなか、再稼働の決断は首相をさらに追い詰める可能性がある。首相に再稼働の再考を求める署名に賛同した民主賞議員は、鳩山由紀夫元首相、小沢一郎元代表ら117人に上る。小沢グループの東祥三前内閣府副大臣は8日の街頭演説で、「問題が起きた時にどう対処するか想定しない限り再稼働は難しい」と訴えた。消費増税の反対派が、再稼働慎重に軸足を移す動きもある。〓〓(5月9日付朝日) 
 元はといえば、J民党時代から原発を推進してきた古株である。M主党代表の時に、党の路線を明確に原発推進へと転換した。そんな人物が簡単に『転向』するわけがない。筆者の連想がなんと他愛のない、幼稚な、能天気で、かつ乙女チックであったことか。赤面のいったりきたりだ。
 しかしそれにしても、見え透いたマキャベリズムではないか。いな、その名に値しないほどに低劣、稚拙な駆け引きではないか。まことに辻褄が合わない。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。その尻馬に乗るH山元首相もいるが、こんなのは語るに足らない。

 Kん前首相も原発再稼働に反対らしい。この御仁は事故対応を邪魔した張本人として、いま断罪されつつある。もう懲りましたとも言わず、国会事故調で「今回の事故を体験して最も安全な原発は、原発に依存しないこと。つまり脱原発の実現だと確信した。」などとおよそ日本語になっていない与太を飛ばした。「最も安全な原発」が「脱原発」なのでは、「脱原発」こそ「最も安全な原発」となる。『原発』は依然として残るではないか(それを言うなら、「最も安全な発電は」でしょうが)。洒落たレトリックのつもりだったろうが、飛んだ墓穴を掘っている。Kんクンはリテラシーからやり直すべきだと、筆者は「確信した」。
 加うるに、以下の報道だ。
〓〓「大飯再稼動待った!」国会議員119人署名に菅直人前首相の名前がない<しょせん、口先だけがまたも露呈>
 再稼働に反対し、民主党の国会議員119人(6月11日現在)が「慎重に判断すべし」と申し入れている。ところが、この署名に肝心の名前がなかった。脱原発にあれだけこだわった菅直人前首相だ……。
 「小沢グループと連動していると思われたくないんだろう」(菅周辺)なんて、言われている。〓〓(Gendai.Net 6-12)
 さらに、事故調での糾弾に言い訳を繰り返している。いやはや情けない(5月29日付本ブログ「月夜の蟹の泡」をリファレンスされたい)。憐れなことに、Kんクンは、テメーがすでにレイムダックであることに無自覚だ。病識のないクランケはとことん御しがたいというべきか。頓馬この上もない。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。舞台を降りた者は慎まねばならぬ。この程度の者と比すべくもないのだが、徳川慶喜は大坂退却後ひたすら謹慎し、後にも維新の事どもについてついに語らず生涯を終える。慎むとは、すなわちこういうことだ。爪の垢の3番煎じくらいでも飲んではいかがか。

