「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「藤原宮跡」(ふじわらのみやあと)

2010年08月29日 08時06分17秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 平城遷都1300年祭で盛り上がりをみせている奈良の都であるが、それより前、日本で最初の本格的な中国風の都城であった藤原宮は、条里制を用いた首都(藤原京)の中心部にあたる。その藤原京は、近年の発掘調査でこれまで考えられていたよりはるかに広大なスケールであったことが判明した。東西約5.3km、南北約4.8km、碁盤目状の道路で整然と区画され、少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であったという。

 持統8年(694)から和銅3年(710)の平城遷都まで3代にわたる宮跡である。律令国家の確立をめざした天武天皇の遺志を、夫人の持統天皇が継ぎ大和三山(耳成山、畝傍山、天香具山)に囲まれた一角のほぼ中央に1km四方の宮城が造営された。
 
 現在、宮跡は広々とした草原状になっており、大宮土壇と呼ばれる大極殿跡(木立が目印の土壇)、内裏(だいり)跡、朝堂院跡、役所跡などが土中に埋もれたままである。藤原京に関する史跡などもほとんど無く、「太極殿跡」の石碑にその痕跡が見られるくらいだ。

 宮跡を散策しながらぐるりと体を回すと、大和三山のほか大和青垣の山々、多武峰、二上山、葛城金などのマルチ展望がのびやかに広がる。
 見るものが無かったので、これらの山々を眺めながら持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし白たへの 衣干したり 天香具山」(万葉集巻1-28)の歌を思い浮かべていた。
最後に香具山の西麓にある藤原宮跡資料室をのぞいた。発掘資料の展示、当時の暮らしぶりをCGで再現したビデオなどを公開している。この中で興味を引いたのは貴族や庶民の食事メニューである。

 所在地:奈良県橿原市醍醐町。
 交通:近鉄「耳成駅」より徒歩20分。
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「法輪寺」(ほうりんじ)

2010年08月06日 06時38分44秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 斑鳩の北の端、三井(みい)の里にある法輪寺は、三井寺(みいでら)とも呼ばれ、「法林寺」「法琳寺」とも書く。創建は聖徳太子の子、山背大兄王(やましろノおおえノおう)によるものとされているが、創建には二説が伝えられている。
 ひとつは、推古30年(622)聖徳太子が病に伏せったとき、山背大兄王がその子由義(ゆぎ)王らとともに太子の病気平癒を願って建立しという説(巻子本『聖徳太子伝私記』引用の『寺家縁起』)、もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済の開法師・圓明法師、下氷新物(しもひノにいも)三人が合力して造寺したとする説(『聖徳太子伝暦』『上宮聖徳太子伝補闕記』)である。

 昭和に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明している。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられている。

 延長6年(928)の『寺家縁起』には、当時の檀越(=檀家)が高橋朝臣であり、寺域は、東は法起寺堺、南は鹿田池の堤、北は氷室池の堤、西は板垣の峰を限ると伝えている。
 鎌倉時代の様子は、金堂・講堂・塔・食堂等が建っていて「建立の様は法隆寺に似たり」と『聖徳太子伝私記』に記されているが、『大乗院日記目録』には、南北朝時代の貞治6年(1367)正月3日に法輪寺が炎上したとある。
 現在のような規模になったのは、正保2年(1645)の台風で、金堂・講堂・中門・廻廊・食堂等、諸宇ことごとく倒壊し、ただ三層目を吹き飛ばされた三重塔だけが残ったとされ、17世紀後半の『愚子見記』にも、三重塔の存在だけが記されている。

 享保年間、寳祐(ほうゆう)上人は法輪寺の復興に着手し勧進を行っている。熱心な信者となった大坂の町人が檀主となり、さらに多くの法縁を得て、大小の仏像三十余躯・画像二十幅・舎利塔二基・霊宝十余箱の修理が、ついで、鐘楼・妙見堂・八幡宮の修理が行われた。元文4年(1739)には三重塔修復が緒に就き、その年の7月には心礎から仏舎利が発見されるにいたり、その顛末は、寳祐上人が感動を込めて『仏舎利縁起』に記されている。塔修復なかばで没した寳祐上人のあと、遺弟大圓上人等により、宝暦10年(1760)に塔修理は完成し、宝暦11年には現金堂、続いて旧講堂、南大門が復興された。

 三重塔は明治時代に入って国宝に指定され、明治36年(1903)に解体修理、昭和19年(1944)7月21日、雷火で炎上・焼失した。
 井上慶覺師と康世師の住職二代にわたる三重塔再建の発願・勧進により、昭和50年3月、三重塔は創建当初の様式にて竣工し、11月に落慶法要が行われた。

 本尊薬師如来坐像(重要文化財)は、飛鳥時代の木彫如来像としては唯一・最大のものといわれており、樟(くす)材の一木造(いちぼくづくり)で、ところどころに木寄せが行なわれているが内刳りは見られないという。頭をまっすぐに起こし、施無畏(せむい)、与願(よがん)の印を結び、二重の宣字形台座の上に懸裳を垂下させて結跏趺坐している。

 寺伝によると、山背王一族の現世利益を祈願して鞍部鳥(くらつくりのとり)に造らせた薬師如来と伝え、薬壷を持たない古い形式をもっている。面長なお顔、直線的平面的なお体つきなど、一見して止利式の如来像の形を受け継いでいるが、2枚の大衣を重ねる着衣形式やうねりのある二重瞼、一直線に引き結んだ唇、衣文が左右対象性を崩していることなどから、中国の斉周様式の影響が考えられるという。

 十一面観音菩薩立像(同)、平安時代の作と伝わる木造彩色の像で、像高は3m60cmもある。
 頭部から台座(請花)までを杉の一材から彫り出し、両肩を接ぎつけています。大きな眼、太い眉、厚い唇の力強い顔には、平安前期の特色がうかがえる。化仏は、宝髻の上に仏面一、地髪の正面に慈悲面三、左側に瞋怒面三、右側に牙上出面三、背後に暴悪大笑面一とあり、右手を長く垂下して左手を屈臂する。
 かつては初午のお参りが盛んであったと伝えられ、現在も三井の集落の方々による観音講がある。
 斑鳩町の法輪寺の三重塔は法隆寺、法起寺の塔とともに「斑鳩三塔」と呼ばれ、寺を取り囲むように「三井」の集落がある。寺とともに歩んできた裕福そうな集落である。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町三井1570。
 交通:JR西日本関西本線大和小泉駅から徒歩15分。
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