伝説のブログ

スポーツや音楽、社会批評など、感じたことを語ります。

新型コロナウイルスによる店の体温測定問題

2020-09-06 16:56:47 | Weblog

昨日、理髪店に行ったら、入口で体温測定をされた。

新型コロナウイルス感染拡大のため、仕方ないのかな、と思って、額にセンサーを当てられて体温測定。

すると、意外なことに、「37度を超えています」と言われた。

計り直してもらっても37度超え。

 

体調は万全だったので、これは意外。

37度を超えていると、店に入れないルールになっているらしく、仕方なく帰ることに。

 

普段、平日は、会社の方針で朝体温を測っているのだけど、その日は休日なので計ってなかった。だから、熱がないと主張もできず。

帰ってから、普通の電子体温計で計ったら、体温は36.5度。

やはり普通に平熱だった。

 

その日は、日中でとても暑くて、炎天下に置いてあった車に乗って行ったので、体温が上がってしまったもよう。

しかし、体調が万全なのに、店に入れない、というルールは、いかにも釈然としないものが残る。店にとっても、本当は平熱の人を店に入れられない、というのはマイナスでしかない。

額にセンサーを当てて計る体温計の精度もあるけど、37度を超えていたら、別の電子体温計で計るとか、してもらいたいな、と感じた。


矛盾だらけの規制をするテレビの限界

2019-09-11 12:43:39 | Weblog

最近、テレビをほとんど観なくなった。 理由は、面白くなくなったから。

一般的に世間で言われている理由と同じだ。

でも、テレビ自体はあるから、たまにいろんな番組を観てみるけど、やはり面白くないな、とまた観なくなる。

今は、CS放送のスポーツ中継をたまに観る以外は、ほぼYouTubeだけを観る生活に変わってしまった。

YouTubeがここまで面白くて、テレビが面白くないのは、やはり視聴者の反応を常に意識できるか否かの違いだろう。

YouTubeは、グッドマークとバッドマークがあって、視聴者の反応が即座に反映される。

YouTuberは、グッドマークが多くついた動画の傾向を強め、バッドマークが多くついた動画の傾向を弱める。 自然と、視聴者が面白いと感じる動画が増えていく流れが出来上がっている。

一方、テレビは、ブラックボックス化された視聴率に踊らされている。とりあえずついている、または放映権の地域的な側面から、かなり偏ったものになっていると想定できる。 そして、近年ではテレビ番組に寄せられる一部のクレームを拾い上げて反映されるため、抑揚のなく、面白みもない番組が量産されている。

今のテレビ番組には、ほとんど表現の自由がないと言っても過言ではない。

暴力的なシーン、暴言のシーン、性的なシーン、ハラスメントのシーンは、実映像であろうとドラマやアニメであろうと、次々と排除されている。

とはいえ、ある程度視聴率が取れる刑事ドラマは、残酷な殺人シーンや暴力シーンが放映される。結構、目を背けたくなるシーンや、犯罪を助長するのではないかと心配になるシーンもあまり規制されていない。

暴言のシーン、性的なシーン、ハラスメントのシーンの方が実社会においては軽い犯罪なのに、その表現が規制され、重大犯罪の殺人事件のシーンは野放しにされる、という大きな矛盾を抱えている。 性的なシーンなどは、一般の大人が日常生活で日々行っていることであり、規制するのはそもそも感情の問題でしかない。

論理的、合理的に考えれば、実社会の罪の重さに応じて、表現も規制されてしかるべきだろうが、テレビは、視聴率を支えている熟年層の好みと価値観に合わせており、論理性と合理性が崩壊している。

一部のマイノリティーのクレームに合わせて番組を作り続けているテレビは、これからも右肩下がりになっていくはずである。

その一方で、YouTubeで作りだされるチャンネルは、視聴者の需要を即座に反映させて、より面白い動画が増えていくはずである。

テレビが変わるには、スポンサーのランダム化や視聴数表示、評価表示などを導入しなければならない。 それを実現できなければ、近い将来、テレビは、YouTubeよりもはるかに小規模なメディアになるだろう。


田舎の選挙はまだ無法地帯

2019-09-01 00:57:43 | Weblog

選挙の度に、困らされるのが候補者の会社訪問。 呼び出されて、演説を直立不動で聴かされる。ほとんど内容のない話を仕事の途中で聴かされるのは辛い。

来週が告示なので、まだ告示前であるとはいえ、事前運動として会社訪問して演説は法律で禁止のはず。

でも、田舎では、こういった行為が見逃されているのだ。

とはいえ、現在は、動画を撮られて、ネットで流されてしまえば、もうすぐに世間に広がって、叩かれる。 選挙違反と判定されれば、厳しい罰則が適用される可能性もある。

昔に比べると、規制がどんどん広がっていて、こうした会社訪問演説は減ってきてはいるが、まだまだ残っている。 選挙は、今やYouTubeを活動拠点にする候補者が当選できる時代。

