「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「地主神社」(じしゅじんじゃ)

2006年07月30日 07時44分29秒 | 古都逍遥「京都篇」
 縁結びとして知られた神社に、嵯峨野の「野宮神社」と清水境内にある「地主神社」が全国的にも有名である。野宮神社は竹林に囲まれ牧歌的景観すら感じるが、地主神社は都会的な華やぎを持った社で、ユネスコの世界文化遺産にも登録されているが、商的傾向をかいま見る社だ。

 社伝によれば、地主神社の創建年代は、神代つまり日本の建国以前とされ、あまりの古さにその歴史は明らかになっていない。 しかし近年、アメリカの原子物理学者・ボースト博士の研究により、本殿前の「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが証明され、「神代」の頃と推定される。
「神代」は『日本書紀』によると、紀元前660年以前を指し、考古学的視野に立つと縄文時代晩期といえる。
 また地主神社の鎮座する辺りは、古来「名勝蓬来山」と呼ばれ、 不老長寿の霊山として信仰を集めてきた。 京都盆地が湖であった古代から、この蓬来山は陸地であり、信仰の場となっていた。

 春になると、境内に咲く見事な桜は「車返しの桜」といわれ、弘仁2年(811)嵯峨天皇が行幸した折、その桜の美しさに3度車を返したという伝説が由来となった。
 現在の社殿は寛永10年(1633)、徳川3代将軍家光の再建により、入母屋造りと権現造りの様式を兼ね備えた桧皮葺極彩色の華麗優美な建築は、双堂という奈良時代の様式をも今に伝え、わが国の神社建築史上、貴重な存在であるとして、国の重要文化財に指定されている。特に、社殿内部の華麗な極彩色模様は、平安朝の優雅さと桃山文化の雄大さを巧みに取り入れた彩色で、比類のない見事さである。

 本殿は、一般には格天井(ごうてんじょう)か折上格天井であるところが、ここでは外陣、内陣ともに山形天井になっており、神社本殿の天井としては実に珍しい。本殿内外の極彩色や金箔を施した装飾金具は、目の覚めるばかりに鮮やかで、円柱のひとつひとつに描かれた金蘭巻文様(きんらんまきもんよう)が、柱によってそれぞれに異なり、図柄は「のし」模様や、「宝づくし」の模様に特色がある。
 拝殿は、南側正面が崖になっているため、いわゆる舞台造りになっており、ここの天井も一般の拝殿とは異なって、平板を並べて張った『鏡天井』で、そこに狩野元信の筆による丸竜が描かれていまる。音羽の滝の水を飲むために、夜ごと天井を抜け出したという伝説で知られているこの竜は、いずれの方角から眺めても自分の方をにらんでいるように見えるところから、俗に『八方にらみの竜』とも呼ばれ、清水七不思議のひとつにも数えられている。

 一方、総門は、横から見ると、个の形をした簡単な門ではあるが、正面は柱が鳥居の形となっており、丈夫に並んだ瓦の菊の文様が、古い時代の天皇との関わりを物語っている。
 縁結びとして信仰のある当社は、大国主命を主祭神として、その父母神、素戔嗚命(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめ)、さらに奇稲田姫命の父母神、足摩乳命(あしなずちのみこと)・手摩乳命(てなづちのみこと)を正殿に祭祀。三代続きの神々を祀ることから、子授け安産の信仰も集めている。芸能と長寿の神さま大田大神、旅行安全・交通安全の神さま乙羽竜神、知恵と才能の神さま思兼大神を相殿に祭祀。末社には商売繁盛にご利益のある栗光稲荷社のほか、祓戸社、おかげ明神、撫で大国、水かけ地蔵、良縁大国を祭祀し、華やいだ境内の様相は、東京の原宿に見るような若者達賑わいを見る。

交通:JR京都駅、近鉄京都駅から市バス206番で12分。
阪急河原町、京阪四条駅から市バス207番で12分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「知恩院」(ちおんいん)

