「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「三寳寺」(さんぽうじ)

2008年07月30日 22時20分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 バス停「三宝寺」から周山街道(国道162号線)を少し北へ行くと、「三寳寺」と刻まれた石柱がある。そこを右手へ道なりに登って行くと、バス停からぶらぶらと歩いて五分ほどで黒塗りの冠門と出会う。
 そこを入ると大黒像が迎えてくれる。右奥に本堂で、左奥に庫裡が見える。
 当山は寛永5年(1628)右大臣菊帝(今出川)経季郷と中納言今城(冷泉)為尚後年彼は江戸に入り赤穂義士の大高源吾に吉良邸の茶会の日を教え討ち入りを助けたことで知られている。郷が後水尾天皇の御内旨を受け中正院日護上人を御開山に迎え建立された中本山で「金映山妙護国院三寳寺」の号は後水尾天皇より下賜され、爾来、大いに栄え塔頭寺院は12ヶ寺を数えた。

 幕末維新の変動と堂上貴紳の東上等により一時衰微荒廃したが、昭和天皇の即位式(昭和四年)の建物一棟を下賜され本堂とし、妙見堂改築、大黒堂再建をはたし寺観を整え現在に至っている。
 本堂内には日蓮大聖人、日朗上人、日像上人の御真骨が祀られている他、開山日護上人作の釈迦如来仏や多宝如来・日蓮大聖人・子育鬼子母神等が安置され、南側(表門の右手)に、茶室「松宝庵」がある。この茶室は、千宗旦の四天王の一人の山田宗偏(1627~1708)が若年の頃、当山塔頭で茶道の奥義を究め茶道宗偏流の流祖となった故事に由来し近年建てられたもの。
 後年、宗偏は江戸に入り赤穂義士の大高源吾に吉良邸の茶会の日を教え討ち入りを助けたことで知られている。

 「松宝庵」より遠くは伏見桃山城や京都市内が一望出来、騒々しい世界から緑と静けさが別世界へ導いてくれる。
 境内には宝暦年間に京都御所菊亭家邸内より根分け移植された名桜「御車返しの桜」は、余りの美しさに帝が車を返したとの言い伝えによる。円山公園の枝垂れ桜と姉妹桜で、平成16年京都市より「保存桜」に指定された。また、境内の中心にある楊梅(やまもも)は樹齢や700年の古木で「御車返し桜」と共に「府民の木」に認定されている。

 本尊三面大黒福寿尊天は伝教大師(最澄)の作で、日蓮聖人が比叡山遊学の折、開眼入魂の三面六臀の秘仏大黒尊天で60年に一度、甲子の年に御開帳されている。大黒尊天初講会や60日ごとの甲子祭は多くの信者で賑わうという。現在の御堂は平成七年に再建したもの。

 当寺には「洛陽十二支妙見」の戌妙見大菩薩を祭祀しており、開運厄除け、方除け、寿福の神として親しまれ本堂背後の高台にある。この妙見宮へ参るために石段を登り始める。まず、「釈迦佛壱千体堂」で、開山日護上人の作とされる高さ約1.8㍍の釈迦仏坐像を安置。周囲には10㌢程の高さの釈迦仏立像千体が祀られている。「世継ぎの釈迦仏」ともいわれ、仏に願えば子が授かるととう。石段をさらに登ると本法寺から譲り受けた本法寺を開山した日親上人作の梵鐘を吊る鐘楼。さらに登ると、妙法経(法華経)守護の「三十番神堂」、そして三面六臀の秘仏大黒尊天を祀る「大黒堂」。

 その上に豊臣秀頼、淀君、国松丸の供養塔で「縁結びの塔」と言われている石塔。妙見宮は、さらに石段を登りきったところにある。この石段の参道の途中、茶道宗偏流の流祖山田宗偏が若年の頃、使っていた茶室「四方庵」旧跡へのわき道がる。居住していた塔頭や茶室「四方庵」ともに無く、旧跡に十世山田宗偏家元によって記念碑が建てられている。