そろそろ田舎の候補者も、選挙のやり方を考え直すべきときに来ている。


令和狂騒曲 ~中途半端な5月改元に振り回された4月~

2019-04-29 16:49:55 | Weblog

休日には音楽と野球のことしか考えていない私だが、平日はサラリーマンをしている。

この4月は、元号に振り回された1か月だった。

4月1日に政府が新元号「令和」を発表。 5月1日からの日付は、「令和元年」にしなきゃいけない。 書類も、電子ファイルも、システムも、切り替えていく。

しかし、4月2日に総務省は、4月中は5月以降の日付であっても「令和」を使わないように、各都道府県に通知を出した。そうなると、市町村も、それに従っていくことになる。つながる各企業も、それに従っていくことになる。

結構な大騒動になった。 4月中に作って5月以降も使用、あるいは5月から使用するものは、どうすればいいのだ、と。

そのうえ、総務省は、5月以降の年度を「令和元年度」とすることも発表。 4月中は「平成31年度」で5月以降は「令和元年度」になるなんて、おかしいじゃん、と思いながらも、どうにもならない。

昭和から平成になったのは1月。平成元年1月から平成元年度にしてしまうと、4月から始まる平成元年度と3か月重複してしまうから、平成元年度に切り替わらなかった。 だから、年度途中の改元なら令和元年度もないだろう、と考えていたら、令和元年度は重複の心配がないからか、切り替わるのだという。

大抵のシステムは、4月の元号を年度名称として1年間使用する仕組みになっていて、これもまた大騒動になった。

そして、マイクロソフトのExcelやWordは、政府の意向に従ったのか、なかなか令和に対応してこない。 ようやく対応版を配信し始めたのは、10連休前の4月26日だった。

結果、政府の意向に振り回され続けて、多忙を極めてしまった。 多くの官公庁や企業がそうだったのではないだろうか。

その反面、テレビやネットでは、4月1日の「令和」発表から、何のためらいもなく「令和」が連呼されていた。

私も、もう途中から、「平成」でも「令和」でも、どうでもいいじゃないか、とあきらめの境地に達してきた。

そう思わせてくれたのは、レペゼン地球が作った歌「令和」と、ウタエルが名曲を替え歌にした「新元号「れいわ」の歌」だった。



この2曲を聴いていると、「平成」か「令和」で悩んでいる自分がばからしくなってきたのだ。 「呼び方がただ変わるだけじゃないか」と。


イチローが50歳まで現役で活躍するなら二刀流

2018-05-08 21:26:23 | Weblog
 イチローがマリナーズ球団の会長付特別補佐となって、今季の試合に出場しないことを発表した。

 

 44歳。天才打者であっても、年齢による動体視力の衰えは、どうすることもできないのだ。

 

 動体視力の衰えにあまり影響を受けない投手であれば、50歳くらいまでプレーできる。現に山本昌は、50歳までプロ野球で戦力として機能した。

 

 しかし、野手の場合は、動体視力が衰えると打率を残せなくなるので、戦力として機能しない。
 イチローは、まだ守備と走塁なら一流の成績を残せるが、打者としてはもうシーズンを通じて2割5分を残すことも難しいだろう。

 

 31歳だった2004年の成績は、打率.372、262安打、36盗塁。36歳だった2009年の打率.352、225安打もすさまじい記録だ。38歳の2011年には40盗塁を記録している。
 それでも、43歳の2017年には打率.255しか残せなくなる。

 

 30代までなら3割5分を残していても、物足りなさを感じた打者が43歳になれば、2割5分程度しか残せなくなるのである。

 

 イチローは、投手としても成功できた選手である。
 時代が異なれば、二刀流で成功を収めていたかもしれない。

 

 イチローが50歳まで現役を続けるのであれば、これから投手もやってみるのも一案だ。
 2015年にイチローは、大リーグで登板してMAX143キロを出している。真剣に投手として調整すれば、貴重な中継ぎ投手兼外野守備固め、走塁、代打での起用もできる。