2006年07月29日 10時31分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 毎年大晦日の夜、寺院の除夜の鐘が洛中に響き渡り凍てつく空気を振動させる。その中で「グオーーーン」と、ひときわ重厚な音をはなつ鐘の響きがある。腹の底まで染み入る鐘の音は70㌧もある知恩院の大鐘である。
 知恩院「華頂山知恩教院大谷寺」は、東山三十六景の一角、華頂山を背景に、鴨川を隔てて遥か西山までを一望にする景勝の地に、上・中・下三段に画された境内に、大小百六棟の大伽藍が威容を誇っている。浄土宗の開祖法然上人が30有余年にわたって教えを説いた京都東山の地「吉水の草庵」に始まる。

 法然上人滅後23年、文暦2年(1234)弟子の勢観房源智上人が報恩のために伽藍を建立し、四条天皇より「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を頂き、法然上人の御廟、念仏の根本道場の基礎を築いた。現在の寺観は江戸時代になって、浄土宗の教えに帰依した徳川家によって整えられたもので、大小106棟の建物から構成され、室町時代にかかる諸堂最古の勢至堂や、日本現存の木造建築の門の中で最大の規模をもつ三門をはじめ、経蔵、御影堂、大方丈、小方丈、勅使門、大鐘楼、集会堂、大庫裡・小庫裡などはいずれも重要文化財となっている。

 一般には山門と称するのに対し、三門と書くのは、「空・無相・無願」の3つの解脱の境地を表わす門、つまり三門であることからだ。元和7年(1621)に建立、重層入母屋本瓦葺きで、その構造・規模において、わが国現存の木造建築として最大の楼門である。大方丈は、俗に大殿と称し浄土宗開祖の法然上人の御影(みえい)を祀ることから御影堂(みえいどう、又は、みえどう)の名がある中心堂宇で、寛永16年(1639)徳川三代将軍家光によって建立された。建築様式は唐様を加味した和様で、単層入母屋本瓦葺き、奥行35㍍、間口45㍍、幅3㍍の大外縁をめぐらすというスケールの大きさである。

 知恩院の背後にそびえる山を東山三六峰の1つ「華頂山」といい、その山麓の山際に建つのが御廟(京都府指定重要文化財)である。法然上人亡き後、門弟たちが勢至堂のすぐそばに建てたのがこの建物である。方三間、宝造瓦葺で正面中央に両開桟戸がある。内部は瓦敷で中央に須弥壇を設けて厨子があり、その奥に法然上人の遺骨が納められている。

