諸事情の為、1週間ばかり休止致します。
力道山のプロレスがあると、黒山の人だかりがして街頭テレビや電気
屋さんのショウーウィンドーのテレビで観戦していた頃の某月某日
(って、覚えてるわけないじゃん)。
夕暮れ時になり、我が家のおばぁちゃん、両親と私の総勢4名はいそ
いそと出かけたのであります。家から10分ばかりの六角橋のH食堂
へ。
そのH食堂で大晩餐会を催そうかという、なんと豪勢な事でしょうか。
まぁH食堂は大衆食堂で、観音開きのガラスドアを入ると正面に大き
な水槽があって、お魚さんがスゥ~イスイと泳いでいたなぁ。
テーブルにつき、おいしい晩餐を終わり帰るという訳ではなく、高い
とこに据え付けられたテレビをジィッと見つめてました。そうなんす
よ。その日に木村政彦(柔道家)が牛と闘うというのです。
さぁ時間になりました。猛牛が飛び出してくるという扉が開き、どう
なるんだろうかと思っていると、一向にその牛が出てくる気配がない
んですわぁ。結局、牛は出てこず、試合にならなかったという笑い話。
そんな時代だった。
私が初めてボーリング場に行ったのは、高校2年生の時だった。某不
二家でバイトをしていて、そこのオネエさん達とバイトをしていた女
子高生と一緒に。
大学に入った頃が一番熱中していて、小、中、高と一緒だった親友の
T君とは顔を会わすと幾ら持ってるって所持金を調べて、じゃあボー
リングできるから行こうって、横浜駅周辺や山下公園まで足を伸ばし
ていた。それも朝の割引時間帯に。
初めてボーリングというのを見たのが、本牧の米軍のものだった。
おじさんと一緒に買い物に行った時、そのボーリング場なるものに入
ってみた。5レーンぐらいしかない小さなとこだったけど、大きな黒
いボールを投げ、白い一升瓶みたいな物を倒すのがおもしろいんだろ
うかと思ったなぁ。
その頃はまだ自動ではなく、ボールを投げる度に人の足が下りてきて、
セットしていた。一般の人がやるボーリング場といえば、青山のボー
リング場しかなかった。
そんな時代だった。
S31年頃の伊勢佐木町にも、米軍専用のクラブがあった。後に不二
家になり、よく食べに行ったんだけど。
横浜平和球場からの道と山下公園からの道の交差点あたりは、米軍の
家族住宅が立ち並んでいた。フェンスの中は芝生が青々とし、バスケ
ットボールのコートやブランコなんかが見え、2階建ての家が立ち並
んでいた。
その住宅の山側には米軍用のPX(スーパーみたいなもの)があって、
アメ車がズラァ~っと並んでいた。大きな茶色の紙袋に買い物をした
物を一杯詰め、車のトランクに入れているのを見たねぇ。
そのPXの隣りにはキャフェテリアがあり、おじさんと生まれて初め
てハンバーガーを食べて、大感激したもんだ。世の中に、こんなうま
い物があるのかなぁって。まだ、ハンバーガーなんて、言葉も知らな
い頃だった。マクドナルドが銀座四丁目にできたのが、S45だった
と思う。
カウンターに座ると、目の前で日本人のコックさんが大きな鉄板の上
でジュ~ッとハンバーグを焼き、オニオンスライスを挟み、大好きな
ケチャップとマスタードをかけてくれた。
そんな時代だった。
今でこそ、桜木町といえば横浜のシンボル的な所になり、みなとみら
い21は週末ともなれば人、人、人。みなとみらい21あたりは、あ
の頃は造船所なんかがあったなぁ。
S31年頃の桜木町駅前あたりは、殺風景な所だった。大きな建物も
ないし、駅もなんか暗かったなぁ。現在の桜木町駅は、その頃の場所
からちょっと横浜寄りになっていると思う。
駅を出て右の市電通りを渡ると、桜木町デパートというのがあった。
デパートといっても、2階建てで細長いものだった。高校生の時、そ
この某不二家でバイトした時は、ほとんどが飲み屋さんだったけど。
駅正面には大岡川があり、あの辺りには大勢の港湾労働者がたむろし
ていた。ニッカボッカにラクダ色の腹巻き、地下足袋姿で、沖仲仕の
仕事を求めて集まり、手配士がトラックで来て人数分を乗せて横浜港
の方へ走り去っていた。
あの頃はコンテナ船もなく、貨物船は沖合いに停泊し、はしけで船に
渡り人力作業で荷物の積み下ろしをしていた。話しに聞くとかなりの
重労働だったそうだ。
そんな時代だった。
横浜市電に乗る時は、いつも運転手さんの後ろに立って、飛び去る