 これまで常識をことごとく覆してきた選手だけに、これから二刀流をやってみたら面白い。

想像以上に腐敗した相撲協会を改革できるのか

2018-02-09 21:25:29 | Weblog

 テレビ朝日で放送された「独占緊急特報!!貴乃花親方 すべてを語る」は、久しぶりに目頭が熱くなった。

 貴乃花親方の弟子に対する想い、国技である相撲に対する想いがストレートに伝わってきたからだ。
 この番組を思い切って放送したテレビ朝日は、英断であり、これぞ報道だ、という気概を見せてくれた。

 日本相撲協会の腐敗ぶりには、最初から失望していたが、貴乃花親方のインタビューを通じて、想定以上に腐敗していることが明らかになった。

 だが、驚きはしない。日本の組織は、程度の差こそあれ、腐敗する構造になっている。
 不祥事を起こしたとき、どのように隠蔽しようか考えるのが日本の平均的な組織であるからだ。

 ただ、昔のように、隠蔽しきれることがほとんどなくなり、情報化社会の中で、必ず真実はどこかで明かされ、瞬く間に全国に広まる。
 今回の相撲協会のまずい対応ぶりは、過去のやり方を踏襲したのだろうが、もはや不祥事を組織内で握りつぶせる時代は終わったことを図らずも証明してしまった。

 公益財団法人という極めて恵まれた身分にある相撲協会だけに、強制的に人員を大幅入れ替えしなければ、改革はできないだろう。
 外部から来ている人員も、大抵は、名誉職に近い状況であるから、そこをもっと若く、公正な目と正義感を持った民間人を登用してもらいたいものである。


2019年5月1日改元案は、世紀の愚案

2017-11-25 13:17:20 | Weblog

天皇陛下の退位が2019年4月30日、改元が2019年5月1日となる案が安倍首相の口から急に出てきた。

統一地方選の日程が2019年4月にあるから、という理由らしい。
選挙のことしか考えない政治家の愚案である。

私は、既に国会議員に対する興味を失って久しい。
かつては偉い人だと思っていたが、歳を重ねるにつれ、飾り物にすぎないことを知ってしまったからである。

地盤、所属党名、知名度の3つで国会議員になれるかどうかはほぼ決まる。必然的に2世が多くなる。
選挙の度に、会社へ国会議員候補が自らの投票だけを呼び掛けに来るが、仕事の手を止められ、甚だ迷惑している。

最近は、せめて国会議員は、国民の邪魔だけはしないでほしい、と願っているが、改元でもなかなか願いどおりには行かなさそうな雰囲気になってきた。
憂うべき事態である。

朝日新聞の過去の世論調査で1月1日賛成が70%、4月1日賛成が16%であったという。
5月1日なら国民から1%の賛成すら危ういのではないか。

国民の多くは、1月1日を起点に1年が動く。官公庁は、4月1日を起点に1年が動く。
5月1日を起点にする者はほとんどいない。

5月1日改元では、カレンダーだけの話ではなく、様々なシステムにも、文書にも、甚大な被害が出る。

国民の声が果たして、飾り物の国会議員たちに届くのだろうか。

 


社会の未成熟が生み出している「保毛尾田保毛男」批判

2017-10-08 15:47:13 | Weblog

 とんねるずの石橋貴明が演じた往年の人気キャラ「保毛尾田保毛男」が批判を浴びている。
 当時とは時代が変わっているから「性的マイノリティー」をネタに笑いをとるのがけしからん、とネットを中心に騒動になっている。

 ネットでは、何か刺激的な出来事があると、一気に広がる。ネットをストレスのはけ口にする人々が増え続け、叩く対象を常に待ち構えているからだ。
 「保毛尾田保毛男」も、ネットでニュースになることによって、大きく広がって行った。
 
 確かに同性愛者にとっては、「保毛尾田保毛男」は、素直に笑えないキャラかもしれない。
 しかし、待てよ、と思う。

 そもそも、お笑いとは、マイノリティーを茶化すことによって生まれるのではないか。
 マジョリティーをネタにしても、笑いはとれない。マジョリティーの理性とは異なるマイノリティーをネタにすることによって、笑いが起きるのだ。

 漫才やコントは、ボケ役が馬鹿や変人といったマイノリティーを演じ、ツッコミ役がマジョリティーの正論で指摘することによって、笑いが起きる。

 なのに、なぜ、馬鹿や変人というマイノリティーから批判が来ないか。
 それは、馬鹿や変人が自らを馬鹿や変人と思っていないからである。お笑いとして大きく誇張することによって、自分は、あそこまで馬鹿であったり、変人であったりはしない、と思えるからだ。