 NHKの「ゆく年 くる年」で定番となっている除夜の鐘の代表格である大鐘は、高さ3.3㍍、口径2.8㍍、重さ約70㌧と、京都方広寺、奈良東大寺とならぶ。寛永13年(1636)に鋳造された。当初この鐘を吊る環が、何度造り替えてもその重さに耐えかねていたところ、ある日、刀匠正宗・村正兄弟が知恩院へ参詣の折り、この事を聞き兄弟力をあわせて精魂込めて鋳造し、ついにこの大鐘を吊るすことができたと伝えられる。大鐘を支える鐘楼は延宝6年(1678)に造営された。入母屋造本瓦葺、方四間、吹放屋形式で天竺様式である。この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大
晦日の除夜の鐘だけである。
 勢至堂は享禄3年(1530)に再建された知恩院最古の建物である。単層入母屋造本瓦葺で、桁行21㍍、梁行20㍍の正方形のお堂で、徳川幕府による知恩院拡張以前の知恩院の本堂で、法然上人の幼名「勢至丸」ゆかりの勢至菩薩を本尊とする。堂正面に「知恩教院」という勅額が掲げられている。後奈良天皇の宸筆で、知恩院の名の起源がここにある。
 知恩院に伝わる七不思議というのがあり、よく知られているのが「①鴬張りの廊下」であろう。 御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る全長550㍍の廊下で、歩くと鶯の鳴き声に似た音が出て、静かに歩こうとするほど、音が出るので「忍び返し」ともいわれ曲者の侵入を知るための警報装置の役割をもっている。
また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、仏様の法を聞く思いがするともいわれている。もう1つよく知られているのが左甚五郎の「②忘れ傘」で、御影堂正面の軒裏には骨ばかりとなった傘がある。当時の名工、左甚五郎が魔除けのために置いていったという。また一説では知恩院第32代の雄誉霊巌上人が御影堂を建立するとき、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼にこの傘を置いて知恩院を守るこ
とを約束したと伝えられている。
大方丈の菊の間にある襖絵は狩野信政が描いたもので、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれている「③抜け雀」。三門楼上に2つの「④白木の棺」が安置されている。その中には将軍家より三門造営の命をうけた大工の棟梁五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められている。彼は立派なものを造ることを心を決め、自分たちの像をきざみ命がけで三門を造ったものの、工事の予算が超過した責任をとって自刃したと伝えられ、夫婦の菩提を弔うため白木の棺に納めて現在の場所に置かれている。
 黒門への登り口の路上にある大きな石「⑤瓜生石」があるが、まだ知恩院ができていない前からあるといわれ周囲に石柵をめぐらしてある。この石には誰も植えたおぼえもないのに、胡瓜のつるが伸び、花が咲いて、瓜があおあおと実ったという。また八坂神社の牛頭天王が瓜生山に降臨し、後再びこの石に来現し、一夜のうちに瓜が生え実ったという説が伝えられている。
 大方丈入口の廊下の梁に置かれている「⑥大杓子」は、大きさは長さ2㍍50㌢、重さ約30㌔もある、伝説によると真田十勇士の三好清海入道が、大阪夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったと伝えられている。
さて最後の不思議だが、「⑦三方正面真向の猫」である。大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野尚信筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名がある。
 重厚な歴史の中に浸るもよし、春夏秋冬の移り行く景色を楽しむのもよし、知恩院はそんなところである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「谷性寺」(こくしょうじ)

2006年07月28日 17時06分56秒 | 古都逍遥「京都篇」
京都府亀岡市は、京都市の西隣に位置し、かつて明智光秀が亀山城を築城し、治めた土地である。山あいにひっそりと建つ、平安時代創建(年代不詳)の「谷性寺」は、光秀が信仰を寄せたゆかりの寺。塚のある境内とその一帯には、キキョウの花が咲き乱れる。開基は中興秀圓法印と伝えられている。

 清瀧山谷性寺は通称光秀寺と呼ばれ、天正年間明智光秀は本尊不動明王をあつく尊信し、将兵はその加護をうける。光秀が本能寺に織田信長襲撃を決意し、この不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願をこらしその功徳を得て本懐を遂げた。また、真言宗の祖山高野山は「信長の高野攻め」の危難をまぬがれた。天正10年(1582年)信長を倒した光秀軍は、中国大返しで馳せ参じた秀吉軍と天王山で激突、その戦いに敗れた光秀、坂本上に向かう途中山科小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命、随従していた四天王の1人溝尾庄兵衛が介錯なし、近臣に托し生前光秀の尊信あつかった当寺不動明王のもとに手厚く葬るよう命じて坂本に去った。

 光秀の善政は、当亀岡ではその遺徳を偲ぶ声が巷に溢れ、「光秀公顕彰会」が発足、光秀祭りの多彩な行事へと発展していった。その後亀岡春祭りと名称は変わったが光秀主従の武者行列を中心とする春祭りは、谷性寺の光秀首塚墓前での追善供養の後、繰り広げられ毎年5月3日の亀岡を飾る。
 明智家の家紋の桔梗は、6月末から9月に至るまで次々と咲きみだれ、境内が桔梗一色に塗りひろげられるところから人呼んで「桔梗寺」という。周囲の山を借景にした眺めはまた絶佳というべく戦国武将光秀の雅を愛した心につながる。

