団塊世代のアノ日

団塊世代の私的昭和史秘話。記憶の糸をたぐりながらの、単なる思い出話し。

木村政彦X猛牛

2007年09月22日 | 昭和31年~昭和34年
 

力道山のプロレスがあると、黒山の人だかりがして街頭テレビや電気

屋さんのショウーウィンドーのテレビで観戦していた頃の某月某日

(って、覚えてるわけないじゃん)。

 

夕暮れ時になり、我が家のおばぁちゃん、両親と私の総勢4名はいそ

いそと出かけたのであります。家から10分ばかりの六角橋のH食堂

へ。

 

そのH食堂で大晩餐会を催そうかという、なんと豪勢な事でしょうか。

 

まぁH食堂は大衆食堂で、観音開きのガラスドアを入ると正面に大き

な水槽があって、お魚さんがスゥ~イスイと泳いでいたなぁ。

 

テーブルにつき、おいしい晩餐を終わり帰るという訳ではなく、高い

とこに据え付けられたテレビをジィッと見つめてました。そうなんす

よ。その日に木村政彦(柔道家)が牛と闘うというのです。

 

さぁ時間になりました。猛牛が飛び出してくるという扉が開き、どう

なるんだろうかと思っていると、一向にその牛が出てくる気配がない

んですわぁ。結局、牛は出てこず、試合にならなかったという笑い話。

そんな時代だった。


ボーリング場

2007年09月21日 | 昭和31年~昭和34年
 

私が初めてボーリング場に行ったのは、高校2年生の時だった。某不

二家でバイトをしていて、そこのオネエさん達とバイトをしていた女

子高生と一緒に。

 

大学に入った頃が一番熱中していて、小、中、高と一緒だった親友の

T君とは顔を会わすと幾ら持ってるって所持金を調べて、じゃあボー

リングできるから行こうって、横浜駅周辺や山下公園まで足を伸ばし

ていた。それも朝の割引時間帯に。

 

初めてボーリングというのを見たのが、本牧の米軍のものだった。

 

おじさんと一緒に買い物に行った時、そのボーリング場なるものに入

ってみた。5レーンぐらいしかない小さなとこだったけど、大きな黒

いボールを投げ、白い一升瓶みたいな物を倒すのがおもしろいんだろ

うかと思ったなぁ。

 

その頃はまだ自動ではなく、ボールを投げる度に人の足が下りてきて、

セットしていた。一般の人がやるボーリング場といえば、青山のボー

リング場しかなかった。

そんな時代だった。


本牧あたり

2007年09月20日 | 昭和31年~昭和34年
 

S31年頃の伊勢佐木町にも、米軍専用のクラブがあった。後に不二

家になり、よく食べに行ったんだけど。

 

横浜平和球場からの道と山下公園からの道の交差点あたりは、米軍の

家族住宅が立ち並んでいた。フェンスの中は芝生が青々とし、バスケ

ットボールのコートやブランコなんかが見え、2階建ての家が立ち並

んでいた。

 

その住宅の山側には米軍用のPX(スーパーみたいなもの)があって、

アメ車がズラァ~っと並んでいた。大きな茶色の紙袋に買い物をした

物を一杯詰め、車のトランクに入れているのを見たねぇ。

 

そのPXの隣りにはキャフェテリアがあり、おじさんと生まれて初め

てハンバーガーを食べて、大感激したもんだ。世の中に、こんなうま

い物があるのかなぁって。まだ、ハンバーガーなんて、言葉も知らな

い頃だった。マクドナルドが銀座四丁目にできたのが、S45だった

と思う。

 

カウンターに座ると、目の前で日本人のコックさんが大きな鉄板の上

でジュ~ッとハンバーグを焼き、オニオンスライスを挟み、大好きな

ケチャップとマスタードをかけてくれた。

そんな時代だった。


桜木町駅周辺

2007年09月19日 | 昭和31年~昭和34年
 

今でこそ、桜木町といえば横浜のシンボル的な所になり、みなとみら

い21は週末ともなれば人、人、人。みなとみらい21あたりは、あ

の頃は造船所なんかがあったなぁ。

 

S31年頃の桜木町駅前あたりは、殺風景な所だった。大きな建物も

ないし、駅もなんか暗かったなぁ。現在の桜木町駅は、その頃の場所

からちょっと横浜寄りになっていると思う。

 

駅を出て右の市電通りを渡ると、桜木町デパートというのがあった。

デパートといっても、2階建てで細長いものだった。高校生の時、そ

この某不二家でバイトした時は、ほとんどが飲み屋さんだったけど。

 

駅正面には大岡川があり、あの辺りには大勢の港湾労働者がたむろし

ていた。ニッカボッカにラクダ色の腹巻き、地下足袋姿で、沖仲仕の

仕事を求めて集まり、手配士がトラックで来て人数分を乗せて横浜港

の方へ走り去っていた。

 

あの頃はコンテナ船もなく、貨物船は沖合いに停泊し、はしけで船に

渡り人力作業で荷物の積み下ろしをしていた。話しに聞くとかなりの

重労働だったそうだ。

そんな時代だった。


市電その3

2007年09月18日 | 昭和31年~昭和34年
 

横浜市電に乗る時は、いつも運転手さんの後ろに立って、飛び去る

(っと言っても、そんなに速くはないんだけど)風景を見ていた。

 