(っと言っても、そんなに速くはないんだけど)風景を見ていた。
運転席にはスピードの調節をするのと、ブレーキを操作するハンドル
があったなぁ。運転手さんは大抵軍手をはめてるんで、そのハンドル
のドアノブみたいなものが、ピッカピカに光っていた。
市電でも汽笛って言うんだろうか。あのプゥ~ンというかポォ~ンと
いうのかを鳴らすのは、運転手さんの右足の前に丸い突起物があって、
それを踏むと鳴るようになっていた。
運転席のちょっと右側には、赤いバケツに砂が入れてあった。あれは
多分、車輪が坂道などでスリップする時に使ったんだろうと思うんだ
どさぁ。
車掌さんのところには、紐がぶら下がっていて、降車する人がいない
時、発車オーライの時に引っ張って、チンチンと鳴らして運転手さん
に知らせていた。良き時代じゃん。
そんな時代だった。
S小学校の時は、徒競走は得意だった。
1等賞、2等賞、3等賞になると、ノート、消しゴム、えんぴつ(勿
論、1本だけど)などの賞品がもらえ、楽しさ倍増イベントだった運
動会。
それがぁ~・・・・。
横浜のF小学校の初めての運動会で、得意の徒競走になった。
ヨォ~ッイドォ~ン。走りましたよぅ~、賞品目指して。残念ながら、
オリンピックには行けない、2等賞。まいっかぁ~。消しゴムでも、
えんぴつでも。上級生のお兄さんに2等賞の列に並ばされ、徒競走が
終わるの待ちましたねぇ。
3年生の徒競走が終わると、お兄さんが青、黄色、緑など小さいリボ
ンを配り始めたんだよねぇ。えぇ~っ、ナニこれ~。そうなんすよ、
F小学校では賞品はなく、ただのリボンだったんです。
横浜では児童数が多く、学校の予算も少なかったんかなぁ。
そんな時代だった。
三田尻(防府市)のS小学校は、裸足の学校だった。校舎内も、運動
場も裸足だった。だから運動会も当然、裸足で走っていた。
横浜のF小学校での初めての運動会が近づき、ある物が必要とわかり、
六角橋の洋品屋さんに買いにいった。それは、裸足たび。スポーツた
びとも、言うらしいけど。
裸足たびは、格好は足袋そのもので、足首のくるぶしの下までしかな
く、5mmぐらいのゴムが縫い付けてあった。
白の布製で、底はなんかボロ布の再生品か、厚手の再生紙みたいなも
のだったなぁ。
その裸足たびで、走ったり、ころんだりしていると、運動会が終わる
前には底に穴があくような代物だった。
そんな時代だった。
三田尻(防府市)から横浜に移り、F小学校での初めての運動会を私
は、とっても楽しみにしていた。
三田尻では、運動会といえば地域の一大イベントで、家族揃っての楽
しみだったのだが、それが・・・・。
F小学校の運動会の模様を聞いて、私はガッカリしてしまった。昼食
は教室に戻って、給食を食べるらしい事を聞いて。三田尻での運動会
の昼食といえば、前の晩から用意を始めたご馳走を、家族揃って食べ
てたんだよねぇ。
走ったり、ころんだりして昼食の時間になると、運動会は一時休止状
態。教室に帰り給食を食べたんだけど、まぁ運動会という特別な日な
のか、コッペパンとは違うものがあった。
それは甘食。直径は7cmぐらいかなぁ。高さ3、4cmのちょっと
丸めの富士山型をしている、パンというか、固めのパウンドケーキと
いうか。それにジュースみたいなもんが出たような、記憶もあるんだ
けど。こりゃあ、捏造記憶かもねぇ。
給食の時間、見に来ていた父兄はどうしていたんだろうか。
そんな時代だった。
田舎から親戚などが来た時は、座敷のある中華料理屋に行っていたけ
ど、家族で行く時は老正香(だったかな)という、こじんまりとした
とこに食べに行っていた。
テーブル席10卓ぐらいの家庭的な雰囲気の店で、小太りの中国人の
おばちゃんがいつも、ニコニコしていたなぁ。
老正香で私の大好物は、肉チャーハン。
東京の練馬区の店で、同じようなものが大評判で、いつも行列ができ
ているとテレビで見た。
どんなものかっていうと、チャーハンの上に豚肉、竹の子の千切り、
そして青い野菜(ちんげん菜だったのかなぁ)を炒め、甘辛くあんか
けにしたものがかけてあるものだった。うまかったぁ~。ギョーザも、
うまかったなぁ~。
でも残念ながら、我が家御用達の老正香は今はないみたいだねぇ。
そんな時代だった。