 6月末から咲き始めた花の、ちょうど見頃を迎えた8月末、当寺を訪ねた。
今年は、天候のせいか例年より花数は少なく、色艶も例年よりは劣るとのこと。夏空に凛とした風情を見せるキキョウは、武将光秀の風格を偲ばせるものがある。
 元は、亀岡柳町の西願寺にあり、移築された「明智山門」は、400年の時を経ているが、蛙股には今も桔梗紋の彫刻を見ることができる。

 所在地:京都府亀岡市宮前町猪倉土山三39  
 交通:JR亀岡駅からバスで20分猪倉下車徒歩5分、亀岡ICからは湯の花温泉を経て車で15分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「醍醐寺」(だいごじ)  

2006年07月27日 09時12分38秒 | 古都逍遥「京都篇」
 太閤秀吉(豊臣秀吉)の醍醐の花見として知られる醍醐寺は、真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖宝・理源大師が貞観16年(874)醍醐山上に草庵を結び、観音像を彫って安置したのが始まり。 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって次第に堂塔が建立され、天暦5年(951)に五重塔が完成、山上山下にまたがる大伽藍が整った。 醍醐山上を上醍醐といい、五重塔、三宝院のある一帯を下醍醐と称し、多くの国宝・重要文化財群がある。平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 国宝・金堂は太閤秀吉の命で、紀州の湯浅から移築されたもので、また、国の特別史跡・名勝となっている三宝院庭園は秀吉自ら設計した桃山時代の華やかな景観を誇っている(世界文化遺産登録後、撮影禁止となった)。 

 荘厳な五大堂は、餅上げ競技で有名な「五大力さん」の本尊を祀るお堂で、毎年2月23日に下醍醐・金堂で授与されるお札「御影」は、五大堂でこの一週間にわたって祈願される。春は染井吉野をはじめ、枝垂桜が山内を埋め尽くし、甘い香りに陶酔する(桜祭り期間中は、入山料600円を納めなければならない)。秋は弁天堂を中心に燃え立つような紅葉に覆いつくされ、弁天池が紅に染まる様は、この世のものとは思えない。上醍醐山上からの眺望は無我の境地に誘ってくれる(山上まで徒歩約60分)。全山くまなく散策すると、歴史の中に身を置くことができ、俗世界のことを忘れ去ることができよう。 

 交通:JR京都駅、山科駅から地下鉄東西線で醍醐寺下車、徒歩15分。JR山科駅から京阪バス、醍醐三宝院下車、徒歩すぐ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大悲閣」(だいひかく)

2006年07月23日 21時20分56秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「花の山 二町のぼれば 大悲閣」(松尾芭蕉)

 嵐山の大堰川(保津川)にかかる渡月橋を渡り、右岸を川上の方に1㌔ほど歩くと嵐山温泉がある。その袖のつづら折りの石段を登りつめた山の中腹に小さなお堂、「千光寺」、通称「大悲閣」がある。本尊は千手観世音菩薩で、恵心僧都(源信・942-1017年)の作と伝えられており、当寺を開山した角倉了以(1554-1614年)の念持仏と言われている。

 角倉了以は、河川開鑿工事に協力した人々の菩提を弔うため、嵯峨中院にあった、千光寺の名跡を移して、創建したものである。了以は、大堰川、富士川、天竜川、高瀬川などの河川開発工事を行い、また豊臣秀吉より朱印状を得て、海外貿易も行っている。晩年、
この大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)、61歳で亡くなった。
 境内の池畔に座禅石が置かれ、大堰川の水面の音、小鳥のさえずり、風のささやきを聴きながら瞑想にふけっていたのだろう。当寺については、司馬遼太郎が「街道をゆく26嵯峨散歩」朝日文庫で記述しており、冒頭の芭蕉の句に触れて、“芭蕉の句にしてはいささか粗末で恥ずかしいほどのもの”と苦笑している。

 京都の寺院は周囲の景観を巧みに取り入れた借景寺院が多く見られるが、ここはまさに絶景で、遠く比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、麓には、京都市内を一望し、眼下に大堰川、秋ともなれば一面紅葉に包み込まれる。「天然勝境」の見晴らし堂から極楽浄土の世界に浸ってみたら如何かと。
 
