伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ふと、「戦争を知らない子供たち」

2013年05月07日 | エッセー

 改憲論議を聞いていて、ふと「戦争を知らない子供たち」が過った。北山修が詞を書いて杉田二郎が曲を付け、ジローズが歌った。71年の「レコード大賞新人賞・作詞賞」を取った曲だ。ベトナム戦争の最中(サナカ)、ベ平連解散の3年前だった。

  〽戦争が終わって僕等は生まれた
   戦争を知らずに僕等は育った
   おとなになって歩きはじめる
   平和の歌をくちずさみながら
   ※僕等の名前を覚えてほしい
   戦争を知らない子供たちさ※

   若すぎるからと許されないなら
   髪の毛が長いと許されないなら
   今の私に残っているのは
   涙をこらえて歌うことだけさ
   (※繰り返し)

   青空が好きで花びらが好きで
   いつでも笑顔のすてきな人なら
   誰でも一緒に歩いてゆこうよ
   きれいな夕陽の輝く小道を
   (※繰り返し)

 実をいうと、当時からこの曲があまり好きではなかった。同じアジアで戦火が猛り日本が片棒を担いでいるというのに、いかにも歌詞が現実離れしている。加えて、杉田二郎はなぜこんな妙に明るい能天気なメロディーを付けたのか。おかげですっかり“調子のいい反戦歌”のようで、違和感を覚えたものだ。ただ、それまでの呪詛のような重苦しい反戦歌へのオブジェクションだったといえなくもない。だがそれにしては、“レコ大”などというメジャーな世界に唯々として取り込まれたのでは身も蓋もなかろう。
 今にして振り返れば、「知らない」とはどういう謂なのだろう。原体験がないということならもっともだが、団塊の世代を軸に考えると「知らない」はずはない。なにせこの「子供たち」の親は、戦争を嫌と言うほど知っている。ならば、知らせなかったのであろうか。それもない。あるいはこの「子供たち」は戦争に手を染めていないから、平和を謳歌する資格があるとでも言いたいのか。それほど短見でもあるまい。此の期に及んで言葉にすれば、違和感とはつまりそういう心情であった。
 仮に敗戦の年に60歳であった人達は1885年、明治17年に生まれた勘定になる。因に吉田茂は67歳で終戦を迎えた。団塊の世代の親達もほとんどが戦前に生まれている。第二次大戦のエポックが大き過ぎるためか、明治や大正というと遥かな歴史的過去のように感じるが、そうではない。そのことを頭に入れて、以下の論攷を玩味願いたい。内田 樹氏の「疲れすぎて眠れぬ夜のために」からの抄録である(◇部分)。 
 
◇みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興の事業をまず担ったのは、日清日露戦争と二つの世界大戦を生き延び、大恐慌と辛亥革命とロシア革命を経験し、ほとんど江戸時代と地続きの幼年時代からスタートして高度成長の時代まで生きた人達です。そういう波瀾万丈の世代ですから彼らは根っからのリアリストです。あまりに多くの幻滅ゆえに、簡単には幻想を信じることのないその世代があえて確信犯的に有り金を賭けて日本に根づかせようとした「幻想」、それが、「戦後民主主義」だとぼくは思っています。リアルな経験をした人たちが、その悪夢を振り払うために紡ぎ出したもう一つの「夢」なのだと思います。
 貧困や、苦痛や、人間の尊厳の崩壊や、生き死にの極限を生き抜き、さまざまな価値観や体制の崩壊という経験をしてきた人たちですから、人間について基本的なことがおそらく、私たちよりはずっとよく分かっているのです。人間がどれくらいプレッシャーに弱いか、どれくらい付和雷同するか、どれくらい思考停止するか、どれくらい未来予測を誤るか、そういうことを経験的に熟知しているのです。戦後日本の基本のルールを制定したのは、その世代の人たちです。
 明治二十年代から大正にかけて生まれたその世代、端的に言って、リアリストの世代が社会の第一線からほぼ消えたのが七〇年代です。「戦後」世代の支配が始まるのは、ほんとうはその後なんです。◇

 なんとも優しい視線だ。戦前世代に罪科を局在させる勝手な狭量や偏頗は微塵もない。このような「戦後民主主義」観はだれをも悲しませず、だれにも希望を与える。となれば「『戦後』世代の支配が始まる」70年代の嚆矢に「戦争を知らない子供たち」が間の抜けた反戦歌を唄ったことは、「悪夢を振り払うために紡ぎ出したもう一つの『夢』」の小さな結実だったといえなくもない。
 引用を続けよう。

◇基本的に戦後日本のぼくたちはまるっきり「甘く」育てられているのです。人間の本性がむき出しになるような究極の経験に現場で立ち会ったことがない。そういうほんとうの貧困も飢えも知らなかった世代の人たちが、七〇年代から社会の中枢を占めてゆくわけです。極限的なところで露出する「人間性の暗部」を見てしまった経験があるかないかは社会とのかかわり方に決定的な影響を及ぼしただろうとぼくは思います。
 「戦後民主主義」というのは、すごく甘い幻想のように言われますけれど、人間の真の暗部を見てきた人たちが造型したものです。ただの「きれいごと」だとは思いません。誰にも言えないような凄惨な経験をくぐり抜けてきた人たちが、その「償い」のような気持ちで、後に続く世代にだけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた「夢」なんだと思います。◇

 書き上げた歌詞を、北山が真っ先に持ち込んだのは加藤和彦だったそうだ。ところが、加藤は鼻であしらった。寡聞にしてそのわけを知らない。加藤が作曲していれば、この曲は別の天運を辿ったにちがいない。ひょっとしたらビッグヒットにはならず、隠れた名曲といわれたかもしれない。歌ならそれでもいいが、社会が運命を違(タガ)えるわけにはいかない。
 「戦争を知らない子供たち」が「まるっきり『甘く』育てられている」のは、なぜか。それは、「『償い』のような気持ちで、後に続く世代にだけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた『夢』」が預けられているからだ。洒落ではなく、これこそ夢寐にも忘れてはならぬ遺託ではないか。改憲論議の囂しさに『夢』が掻き消えていくような気がしてならぬ。別けても少しばかり「戦争を知ってる」世代が議論を焚き付けるありさまは、ゾンビのようで悍ましい限りだ。
 「戦争を知らない子供たち」が「戦争を知らない」意味を問い直す。そんな頃合いではないか。 □