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「生駒聖天宝山寺」(いこましょうてんほうざんじ)

2012年03月23日 07時24分19秒 | 古都逍遥「奈良篇」
生駒の聖天さんとか単に生駒さんと呼ばれ、商売の神さまとして全国的な信仰をあつめている「歓喜天尊」は、約300年前開祖湛海律師(たんかいりっし)によって勧請された霊天で、正しくは「大聖歓喜天」と称する。

 聖天を、はじめて此処に勧請した湛海津師は江戸中期の憎で、永年天尊奉伺の霊地を探し求め、不動明王の冥示を得て延宝6年(1678)此の地に入山したと伝わる。この地が弥勒浄土(都史)の内院であるとの古説に基づき、天和2年(1682)弥勒菩薩像を造らせ岩屋の本尊とした。また岩山は不動(無動)明王の座所とされたころから、不動明王像を自作して当寺の本尊とし、都史陀山大聖無動寺と称したが、のち宝山寺と書いた弘法大師の真蹟が見つかり寺号を改めたとある。

 元禄12年(1699)東山天皇から皇子誕生祈願の勅命を拝して法験を顕し、長宮、秀宮の二皇子が続いて誕生した。この御礼として拝領した宝剣は天皇の諱である朝仁の一字を受けて朝日宝剣と云い、当山の寺宝として今に伝持されている。
 以後代々の天皇から毎年撫物(天皇の身代りになる肌着の類)を預って、玉体安穏万民豊楽の長日祈願を修する習わしとなり、明治の初めまで勅願寺とされてきた。宮家や摂家もまたこの例にならい、幕府でも6代将軍家宣から嗣子誕生の祈願を請われ、このたびも祈りの験は忽ち顕れ、七代将軍家継の誕生を見た。

 のち文化2年(1805)第八世義山和尚の時、天堂を西の山手に移し、唐破風付きの割拝殿をその前に設けた。現在の八棟造りに改増築したのは明治10年(1877)という。
 十一面観世音菩薩が聖天の御本地仏であることから、天堂の建立に先立ち、天和4年(1684)郡山藩梶氏の助縁を得て観音堂を造営。天保15年(1844)第十三世法慶和尚がこれを増改築し、大阪、堺の信者から寄せられた西国、坂東、秩父各霊場の小観音像百体をここに併祠して今日に至っている。

 開祖入山当初の居所であった奥の院には、貞享2年(1685)光明院が、宝永2年(1705)には惣持院が、それぞれ自作の不動明王を本尊とする修練道場が建てられ、のちに奥の院本堂となる。

 このほか、明治17年(1884)に建てられた擬洋風建築獅子閣(重文)があり、愛染明王を本尊として昭和32年(1957)に多宝塔が建立された。

 一方、背後に見える般若窟は伝承によれば役行者と空海が修行をした岩窟であると言われる霊地で、太古の火山噴火によって出来た火山岩の山だという。般若窟のど真ん中には、弥勒菩薩像が安置されているが、危険なため参拝者の立ち入りを禁じており、残念ながら中には入れない。

 所在地:奈良県生駒市門前町1の1。
 交通:近鉄奈良駅から生駒駅、生駒駅からケーブルで宝山寺駅下車。
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