 交通:京福電鉄嵐山下車、徒歩40分。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大仙院」(だいせんいん)

2006年07月21日 21時17分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺の歴史の中で、法脈の系統として4つの流れがあり、龍源派(南派)、大仙派(北派)、龍泉派、真珠派の四派。大仙院は、臨済宗大徳寺北派本庵として、塔頭の中でも特に地位の高い別格寺院とされている。

 当院は永正6年(1509)に大徳寺76世住職大聖国師と古岳宗陳禅師によって創建された。古岳宗陳和尚は、後柏原天皇や一条房冬、三条公兄らの公家、六角貞頼、小原定保らの武家の帰依を受け、大永2年(1522)に後柏原天皇から仏心正統禅師の名を賜り、天文5年(1536)には後奈良天皇から正法大聖国師の号を請けている。

 当院には、室町時代随一といわれる庭園、方丈建築、襖絵など、高い評価を受けている貴重な文化財がある。また、茶の湯を大成した利休が、生前から親しく詣られたところとして有名。利休居士を中心とする茶人の系譜からは、歴代和尚がたと密接なつながりがあったことがわかる。
 本堂(付玄関・国宝)は永正10年(1513)の建造で、禅宗方丈の古い遺構の一つ。日本最古の「床の間」と「玄関」を持つ室町時代の方丈建築。枯山水庭園(特別名勝史跡)は、白砂と名石を以って蓬莱山から落ちる滝、堰を切って大海に流れ込む水をすべて砂で表し、宝船や長寿の鶴亀を岩組で表した。東庭より流れた水は西行してこの中海に至る。後ろの建物は「拾雲軒」大海方丈南庭。蓬莱山より流れ出た水はこの大海に達する。盛砂と沙羅双樹の一木のみの簡潔な庭である。開祖古岳宗亘禅師による室町時代の代表的な枯山水庭園。

 襖絵の伝狩野之信筆紙本淡彩四季耕作図八幅・伝狩野元信筆紙本著色花鳥図八幅・相阿弥筆紙本墨画瀟湘八景図六帽・伝相阿弥筆紙本墨画瀟湘八景図十六幅(いずれも国重文・室町京都博物館寄託)は軸装にしてある。このほか寺宝の書蹟に大燈国師墨蹟(国宝・南北朝)がある。工芸品には張成作牡丹孔雀模様堆朱盆(国重文・元)があり張成の名作。

所在地:北区紫野大徳寺町54-1。
 交通:市バス大徳寺前下車、徒歩約5分、地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩15。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「本能寺」(ほんのうじ)

2006年07月20日 22時15分40秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者はあるべきかと候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、立ちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる」(謡曲・敦盛)

 本能寺は、織田信長最期の地として余りにも有名で知らない人は居ないほどである。だが、本能寺の由緒となると知る人は少ない。
 本能寺は、当初は本応寺という寺号で、室町時代の応永22年(1415)京都油小路高辻と五条坊門の間(現在の仏光寺のあたり)に日隆によって創建されたものである。日隆は、妙本寺の月明と本迹勝劣をめぐって対立したため、月明の宗徒によって本応寺は破却され、日隆は河内三井・尼崎へ移った。

永享元年(1429)、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助により、千本極楽付近の内野に本応寺を再建し、永享5年(1433)如意王丸から六角大宮の西、四条坊門に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。その後、本能寺は日蓮の本義である「本門八品」の法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の1つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西で方四町(約四万m2)の敷地を有し、また多くの子院も有していたが、天文5年(1536)比叡山との狭義論争に端を発した天文法華の乱により堂宇箱とごとく焼失し、一時
堺の顕本寺に避難した。