 所在地:京都市右京区鳴滝松本町32。   
 交通:市バス8系統、JRバス「三寳寺」下車、徒歩約5分/市バス10、26、59系統「福王子」下車、徒歩約10。京福電車「高雄口」下車、徒歩約15。





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普茶開祖「海寶寺」 (かいほうじ)

2008年07月23日 00時08分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄本線各駅停車で「墨染」駅を降り、丹波橋方面に向かって住宅地の小路をブラブラと歩くこと15分、緩やかなカーブを曲がると左手に美しい甍の寺が見える。綺麗に舗装された参道に入り10数段の階段を上ると桜に彩れた山門に行き着く。普茶開祖と書かれた山門を入ると視野が広がり色とりどりの花に迎えられる。

 黄檗宗の禅寺「海寶寺」は、享保年間(1716-36)万福寺の杲堂元昶が開創と伝えられ、宝暦4年(1755)に伽藍建立、普茶料理開祖の寺で知られている。寺地一円は奥州の名将伊達正宗の屋敷跡といわれ、方丈前に豊臣秀吉遺愛の手水鉢がある。

 本殿脇にある高さ約6メートルの木斛(もっこく=つばき科)は、政宗の手植えと伝わる。樹齢は約400年、桃山時代随一と讃えられて。7月はじめ、老木は濃緑色の分厚い、楕円形の葉に隠れるように、小さな黄白色の愛しげな花が枝先まで咲き誇る。

 方丈の襖絵「群鶏図」(現在は京都博物館所有)は、伊藤若冲晩年の作と伝わる。
 若沖(1716~1800) は江戸中期の画家で、高倉錦小路の青物問屋に生まれたが、弟に家業を譲り、画業に没頭。写生風の独特の画風を確立した。特に鶏画で知られた。
 代表作に相国寺に寄進の「動植物綵絵(宮内庁蔵)」、「鹿苑寺大書院障壁画」などが名高い。晩年、伏見区深草の石峰寺前に住み、同寺の石の羅漢像づくりに専念。墓は石峰寺と相国寺。
 なお、普茶料理は5000~6000円(4日前までに4人以上で要予約)で楽しめる。

 所在地:京都市伏見区桃山町正宗20。
 交通:京阪電車墨染下車、徒歩約15分、丹波橋下車徒歩約20分、市バス最上町下車徒歩約5分。
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「墨染寺」(ぼくせんじ)

2008年07月15日 07時34分14秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電鉄墨染(すみぞめ)駅から徒歩3分ほどの所にある墨染寺(正式名称・日蓮宗深草山墨染寺)は、貞観16年(874)摂政藤原良房が、娘の産んだ親王(清和天皇)の加護のため、深草(ふかくさ)の地に「貞観寺」として建立したが、天皇家・摂関家の勢力の衰退とともに寂れていった。

 寺伝では寛平3年(891)平安時代の歌人、上野岑朝臣(かんつけのみねおあそん)が、この地に葬られた堀川左大臣・藤原基経(もとつね)を哀悼して、

 「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」

と詠んだところ、桜がこれに応えて色あせて咲いたという故事がある。
 それがそのままこの地の地名となったらしい。その話を知った豊臣秀吉が旧貞観寺を「墨染桜寺」として再興した。天正年間(1573~91)に、豊臣秀吉の姉が法華経に深く帰依したのをきっかけに、秀吉が大僧都・日秀上人に貞観寺の故地等と寺領千石を与え、上人は旧寺を改めて法華宗・墨染桜寺を建立した。

 その後現在地へ移転された。現在の墨染めの桜は、15年程前に受け継がれた2代目であるが、そう言えば、うっすらと墨を流したような気もするが、だいたい白っぽい花を咲かせている。この桜にちなんで墨染寺は通称「桜寺」とも呼ばれ、本堂には「桜寺」の立派な扁額が掲げられている。狭い境内は満開の桜で一杯だ。

 本堂前にある御手洗鉢は明和5年(1768)年に歌舞伎役者の2代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれている。
 墨染駅から八百屋の通りをそのまま行くと住宅街の一角にあるこじんまりとした佇んでいる。京都の著名な観光寺と違って町に溶け込んだ寺で、桜の季節以外は訪れる人もまれなようだ。京のおばんざい(家庭料理)を商っている店もあり、普通の京都の下町である。