 もうひとつ。
〓〓尖閣諸島:領有明確化に国会動くべきだ…衆院委で石原知事
 衆院決算行政監視委員会は11日、東京都による尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入問題について集中審議し、石原慎太郎都知事らを参考人招致した。石原氏はこれまでの政府や国会、外務省の対応を厳しく批判し「都がやるのは筋違いだが、(国が動かないから)やらざるを得ない。国会も国政調査権を使って(国に議員の上陸を認めさせるなど)動くべきだ」と訴えた。
 石原氏は、中国側が尖閣諸島を「核心的利益」と位置付けて領有権を主張していることや、中国漁船衝突事件を引き合いに出し「『強盗に入るぞ』と言われて戸締まりしない国がどこにあるのか」と指摘。「こんなことになったのはあなた方の責任、政府や国会の責任だ」と怒りをあらわにし、領有権を明確にするための対応強化を国に求めた。〓〓(毎日新聞 6月11日)
 本人も「筋違い」だと言う。これをトンチンカンと呼ばずしてなんとしよう。40年前である。小平は、「釣魚島の領有問題は後世の知恵にゆだねて一時棚上げしよう」と提案した。棚上げというソリューションである。白黒に拘るコストと棚上げによるベネフィットを天秤に掛ければ、答えは明らかだ。大人の知恵である。それを今、なぜ「筋違い」にも蒸し返すのか。100年は優に跨いでしまうのが真正の政治的センスである。これでは政治音痴、政治神経失調ではないか。理由があるとすれば、臭い鯉の一跳ねを演じてみせたということか。
 かくなる上は、快刀乱麻を断つ筆鋒に捌いてもらうに若くはない。内田 樹氏だ。
◇対中国強硬論者というのがいますけれど、彼らに共通する特徴がわかりますか。全員「早口」ということなんです。石原慎太郎なんかその典型ですけれど、込み入った話というのを生理的に受け付けられない人たちが「日本人にとってベストなオプションはこれである。中国人はこれに同意しない。だから、中国人は間違っている」という信じられないほど非論理的な推論を平然と口にする。視聴者はそれを「へえ、そうなんだ」とぼんやり聴いている。◇(ミシマ社「街場の中国論」から

 宜なる哉。『強盗』と『戸締まり』は非常に分かりやすい。だが、ひとつだけ落としている。『だれの家か?』だ。そこで悶着しているのだ。それは「込み入った話」である。長遠な歴史に国家観や国境観が絡み合ったI原氏などが「生理的に受け付けられない」アポリアなのだ。だから、件のソリューションとなった。
 さらに、長い引用をする。

◇小沢一郎とか石原慎太郎とか「大言壮語」するタイプの政治家の経国済民の大演説だってぼくはずいぶん薄っぺらだと思います。彼らはことあるごとに「日本の国益」について語りますが、その日本の「国益」を論じるときに、あの方たちは、自分たちの意見に反対する人間を「日本人」にカウントしていないでしょう。自分に反対する人は簡単に「非国民」と切り捨ててしまう。あの方たちにとっては、「自分に賛成する人間」だけが「日本国民」で、彼らに反対する人間は日本人に含まれないんです。それなら確かに「国益」を守るのだって、たいして難しくはないでしょう。国益とか公益とかいうことを軽々と口にできないのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならない、ということが「国益」や「公益」には含まれているからです。反対者や敵対者を含めて集団を代表するということ、それが「公人」の仕事であって、反対者や敵対者を切り捨てた「自分の支持者たちだけ」を代表する人間は「公人」ではなく、どれほど規模の大きな集団を率いていても「私人」です。自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか、わしは知らん言うような狭量な人間に「国益」を語る資格はありません。オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としていますが、これはとても大切なことばだと思います。「弱い敵」ですよ。「強い敵」とは誰だって、しかたなしに共存します。共存するしか打つ手がないんだから。でも「弱い敵」はその気になれば迫害することだって、排除することだって、絶滅させることだってできる。それをあえてしないで、共存し、その「弱い敵」の立場をも代表して、市民社会の利益について考えることのできる人間、それを「市民」と呼ぶ、とオルテガは言っているのです。これが「公」の概念ということの正しい意味だとぼくは思います。「公共の福利」とか「国益」という概念も、「人類益」というもっと大きなフレームワークから考えると所詮は「せこい」話なんです。「せこい」話なんだけれど、この程度の「せこい」利害でさえまともに代表できる人間がいない、それを代表することのほんとうの意義が分かっている人間がいない、というのが今の日本の政治の病根の深さを表していると思いますね。◇(角川文庫「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)

 鍛冶屋の相鎚は拍子をとって交互に打つ。リズムが合わないと、鎚音が乱れる。それがトンチンカンだ。合わせる気もない、手前勝手な夜郎自大のおはこだ。 □