 その後、天文16年(1547)~天文17年(1548)のころ帰洛し、伏見宮第五代那高親王の子日承上人が入寺し、第八世を称し四条西洞院・油小路・小角・錦小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁した。日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。しかし、天正10年(1582)6月2日、日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた織田信長が、明智光秀の謀反により自刃した事件(いわゆる本能寺の変)により堂宇を焼失した。

 現在の寺域(中京区寺町御池下ル)は天正15年(1587)豊臣秀吉の命で移転されたもので、伽藍の再建は天正20年(1592)で現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であったという。
 江戸時代初期の元和元年(1615)に幕府から朱印寺領40石を与えられた。本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深く、江戸時代には末寺92を数える大寺院であったが、天明8年(1788)1月の天明の大火、1864年7月の蛤御門の変(禁門の変)により堂宇を焼失している。現在の本堂は昭和3年(1928)に再建された。

 信長廟元の本能寺は現在の中京区元本能寺南町にあった。この場所には本能小学校があったが、1990年代に廃校となり、その後発掘調査が行われた。それにより、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼んだ。
現在は本能寺会館という場所の裏にひっそりたたずんでいる。
 本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。信長公の慰霊牌の隣には、同じ本能寺の変で信長と共になくなられた武将の慰霊牌がある、その中には森蘭丸の名前もある。
 宝物殿には信長公の遺品等の他、蘭丸公の背負い刀等がある。

 所在地:京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522。
 交通:JR「京都駅」中央口から17・205系統のバスで河原町三条下車すぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大将軍八神社」(だいしょうぐんはちじんじゃ)

2006年07月19日 23時46分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平安京の帝や公家たちは、よほど小心者が揃っていたらしく、魔よけ、厄よけ、霊払いに関わる神社や寺社を多く建立している。北野天満宮にしても菅原道真の霊を安堵のものとするため祀られたもので、こういう手合いのものがそこかしこに点在している。大将軍八神社も、平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏(御所)の北西角の天門に星神「大将軍堂」を建て、方位の厄災を解除する社として創建されたという。

『山槐記』によれば治承2年(1178)11月12日、高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願の際、諸社寺に奉幣使が参向したが、 その四一社の内の一社と記されている。大将軍社の所在を示す文献としては『明徳記』「山名方の配備」に「大葦次郎左衛門が五百餘騎上梅津より仁和寺を経て並岡を東へ一條の末を大将軍の鳥居の前へかけいでて…」(岩波書店刊)とあり、応仁の乱等数々の戦火の中でも厚い信仰を受けていたようだ。江戸時代には方除厄除12社参りが流行し、その際に建立された天保11年の標石は現在も門前にある。

 創建当初は陰陽道のお堂として建てられた為「大将軍堂」と称していたようで、江戸時代に入り大将軍村の鎮守社として祀られるようになった。また、その頃からそれまでの北斗妙見信仰から太白精の信仰に移り暦神と習合して「大将軍八神宮」とも称した。 祭神は古来の日本の神ではなく大将軍一神を祀っていたが、明治時代に「神仏分離令」によって神道を国教とし現在の形「素盞鳴尊並びにその御子五男三女神、また聖武、垣武天皇を合祀」となり、御子八神と暦神の八神が習合して以後社名は「大将軍八神社」というようになった。

 大将軍神は、平安期における陰陽道信仰の内でも重要な方忌に関与する神として史料に登場する。これらは、予測が可能な天体の運行と人の運命との関係を知ることで、災厄を未然に防ごうとする予知に関わるものである。大将軍神は主に造営、修理及び入内、行幸に影響を及ぼすとされていた。『暦林問答集』に、「大将軍とは『新撰陰陽書』によると太白の精なり。3年ごとに四方を巡り12年で元の位置に戻る」とある。また『山城名勝誌』によると平安京の四隅に奉祀されたとある。しかし大将軍社は平安京古地図に当てはめるならば大内裏の西北角にのみ存在する。陰陽道は中国に端を発し、陰陽書『宅経』によると、「北西を天門として大将軍を祀る」とある 。つまり平安京造営に際して、唐の長安を手本とし天門に大将軍を祀る事で、四方のすべてを守護できるものと考えられる。また、祭神の暦神八将神とは、暦の吉凶を司る星神であり、太歳神、大将軍、大陰神、歳刑神、歳殺神、歳破神、黄幡神、豹尾神を指している。 当社所蔵の神像は北極星、北斗七星を神化したもので国土擁護等を誓願するものであると考えられる。「大将軍八神社社史」より