 取材に出向いた頃は、幸いにも「墨染め桜まつり」が開催されており、商店の軒先には桜の造花が飾られ、キャンペーンセールなどで活気ずいていた。昔、駅のそばを流れる運河(疎水)は汚染され、ゴミなども流れていたが、綺麗になった川面に桜の花影が美しさを漂わせていた。

 所在地:京都市伏見区墨染町741。
 交通:京阪電車「墨染」駅下車、西へ徒歩2分。
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「欣浄寺」(ごんじょうじ)

2008年07月10日 23時13分41秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京阪電車本線の墨染駅を降り、商店街の緩やかな坂道を下り、鮮魚・野菜店がある最初の信号を左手に折れて国道24号線方向に向かって5分ほど歩くと、欣浄寺と書かれた標識がある。およそ寺があるとは想像できない一般の貸切駐車場から入り、寺の裏手にあたる小さな鉄製階段を上ると、鉄筋コンクリートで作られた本堂に出る。
 深草少将の屋敷跡だった場所と云われる所に欣浄寺は、曹洞宗(禅宗)のイメージは境内を見た限りではうかがえない。

 鎌倉時代の寛喜2年(1230)頃に、道元禅師が布教に務めた地とされ、道元禅師の聖地「深草閑居の史跡」とされる。当初真言宗だったが、曹洞宗、浄土宗、曹洞宗という様に宗派が変遷したという。
 寺伝によれば応仁の乱(1467~)までは真言宗の寺院だったと伝わるが、天正・文禄年間に浄土宗に改宗している。元々は深草の興聖寺内にあった安養院という寺で、天正年間にこの地に移って来たようだ。文化年間(1800頃)に現在の曹洞宗に落ち着き、「清涼山欣浄寺」と号する。

 本堂には、丈六の毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)、俗に云う「伏見大仏」をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などが安置されている。
 本堂前に広がる境内には「小町姿見の池」があり、木花が水面に映り小町の色香を今も漂わせているようだ。池の東の藪陰の道は「少将の通い道」といわれ、願いある者がこの道を通ると願いも失せると伝わっているが、恋慕の小道は住宅街で途切れてしまっている。

 深草少将は弘仁2年(813)3月16日薨去し、この地に埋葬された。
 欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号(法名・清涼院殿蓮広浄輝大居士)
に由来する。
 深草少将は小野小町との物語でよく知られており、この地から山科の小野小町のもとへ百夜通ったといわれている。
 境内の一隅には少将と小町の塚があり、またその前に少将遺愛の「墨染の井戸」があって、「涙の水」とも「少将姿見の井戸」ともいわれている。弘法大師利剣の名号が納められているこの井戸の水は、今もなお涸れることがない。
 「通う深草百夜の情け 小町恋しい涙の水は 今も湧きます欣浄寺」(西条八十)

 いにしえのこのあたり一帯は一大竹林で、「竹の隠れ家」とも称され、
 「その色を分かぬあわれも深草や 竹の葉山の秋の夕ぐれ」(新続古今集)
と無品親王に詠まれており、竹林の号の由来ともなっている。

  また、池波正太郎著「殺しの四人―仕掛人・藤枝梅安」(講談社文庫)に、次のような一節がある。
  
 『石清水八幡より伏見の町まで約一里半。伏見は西からの京都の関門というべきところで、淀川を往復する名高い夜舟も伏見に発着する。
 中書島の郭も大したものだし、むかしむかし豊太閤秀吉の城下町であった名残りが、町割りの大きな規模に見てとれる。
 峯山又十郎は、伏見の町の中心を通りすぎ、墨染へ出た。
 墨染は、伏見の町の北部、深草村に境するあたりで、ここの墨染寺門前には元禄年間にもうけられた安直な遊郭があり、かの赤穂義士の頭領・大石内蔵助が吉良邸に討入りを前にして、大いに鬱を散じたものである。
 その墨染寺の手前に、欣浄寺という名刹がある。
 なんでも、この地は、かの深草少将の邸宅の址だそうで、少将はここから山越えに、山科の小野小町のもとへ百夜かよったそうな。
 さて……。
峯山又十郎がこの欣浄寺の門へ入って行くのを見とどけたとき、
(こりゃ、どういうことなのか……?)
藤枝梅安は、おのが胸さわぎをどうしようもなかった。
 なんとなれば……。
 欣浄寺こそ、梅安の育ての親ともいうべき鍼医者・津山悦堂の墓があったからだ。』  