 しかし、性的マイノリティーは、明らかに自分でも分かるものだから、「保毛尾田保毛男」を見ると、どれだけ誇張されていたとしても、自らを笑いものにされているように感じてしまうのだ。

 それでも、今回のように大きな騒動となることは、同性愛の性的マイノリティーが世の中に認められてきた証と言うこともできる。

 性的マイノリティーにもいろいろあって、少年少女愛の性的マイノリティーは、日本では認められるどころか禁止される方向にどんどん進んでいる。犯罪に結び付きやすいためだろうが、たとえ生まれ持っての性的マイノリティーであったとしても、世の中に認められることはなく、差別され、馬鹿にされても抗議すらできず、隠れているしかない。
 いつか「ロリコン」と馬鹿にしただけで、「ロリコン」の性的マイノリティーが抗議して、世間の賛同を得るほどの時代が訪れるのだろうか。

 同性愛の性的マイノリティーが、お笑いでその役柄を演じられただけで抗議するという社会は、まだ同性愛の性的マイノリティーが自らを差別されていると認識できる状況だからであろう。

 たとえば、同性愛の性的マイノリティーの男性がコントで女性を好きな男性を演じたとしても、性的マジョリティーは抗議しないのだ。

 そういう考え方をすると、「保毛尾田保毛男」を見て、そんな奴おらへんやろ、と性的マイノリティーが笑える世の中に成熟してほしいものである。

 


とんねるずによる、過剰に規制する風潮へのアンチテーゼ

2017-07-15 12:33:13 | Weblog

 私が最もよく観るテレビ番組は、『とんねるずのみなさんのおかげでした』である。

 その番組で先日、残念な出来事があった。
 6月1日に放送予定のキャンプ企画後半が急遽、別企画の放送に差し替えられてしまったのだ。
 のちにカンニング竹山が明かした話によると、キャンプ企画後半は、視聴者からのクレームによって放送中止となったらしい。
 私が見た限り、キャンプ企画前半は、放送中止になるほど問題の場面はなかった。私のように、キャンプ企画後半を楽しみにしていた視聴者も多いはずだ。それをごく一部のクレームによって放送中止にしたとすれば、もはやテレビ局の酷い過剰反応ではないか。

 5月25日放送のキャンプ企画前半は、カンニング竹山が主催。竹山のもてなしで、石橋貴明やトレンディエンジェル斎藤にキャンプの面白さを体験してもらう。そんな趣旨で始まった。

 にもかかわらず、石橋や斎藤が竹山に様々ないたずらを仕掛け、笑いの絶えない内容となった。

 とんねるずは、芸人たちの体を張った笑いを得意とする。
 現在でも、全落オープンを筆頭に、怪我のリスクがつきまとう企画を放送している。

 キャンプ企画は、まさにそのリスクがクレームの元になったのだろう。山道を登る途中で人工の巨大な岩が落下してきて下敷きになったり、ドラム缶風呂が倒れて体ごと投げ出されたり……。テント設営で、斎藤が近くに停めてあった竹山の愛車に傷をつけるという場面もあった。

 かつて、ドリフターズは、この手の笑いを得意としていた。天井から金タライが落ちてきたり、体で壁を突き破ったり……。
 そのため、しばしばPTAから有害番組と批判を受けていた。ところが、国民からは圧倒的な支持を得ており、現在でもレジェンドとして高い人気を誇る。

 しかし、最近は、そんな過激な番組をなかなか作れず、各テレビ局は、規制をどんどんエスカレートさせ続けている。
 本来、面白いもの、新しいものを作るには、自由な発想とリスクへの挑戦が必要だ。なのに、それを放棄せざるを得ない環境を作り出してしまっている。

 情報化社会や高齢化社会の弊害と言ってしまえばそれまでだ。制作者だからこそ持ちうる自由な発想とリスクへの挑戦を、情報に過剰反応する一部の者と保守的な年配者たちが奪っているからだ。

 にもかかわらず、常に怪我のリスクが付きまとう各種スポーツに対する規制はない。特にボクシングや総合格闘技などは、怪我と隣り合わせのスポーツで、死を招く危険さえある。野球やサッカー、ラグビーなどですら、決して安全とは言い難い。それでも、毎日、スポーツ番組は、放送される。骨折する場面や血を流す場面を平気で流すのだ。

 それだけではない。人気のある旅番組は、難関な登山をしたり、危険な地域を旅したり、獰猛な動物に近づいたり……。もっと言えば、車や飛行機に乗ったりするのも危険この上ないではないか。