運転席にはスピードの調節をするのと、ブレーキを操作するハンドル

があったなぁ。運転手さんは大抵軍手をはめてるんで、そのハンドル

のドアノブみたいなものが、ピッカピカに光っていた。

 

市電でも汽笛って言うんだろうか。あのプゥ~ンというかポォ~ンと

いうのかを鳴らすのは、運転手さんの右足の前に丸い突起物があって、

それを踏むと鳴るようになっていた。

 

運転席のちょっと右側には、赤いバケツに砂が入れてあった。あれは

多分、車輪が坂道などでスリップする時に使ったんだろうと思うんだ

どさぁ。

 

車掌さんのところには、紐がぶら下がっていて、降車する人がいない

時、発車オーライの時に引っ張って、チンチンと鳴らして運転手さん

に知らせていた。良き時代じゃん。

そんな時代だった。


運動会・リボン

2007年09月17日 | 昭和31年~昭和34年
 

S小学校の時は、徒競走は得意だった。

 

1等賞、2等賞、3等賞になると、ノート、消しゴム、えんぴつ(勿

論、1本だけど)などの賞品がもらえ、楽しさ倍増イベントだった運

動会。

 

それがぁ~・・・・。

 

横浜のF小学校の初めての運動会で、得意の徒競走になった。

 

ヨォ~ッイドォ~ン。走りましたよぅ~、賞品目指して。残念ながら、

オリンピックには行けない、2等賞。まいっかぁ~。消しゴムでも、

えんぴつでも。上級生のお兄さんに2等賞の列に並ばされ、徒競走が

終わるの待ちましたねぇ。

 

3年生の徒競走が終わると、お兄さんが青、黄色、緑など小さいリボ

ンを配り始めたんだよねぇ。えぇ~っ、ナニこれ~。そうなんすよ、

F小学校では賞品はなく、ただのリボンだったんです。

 

横浜では児童数が多く、学校の予算も少なかったんかなぁ。

そんな時代だった。


裸足たび

2007年09月16日 | 昭和31年~昭和34年
 

三田尻(防府市)のS小学校は、裸足の学校だった。校舎内も、運動

場も裸足だった。だから運動会も当然、裸足で走っていた。

 

横浜のF小学校での初めての運動会が近づき、ある物が必要とわかり、

六角橋の洋品屋さんに買いにいった。それは、裸足たび。スポーツた

びとも、言うらしいけど。

 

裸足たびは、格好は足袋そのもので、足首のくるぶしの下までしかな

く、5mmぐらいのゴムが縫い付けてあった。

 

白の布製で、底はなんかボロ布の再生品か、厚手の再生紙みたいなも

のだったなぁ。

 

その裸足たびで、走ったり、ころんだりしていると、運動会が終わる

前には底に穴があくような代物だった。

そんな時代だった。


運動会・甘食

2007年09月15日 | 昭和31年~昭和34年
 

三田尻(防府市)から横浜に移り、F小学校での初めての運動会を私

は、とっても楽しみにしていた。

 

三田尻では、運動会といえば地域の一大イベントで、家族揃っての楽

しみだったのだが、それが・・・・。

 

F小学校の運動会の模様を聞いて、私はガッカリしてしまった。昼食

は教室に戻って、給食を食べるらしい事を聞いて。三田尻での運動会

の昼食といえば、前の晩から用意を始めたご馳走を、家族揃って食べ

てたんだよねぇ。

 

走ったり、ころんだりして昼食の時間になると、運動会は一時休止状

態。教室に帰り給食を食べたんだけど、まぁ運動会という特別な日な

のか、コッペパンとは違うものがあった。

 

それは甘食。直径は7cmぐらいかなぁ。高さ3、4cmのちょっと

丸めの富士山型をしている、パンというか、固めのパウンドケーキと

いうか。それにジュースみたいなもんが出たような、記憶もあるんだ

けど。こりゃあ、捏造記憶かもねぇ。

 

給食の時間、見に来ていた父兄はどうしていたんだろうか。

そんな時代だった。


老正香

2007年09月14日 | 昭和31年~昭和34年
 

田舎から親戚などが来た時は、座敷のある中華料理屋に行っていたけ

ど、家族で行く時は老正香(だったかな)という、こじんまりとした

とこに食べに行っていた。

 

テーブル席10卓ぐらいの家庭的な雰囲気の店で、小太りの中国人の

おばちゃんがいつも、ニコニコしていたなぁ。

 

老正香で私の大好物は、肉チャーハン。

 

東京の練馬区の店で、同じようなものが大評判で、いつも行列ができ

ているとテレビで見た。

 

どんなものかっていうと、チャーハンの上に豚肉、竹の子の千切り、

そして青い野菜(ちんげん菜だったのかなぁ)を炒め、甘辛くあんか

けにしたものがかけてあるものだった。うまかったぁ~。ギョーザも、

うまかったなぁ~。

 

でも残念ながら、我が家御用達の老正香は今はないみたいだねぇ。

そんな時代だった。