 所在地:伏見区西桝屋町1038。
 交通:京阪電車墨染下車、徒歩約5分。










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「大雲院」(だいうんいん)

2008年07月03日 10時06分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 一年坂から石塀小路を経て、石畳の道を二年坂、産寧坂(さんねんさか)へと向かう途中、高台寺へと通じる「ねねの道」から山鉾に似たひときわ高い塔「祇園閣」が見える。そこが今回訪れた大雲院である。

 大雲院は、もとは浄土宗知恩院に属していた寺であったが、現在は浄土教系の単立寺で「龍池山」と号している。
 当院は、天正15年(1587)正親町天皇の勅命を賜り、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、御池御所(烏丸二条南)の地で貞安(じょうあん)上人が開山、織田信忠の法名に因んで「大雲院」を寺号とした。
 その後、豊臣秀吉が寺域の狭いことを憂慮して天正18年(1590)寺町四条南に移転。さらに島津以久(ゆきひさ:日向国佐土原(さどはら)城主)の帰依を受け寺も栄えたが、天明(1781~)・元治(1864)の大火で焼失。
 明治期(1868~)に復興したが、寺域周辺が商業・繁華街化したため昭和48年(1973)に現在の地へ移転した。

 貞安上人は、天正3年(1575)、能登の西光寺に住 んでいたが、上杉謙信の穴水城攻めを逃れて、同4年に安土(近江)の円通寺へ移る。そこで、織田信長の帰依を受け、能登の西光寺にならって西光寺を建立し、浄土宗の布教で功績をあげ、信長から軍配団扇と朱印の感状を受けた。その扇と感状が当院に展示されている。

 本堂の裏(西側)にある祇園閣は、昭和3年(1928)に明治・大正期の財閥の大倉喜八郎が別邸として建てた「真葛荘」の一部で、喜八郎90歳の卒寿祝いに展望台として作ったものと云われている。設計は築地本願寺も手がけた伊藤忠太(1867-1954)と云われており、祇園祭りの鉾を模した高さ36メートルの鉄筋コンクリート造りの三層建、鉾先には金鶏が取り付けられている。最上階から市街が一望でき、涼しい風がまた心地好く、高台の氷室にいるようで真夏を忘れさせてくれた。五右衛門も「絶景かな・・・」と感嘆するだろうか。
 最上階には平和の鐘が架けられ、一層には阿弥陀像が安置されている。一層から三層への通路壁面には、中国・敦煌莫高窟に描かれている壁画を模写した壁画が描かれている。

 本尊は阿弥陀如来 坐像で、如来の着衣は通肩で、6丈(約3メートル)と大きい。鐘楼は桃山時代の建物で、北野天満宮から移築されたもので、島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うために寄進したもので、室町時代の造られたものという。

 祇園閣背後の墓地には、織田信長、信忠父子碑の他、島津以久、画家の望月玉川・富岡鉄斎、さらに大盗賊の石川五右衛門などの墓がある。
 石川五右衛門の戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。五右衛門の墓石の角はなく、後世の人たちが「貴族、金持ちから大判・小判を奪って貧しい人々にばら撒いた」という五右衛門伝説にあやかりたいと、かけらを持ち去ったともいわれている。

 春や夏など季節によって「京の旅」関連で特別公開されることがあり、調べて訪ねるとよい。今回は7月から始った夏の特別公開で、ガイド付きでゆっくり取材できた。

 所在地:京都市東山区祇園町南側594-1(円山公園音楽堂の西側)。
 交通:市バス「祇園」下車徒歩10分。

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