 当社所蔵の神像の内80体が重要文化財に指定されている。 これらは平安中期から鎌倉時代(10世紀末~12世紀)にかけてのものがほとんどで、内訳は武装像50体、束帯像二九体、童子像一体。 その内、武装の半跏像は北斗妙見像と全く同じであり、束帯像は星曼荼羅に描かれている北斗七星像の内の文曲星と同一である。また、童子像は北斗七星の巨門星に仕えている。その他の像は、道教寺院で祀られている60体の干支大将軍神像と共通するものがある。

◇武装神立像:11世紀頃制作。ずんぐりとした体型で神像独自のイメージがある。
◇衣冠束帯坐像神像:12世紀頃制作。巾子冠、袍、顎鬚をつけ腹前で笏をとる貴人の形 姿。
◇武装神判跏像:甲冑に身を固めて憤怒相を示す、神将形天部と同じでだが、どこか穏か さがある。
◇童子像:高さ50㌢で左膝を立て、草鞋をはき両手を袖の中に入れた姿勢をとってい  る。 
◇天球儀:渋川春海作で江戸中期。中国より伝えられ361座、1763星を確認して制 作。

 所在地:京都市上京区一条通御前西入西町55。
 交通:市バス北野白梅町下車南東300m、市バス北野天満宮下車南西200m。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大原野神社」(おおはらのじんじゃ)

2006年07月16日 12時51分18秒 | 古都逍遥「京都篇」
 洛北の名刹「大原三千院」のある「大原」とは違う、ここは「大原野」である。紅葉と皐月に囲まれた石段を上がると朽ちた土壁に沿って竹林が続く。
それが途切れた一角に茶屋があり、その淵から奈良の猿沢の池を模した「鯉沢の池」が広がり、初夏の頃ともなれば睡蓮、杜若が咲き競い天上美を漂わせる。参道左手の茂みの片隅に、清和天皇産湯の清水とも伝えられる「瀬和井」(せがい)の名水が、今もこんこんと湧いている。 
 「大原や小塩の山の小松原 はや木高かれ千代の陰見ん」 (紀貫之)
 「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」(大伴家持)

 瀬和井は古来歌枕にあがり数々の和歌に詠まれている。
 大原野神社は奈良の春日神社と同じ四大明神を祀り、本殿も春日造総檜皮葺で慶安年間(1648~1652年)に再建された。当初は桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)の意によって藤原氏の氏神として建てられ、京都の守護神として祀られた。平安時代は藤原氏の隆盛で栄えたが、応仁の乱により焼失し、以来衰退した。本殿石段下に句碑がある。
昭和天皇の和歌ご指導を勤めた五島 茂氏の「まさかりを過ぎしもみじ葉ためいろの くれなゐ霧らし夕日かがよふ」、当社の紅葉の美しさを偲ばせる。

 交通:阪急京都線東向日駅から阪急バス、南春日町下車。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大覚寺」(だいかくじ)

2006年07月13日 10時00分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
大覚寺は名月の頃がよい。日本三大名月観賞池のひとつ、大沢の池で観月の夕べが催されるが、池には龍頭船が浮かび琴の調べが響く。光源氏もかくありきかと王朝の雅に酔いしれてしまう。また、池に浮かぶ船の上と池畔にお茶席も設けられ、観月のひと時を茶人となって過ごすことができる。