 このように多角的に見ると、スポーツ番組や旅番組だから問題なしで、お笑い番組ならば問題ありという考え方は異常だ。

 そんな風潮に一石を投じたのが小木博明骨折騒動である。
 『とんねるずのみなさんのおかげでした』で、石橋と斎藤と小木がシンガポールを旅する企画があり、小木は、ロケ中に鎖骨を骨折した。
 VTRは、小木が最初からいなかったかのように、小木の出演場面をすべてカットしていた。

 VTRを観終わった小木は、とぼける。
「あれ?終わり?俺の、カットになったの?。全部カットっておかしくね?」
 木梨も、それに乗って被せる。
「骨折するとテレビって映せないの?」
 すると、小木も、同調するように切れ芸を繰り出す。
「俺もびっくりだよ。流せよ、骨折してるところ!俺が苦しんでる姿、流せよ!俺がすげえ痛がってる姿、流せよ!!」
 石橋は、苦笑する。
「お前は骨が折れたけど、俺たち全員心が折れたんだぞ!」
 それでも小木は譲らない。
「使っていいんじゃないの。本人がいいって言っているんだから」
 ハプニングを本人が笑いに変えて、批判を封じるとんねるずは、さすがである。

 私には、小木の発言すべてが過剰に規制する放送業界への批判に聴こえた。
 骨折してまで笑いをとろうとした芸人の奮闘を、お笑い番組は、批判を恐れず、流すべきだ。番組の最初に小木が骨折する場面を放送することを断っておけば、その場面を不快に思う者は観ずに済む。それでも、観て批判をする者は、悪質なクレーマーだ。

 とんねるずの自由闊達で刺激的で型破りなお笑いは、スポーツに通じるところがあって、私は好感を持っている。
 過剰な規制に対するとんねるずの挑戦は、どんな分野にも応用できる。規制を打ち破ってこそ、面白いもの、新しいものが作り出せるからである。


受動喫煙対策から将来の煙草販売全面禁止への道

2017-06-11 22:49:11 | Weblog

 受動喫煙対策を強化する健康増進法改正が今国会では見送りになりそうである。
 自民党が反対しているらしい。
 「自民党たばこ議員連盟」なる組織があり、飲食店の全面禁煙に抵抗する勢力となっているようだ。
 自民党には大西議員のように、時代錯誤な発言をする者もおり、一筋縄ではいかない。

 受動喫煙で常々嫌な思いをしてきた私にとっては、ようやく健康増進法改正で、改善されると喜んでいたのに、筒井康隆の名作『最後の喫煙者』みたいに、最後まで抵抗する勢力は、やはりいるのである。

 受動喫煙は、様々な病気が悪化する一因にもなるし、アレルギー体質の人にとっては苦痛でしかない。
 なぜもっと早くに禁止されなかったのかが疑問である。

 そもそも、覚せい剤や大麻が法律で禁止されているにもかかわらず、煙草が禁止されないのか。
 誰しも子供ながらに抱く疑問が、20歳未満に禁止されている煙草や酒がなぜ20歳以上であれば許されるのか、である。子供の体に悪いものが大人の体に悪くないはずはなく、本来禁止されてしかるべきものなのである。

 禁止する前に、煙草や酒は、産業として発達しすぎてしまったのが禁止しようにもできない事情なのだろう。
 つまり利権の都合でタブーとなってしまったのだ。
 また、覚せい剤なら直ちに健康被害が出るが、煙草は直ちに健康被害が出にくい。それが、ここまで扱いに差が出る要因となっている。

 それでも、時代はどんどん流れている。20年くらい前まではどんな車にも灰皿が付いていたのに、今の車には付いているのを見かけない。
 全面禁煙の店も増えてきているし、企業でも館内では禁煙にするところが増えてきている。
 世界に目を向けると、ブータンは、いち早く煙草を販売禁止としており、喫煙対策先進国である。今後、どんな国々がそれに続けるかが見ものである。

 日本も、受動喫煙対策によって、飲食店は全面禁煙になったら、その後はすべての店に広がり、すべての交通機関にも広がっていくのだろう。

 それにしても、煙草の代替となる、依存性は高いが無害の物がなぜ作られないのか不思議である。現代の技術力であれば、代替物を作ることくらい簡単なのではないか。
 それを作れたら、現在、煙草産業に従事する人々を、その代替物の生産業に移行して、救済することも可能だ。
 早く画期的な代替物が出てきてほしいものである。