 大覚寺は前勤務時代、毎月1回写経に通っていた。般若心経を写しながら無の境地に没頭する唯一の時間だった。
 当寺は、真言宗大覚寺派の大本山、門跡寺院で、嵯峨天皇の離宮嵯峨院(離宮形式の寺ともいう)で嵯峨御所ともよばれた。
 貞観18年(867)嵯峨院の破壊を惜しんだ皇女の淳和天皇皇后正子が寺院とした。文永5年(1268)の後嵯峨上皇を始めとし亀山・後宇多の三上皇が譲位後入寺し、特に後宇多法皇はここで院政を行った。建武3年(1336)年の兵火で全焼。後手多天皇皇子性円法親王が24世となり再興、以後この皇統から住持が出て大覚寺統と称し、南北朝時代は北朝(持明院統)と対立し、明徳3年(1392)の南北朝講和は大覚寺で行われたという。
 その後、応仁の乱などの兵火で荒廃したが、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進して復興させ、江戸時代は朱印地1016石。また後水尾天皇は皇弟・皇子を入寺させ、御所の旧殿を下賜してほぼ今日の寺観に復した。
 有栖川にかかる石橋を渡ると表門、その西の西門(明智門)と庫裏(明智陣屋)は明治初年亀岡城の御館門・御館を移したもの。

 当寺の見所は何と言っても襖絵で、正面の玄関を上がると、内部三方の壁画は伝狩野山楽筆松山鳥図である。東の宸殿(国重文・江戸)は入母屋造・桧皮葺き、後水尾天皇の寄進で旧紫宸殿ではないかという。内部は壁画にちなんで牡丹・柳松・紅梅・鶴の四間、前庭には右近の橘と左近の梅がある。

 客殿(国指定重要文化財・桃山)は多くの小間からなり、東の玉座の間(御冠の間)は南北朝合一の講和の間で、これの前方の間の障子の腰板絵は光淋門の渡辺始興の筆。ほかに雪・聖人・鷹・竹・紅葉の間などがある。狩野山楽筆と伝える絵は多いが、宸殿の牡丹図18面と紅葉図八面は山楽の代表作で、金碧画の最高作とされる。また客殿の松鷹図は当代水墨画の代表作とされ、永徳の筆と伝えられている。御冠の間は奥の半分の上段正面
の帳台構えの柱と鴨居が竹・桐・鳳凰の蒔絵で飾られ、嵯峨蒔絵という。これらの玄関・宸殿・客穀の大覚寺障壁画116面(桃山・江戸)は、国の重要文化財に指定されている。北の庭湖館(江戸)には平成4年(1992)末浜田泰介画伯の障壁画五九面が完成した。

 心経殿は八角堂で、嵯峨天皇以下五天皇の宸筆心経を納める。御霊殿は後水尾天皇の法体の木像を安置している。その南の五大堂(本堂)は、嵯峨天皇が空海に五大明王の秘法を修めたのが起源とされる。5つの厨子に木造五大明王像(国重文・平安)を納めており、木造軍茶利明王立像・木造大威徳明王立像(ともに国重文・平安)がある。

 庭湖とよばれる大沢池(国指定名勝)は、旧嵯峨院の苑池で、北部に大小の中島があり、大は天神島で菅原道真を祀る天神社があり、小は菊島で紀友則の歌にちなむという友則の歌碑がある。嵯峨天皇が菊島で野菊を摘み、花瓶にさしたところから、嵯峨流華道の発祥の基となったという。
 池の北の名古曽の滝跡(国名勝)は旧嵯峨院の滝殿の庭にあって、早く水が涸れたことが藤原公任(966~1041年)の「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそながれてなほきこえけれ」(「滝の音は途絶えてから長い年月が経つけれども、その名は今に流れ伝わって、なお名声を保っているのだ」(百人一首)で知られ、滝の名もこの歌から出たといわれる。

 大覚寺のもう一つの顔は、映画のロケ地として知られている。多くの時代劇の舞台として使用され、現代劇にも随所で登場している。参拝しているとき、ロケに出会うこともしばしばである。

 所在地:京都市右京区嵯峨大沢町4
 交通:JR京都駅より京都バス71、80、81 大覚寺前停留所。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする