大木昌の雑記帳

政治 経済 社会 文化 健康と医療に関する雑記帳

子どもの世界(5)―子どもから見た大人の不思議―

2015-03-28 06:26:53 | 社会
子どもの世界(5)―子どもから見た大人の不思議―

子どもは大人の行動や言葉を注意深く見ています。そのなかで,子どもにとって,どうしても不思議なこと,
理解できないことがたくさんあるようです。

おじいちゃん   いもと なおこ
    おじいちゃん
    はげちゃびんやのに
    おふろに
    しゃんぷうをもっていく

大人はこの詩を読んで,思わず笑ってしまうでしょう。しかし,子どもはおじいちゃんをちゃかしているわけではなく,
純粋に不思議がっています。似たような詩をもう一つ。

はみがき   こだま ちえこ
    おばあちゃんは
    はがないのに
    はをみがきます

ちえこちゃんにとって,歯があるから歯みがきをするのが当たり前なのに,歯がないおばあちゃんが歯みがきするのは,
不思議でなりません。

なおこちゃんが,はげちゃびんのおじいちゃんが,シャンプウ持ってお風呂にゆくことを不思議に感じたことと同じです。

なんだか,まんざいの「つっこみみたい」みたいです。こうした感覚は,多少,関西文化の特徴かもしれません。

子どもは結構,細かい所まで大人の行動を観察していることがわかります。でも,おじいちゃんにもおばあちゃんにも,
直接言わないでね。


いれば   しまだ いっぺい
    おじいちゃんは ごはんをたべるときいればをはずし
    ごはんすんだらいればをはめます
    だからおふろのふたみたい

入れ歯とお風呂のふたを結び付けたところに,いっぺい君の観察眼と想像力の豊かさが現れています。

確かに,用がある時(食べる時)に入れ歯をはずし,用がなくなると(ご飯がすんだら)はめるとうのは,子どもからすると,
不思議でしかたないでしょう。

おそらく,おじいちゃんの入れ歯は,話をする時が「用がある時」なのでしょう。それにしても,入れ歯を外して,
どうしてご飯を食べるのでしょうか?


つり   よしむら せいてつ
    おとうさん
    いつもつりにいっとうのに
    おかあさんは いちばでさかなこうてくる

お父さんは釣りが好きで,頻繁に釣りに出かかますが,どうやらほとんど釣って帰ってくることはないようです。

それを見越して,お母さんはお父さんの釣の成果を当てにすることなく,魚屋で魚をかってきます。

大人がこの詩を読むと,ちょっと苦笑いしてしまいますが,子どもは,釣りに行けば魚が釣れるのに,
なぜお母さんは市場で魚を買うのか,ふしぎなのです。

おんな   うえの さちこ
    おかあさんはきんじょのおばちゃんたちと
    ながいあいだたちばなしをしていました
    1じかんぐらいおはなしをしていました
    なにをしゃべっているのかわかりませんが
    たのしそうにけらけらとわらっていました
    ほんとうにおんなは おしゃべりだとおもいます
    おかあさんはそのあと
    「ああいそがしいいそがしい」といいながらばたばたしていました

これは,よく見る光景で,大人はとりたてて不思議とは思いません。しかし,あんなに長々と立ち話をしていたのに,
どうして家に帰ると急に,「いそがしい いそがしい」と言ってばたばたするのか,さちこちゃんには不思議です。

この詩のタイトルを「おんな」としたところに,さちこちゃんの鋭さがあります。

さちこちゃんのお母さんだけでなく,一緒に立ち話をしていた「きんじょのおばちゃん」も,きっと,
「おんな」はみんな同じだろうと,考えています。

「おとこ」はこんな立ち話を1時間以上もしないので,やっぱり,これは「おんな」だけの行動だと理解しています。

せんきょ   みねゆき よしえ
    まいにちせんきょのくるまがとおります
    えらいひとがいっぱいふえて
    どないするやろう
    わたしはうるさくてみみがいたくなります
    だれもきいてへんのに

よしえちゃんの疑問または不思議は二つあります。まず,偉い人がいっぱい増えてどうするんだろう,という疑問です。
確かに,言われてみれば,大人でも首をかしげたくなります。

次に,誰も聞いていないのに,なぜ,よしえちゃんの耳が痛くなるほど,ガンガンがなりたてるのが不思議でたまらいのです。

どくしん   よしむら せいてつ
    おかあさんはよそのひとにどくしんやゆわれてよろこんどう
    としいっとう人かって
    どくしんの人おるのにな
    けっこんしている人は / どくしんになりたくて
    どくしんの人はけっこんしたがる

せいてつ君にとって,なぜ,お母さんがよその人に独身だといわれて喜ぶのか理解できません。

しかも,どうやら大人は一般に,結婚した人は独身になりたがり,独身の人は結婚したがるようだ,と感じています。
なかなか鋭い指摘ですね。

以上紹介した詩のおおくは,大人の言動に子どもが不思議や疑問を表現したものでした。それらを大人が読むと,
笑ったり,苦笑したり,時には納得したりするものでした。

最後に,子どもが大人を人間として観察し感じた時の印象を書いた詩を紹介しておきます。

   ふじ もとえ(二年)
   こうべえきにいきよったら
   こい人にふられてたような人が
   大きなためいきをついて
   顔をしたにしてとぼとぼあるいていました
   わたしはあらまあとおもいました 

もとえちゃんの目は,困ったような表情で歩く人に向けられています。それを「こい人にふられたような人」と表現しているところに,
もとえちゃんの想像力と感性が見られます。

大人は大変だなあ,と同情する気持ちが,「あらまあ」という表現となっています。

ひと   なかたに ゆうすけ
    えらい人より / やさしい人のほうがえらい
    やさしい人より / 金のない人のほうがえらい
    なぜかというと
    金のない人は / よくさみしいなかで
よくいきているからだ

なんだか,思想家の言葉のようです。ゆうすけ君の序列では,金のない人は,さみしい中で「よくいきているから」
最も偉いということになります。なかなかの人生哲学です。
    
やさしい人   なかお ひろこ
    やさしくしてあげたら
    やさしくしてもらった人は
    わるい人でもきもちがすっきりする

私はこの詩を読んだとき,ひろこちゃんの人間観の深さに感動しました。やさしくされればうれしいことは誰でも理解できます。

しかし,ひろこちゃんは,「わるい人でも」気持ち良く感じるというのです。「悪人こそが救われる」という,
親鸞の「悪人正機」を思い起させます。

子どもは子どもの透徹した目で,見たまま感じたままを詩の形で表現してくれます。大人が,心を開いて子どもの言葉に耳を傾ければ,
きっと多くの感動を得ることができるし,豊かな感情の世界を感じることができるし,そして学ぶことがあると思います。

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子どもの世界(4)―子どもの恋物語―

2015-03-22 13:24:51 | 社会
子どもの世界(4)―子どもの恋物語―

小学1年生が,大人と同じような恋愛感情をもっているということを,大人はほとんど分かっていません。

しかし,子どもたちは驚くほど豊かな恋愛感情をもち,それを率直に語っています。その対象は,同級生や先生にも向けられます。

やきもち   だこだ しげあき
    やきもちゆうたら
    おとことおんなが
    あいしあうことや

しげあき君は,愛し合っているからやきもちを焼くことを知っています。小学1年生でこれが分かっているとは,たいしたものです。
 
すきどうし  かわつ ゆう
    おおはたさんはかじくんがすきで / かじくんはおおはたさんがきらいで
    かじくんはわたしがすきで / わたしはかじくんがきらいです
    せんせい こういうとき / どうすればいいのかおしえてください

子どもの間にも大人顔負けの三角関係があるんですね。聞かれた先生はどんなふうに答えたのでしょうか?

デート   とさ ようこ
    ゆうきちゃんとかえりました
    「いっしょにあそぼ」といいました
    でもゆうきちゃんがあそばれないといいました
    だれにもいうたらあかんで
    きょうふくがきくんとデートやねんといいました

ようこちゃんにとって,同性のゆうきちゃんと遊ぶより,「彼」(ふくがき君)とのデートの方が優先するんですね。

ぼういふれんど   かたひら ちさと
    おにいちゃんのおともだちとあそびました
    おおはまひろしくんゆうなまえです
    わたしがてをつないだら / てれるのうとゆいました
    かえりてをつないで / ばいばいっていいました

ちさとちゃんは,とっても積極的な女の子です。なにより,詩のタイトルを「ぼういふれんど」,としているように,
お兄ちゃんのお友達をもうすっかり恋人として,自分から手をつないでゆきます。

こんな風に,ごく自然に子どもの心に恋愛感情がはぐくまれてゆくのが理想的なのでしょう。

かのじょ    むらかみ まりこ
    そらのかみさんにでんわをしたけど
    だれがでたとおもう / せんせいのいえにかかったよ
    おんなのひとがでたよ
    まりこはすごくどきどきしたよ
    もしかして / かしま先生のかのじょじゃないのかなあ
    いいなあ / まりこもかれしがほしいよ 

鹿島先生は,かみさまの電話番号といって,実は自分の家の番号を生徒に教えてありました。
電話をすると女の人が出たので,まりこちゃんは「すごくどきどきした」と書いています。

まりこちゃんは,鹿島先生が結婚していることは知っているので,もしこの女性が先生の「彼女」だとしたら,
と思ってどきどきしたのでしょうか。真偽のほどは本人しか分かりません。

この電話で,まりこちゃんも「かれしがほしいよ」と痛切に思ったようです。小学1年生ともなると,
女の子はもう「かれし」が欲しくなるんですね。

子どもたちは,自分の恋愛感情をさまざまな表現で語りますが,男の子と女の子では違いがあります。

   おだ てるゆき
    もてる男は / つらい!
    もてない男も / つらい!

短いけれども,ズバリ真理をついた秀逸の詩です。てるゆき君は,「もてる男」の辛さを経験したのでしょうか,
それとも「もてない男」の辛さを体験したのでしょうか?   

すきな女の子   きむら しょういち
    ぼくはたまにすきな女の子のことを / かんがえるときがある
    わらっとうときのかおがすきやねん
    まえはすきな子がいっぱいおったけど
    いまはひとりだけでいいとおもっている

しょういち君はどうやら惚れやすい性格だったのに,今は一人でいいと思うようになったようです。
何がきっかけでこの変化が起こったのでしょうか?

男の子の異性にたいする感覚は,どちらかというと頭の中で考えたことが中心ですが,女の子の場合は,
かなり大人の恋愛感情に近いものがあります。
 
くごくん   ないとう ようこ
    わたしが「くごくん だいすき」っと / かんじをだしていったら
    おかあさんは「まけそー」といって / ひっくりかえりました
    それにしてもどうしてくごくんは / あんなにきれいなかおをしているんだろう
    くごくんのかおをみると / ちからがぬけて
    からだがふにゃふにゃになります
    かみさま / どうしてかおしえてください

ようこちゃんには,くご君に対する気もちを書いた詩がもう一つあります。

デート   ないとう ようこ
    くごくんとデートしながらかえりました
    からだがほんわかして / きもちがよかったよ
    みちがずっとずっとつづけば / いいのにとおもいました

どうですか? ようこちゃんのくご君にたいする想いは,もう大人の恋愛感情と全く同じです。もうほとんど,
くご君にメロメロといった感じです。

しかも,くごくんという異性への愛情を,「ちからがぬけて からだがふにゃふにゃに」なったり,
「からだがほんわかして」気持ち良くなるなど,体でしっかり感じています。

ちゅう    みぞがみ さえこ
    せんせい / きょうかえるとき
    ちゅうしたやろ / おぼえておくで
    さえこ あのとき / せんせいがすきになりました
    そのとき / むねがどきどきしました

さえこちゃんも,ちゅう(キス)によって先生に対して「好き」という恋愛感情が芽生えたことを素直に書いています。

ようこちゃんも,さえこちゃんも,具体的には分からなくても,これが異性に対する性的衝動であることを本能的に体で感じています。

先生にたいしていだく想いは,上に引用したさえこちゃんの例ほど直接的ではありませんが,
ほのかな愛情を抱いていることは珍しくありません。

やくしまる ひろこ    たかせ けいこ
    せんせいは / やくしまるひろこさんを
    ほんとうにすきなんですか
    せんせいは / ほんとうにけっこんしたいのですか
    わたしはできないとおもいます
    だってとうきょうの人だし / せんせいはおくさんがいるんでしょ
    それにわたしがいるんですよ
    わたしも先生がすきだからね

けいこちゃんは,先生が薬師丸ひろこが大好きなこと,奥さんがいることを知っていながら,それでも「それにわたしがいるんですよ」
と言います。小学1年生とはいえ,強力なライバルと張り合う勢いです。もう一人前の「女」ですね。

以上,子どもたちは,心の中にある異性への恋愛観を,隠したり作ったりすることなく,ありのままの「恋の物語」
を赤裸々に表現しています。

これらの詩から私たちは,子どもたちが,大人の想像や思い込みを超えた,はるかに豊かな恋愛観をもっており,
そして日々,それを感じていることを知ることができます。

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東日本大震災4周年によせて―私の「3・11」―

2015-03-15 06:18:06 | 東日本大震災
東日本大震災4周年によせて―私の「3・11」―

2015年3月11日,東日本大震災は満4年を迎えました。毎年,この日がくると,当時のさまざまな記憶がよみがえってきます。

自然の底力,原発の危険性,エネルギー多消費社会となった私たちの生活のあり方などをもう一度見直す上で,
東日本大震災は私たちに計り知れないほど大きな影響を与えました。

この意味で,「3・11」を振り返ることは大切なことだと思います。

そこで,これまで3回にわたって書いてきた「子ども世界」を一旦中断し(あと2回予定しています),
「3・11」にまつわる私の個人的な体験と,その時感じたことを書いてみることにしました。

実は,2011年4月から8月にかけて私は,別のブログで「大木昌の思うこと」というタイトルで,大震災関連の記事を,
12回以上にわたって書いてきました。(注1)

また,私自身のブログ「大木昌の雑記帳」を2012年3月に立ち上げたのも,この大震災をどう受け止めたらいいかを,
自分なりに考えたかったことも一つのきっかけでした。(注2)。

まず,4年前のあの大地震当日と直後に私が直接経験したこと,感じたことから書いてみます。

地震の直後,鉄道は全て止まり,当日,私は東京の葛西で帰宅難民となりました。

辺りの地面が文字通り波打っていました。道路を通るバスやトラックも前後左右に揺れながらノロノロと走っていました。
電柱が大きく揺れるため,
電線は激しく揺れてブンブンという不気味なうなり音を上げていました。

東京ヘリポートがある西の方を見ると,黒煙がもくもくと空に昇ってゆくのが見えました。以前,
阪神淡路大震災の際に見た映像を思い出しました。

翌日,電車が動き,家に戻ると,2階にある私の書斎は足の踏み場もないほど,倒れた本棚と本,テレビセット,
その他ありとあらゆるものが床一面に散乱していました。

まだ余震は続いていましたが,何とか日常生活を取り戻したころ,突然,福島に住むかつての教え子からメールがきました。

彼女は,原発の爆発事故が起きると,放射能汚染から逃れるため弟と妹を連れて脱出し,郡山駅に着いたところだという。
そしてしばらく私の家でお世話になりたい,という緊急の要請でした。文面には,緊迫感がただよっていました。

私は直ちに,“遠慮しないで来ていいよ”,と返信しました。ただし彼女は結局,東京に住む兄のところに避難したようです。

帰宅難民になったこと,書斎がめちゃくちゃになったこと,教え子からの緊迫したメールなど,当時,
私自身も被災者であると感じましたし。

その後,津波による被災状況や死亡者・行方不明者数,放射線拡散のニュースが続々と入ってくるようになりました。
だれもが感じたように,その光景は,とうてい現実とは思えませんでした。

そして,私の身の回りでも地震による生活への影響が次々と出始めました。

まず,福島原発から電気の供給を受けていた首都圏では計画停電が実施され,地区ごとに時間単位で停電となりました。

震災のため,輸送がうまくゆかず,スーパーの棚からはお米や食料一般があっという間に消えてしまいました。

私は遠く離れた兄弟,友人,知人に頼んでお米を送ってもらったり,灯油ランプを買い込んだりしました。

車のガソリンの入手にも苦労しました。

一方,大学では入学式を行うかどうかの議論が行われ,結局,行われないことにしました。

一言でいうと,当時は何もかもが異常な,今まで経験したことのない非日常の日々でした。ただ,不思議なことに,
海地方より西に住んでいる人と電話で話すと,こちらが拍子抜けするほど,震災のよる緊迫感がありませんでした。

あの時,日本は東日本と西日本とに分かれてしまったのではないかと感じたほどです。

こうして,私にとって,2011年3月―4月は,あわただしく,緊張のなかで,この大震災をどのように受け止めたらいいか分からず,
ただおろおろしているうちに過ぎてゆきました。

以上,震災直後の混乱が一段落し,一般の車が何とか津波の被災地に入れるようになった5月の末に,
宮城県の亘理郡を山元町から海外沿いに北上して南三陸町までたどり着きました。

そこから女川町を越えて東松島まで行く予定でしたが,川にかかっていて橋が流されていて車では行けませんでした。
そこで一旦内陸に入り,再び塩竈から東松島方面に行きました。

当時,津波に襲われた被災地は,本当に目を覆うばかりの惨状でした。かつてはにぎやかだった街の家が荒野と化していました。
流された家の廃材,家具,金属片などが,まるで吹き溜まりのゴミのように小山をなしていました。

また,流されたおびただしい数の車(というより車の残骸)があちこちに集められていました。

この被災地訪問をきっかけとして,私は5回ほど,主に宮城県と福島の被災地を訪れることになります。

そのうち一度は,学生を15人ほど連れて,大学時代の後輩の家に泊まり込んで,1週間ほど,家からの泥の掻き出しや,
仮設住宅に住む人の話を聞くボランティア活動もしました。

これ以後,何回か被災地を訪れましたが,かつては散乱していた瓦礫が少しずつ片づけられてゆくのが分かりました。
しかし,そこに人の気配はなく,そのことが一層,被害の大きさ・深刻さを感じさせました。

被災地を訪れる度に,私はできるだけ地元の人や復興活動をしている人と話してきました。そこで感じたことはたくさんありますが,
ここでは,印象に残ったそのごく一部を書いておきます。

まず,あくまでも地元に残って畜産と農業を中心に自分たちの力で生活の再建をしようとがんばっている「若者」(男性)何人
かと話して痛感したことがあります。

彼らはほぼ40歳くらいですが,それでも地域では「若者」に属します。しかし,その中で,誰一人,結婚していないのです。
彼らの不安は,結婚できないと跡継ぎができないので,経済的にも希望がもてないし長期的にコミュニティが維持できなくなることでした。

マスメディアでも,被災地の人口流出につい報道しますが,中でも,結婚適齢期の男女,とりわけ女性の流出が,
地域の活性化にとって致命的な状況を作り出しています。

地方衰退の原因の一つがが人口減少(少子高齢化)にあり,将来“消滅”の危機にさらされている市町村の現状は,
日本全体の現象ですが,被災地の場合,それが極端な形で出ています。

また,防潮堤に関しても考えさせられました。政府は,三陸地域から仙台平野にかけての海岸に,津波から町を守るための高い防朝堤を,
数百キロにわたって建設する計画を進めています。

しかし,地元の人と話していると,これに反対の意見がかなりありました。高い塀に囲まれてしまっては海が見えず,
沿岸で暮らす意味がない,というのです。

沿岸の人々は,毎日海の様子を眺めながら暮らしてきました。海が見えるからこそ,今日は漁に出るか出ないか,
どんな作業をするかを判断していました。

しかし,眼前に高い塀を作ってしまったら,それができなくなってしまいます。

津波に関していえば,何が何でも津波を正面で受け止めてねじ伏せるような発想よりも,もっと安全な避難路を整備し,
避難システムの改善に力を入れるべきだという意見も多くありました。

実際,紀伊半島のある自治体では,比較的低い場所に大きな非難用の横穴を開け,人々が入ったら入り口を鉄の扉を閉め,
海水の侵入を防ぐ施設を作りました。

政府は「国土強靭化」の名目で,巨額の建設コストをかけて高い防潮堤の建設に力を入れていますが,
自然の力を過小評価しています。私には,土木事業をたくさん作って,お金をバラまくことが目的ではないか,
とさえ思えます。

もっと知恵を出して,本当に有効な津波対策を考えるべきです。

震災の後,多くの個人や音楽関係のグループなどが被災者を元気づけるとの名目で,コンサートを開きました。
そうしたミュージシャンはしばしば,“かえって自分たちが励まされ元気をもらった”と語っています。

しかし,地元で活動しているある人は私に,意外な話をしてくれました。“実は,コンサートにいってあげないと,
彼らががっかりするので,わざわざ仕事を休んで行ってる人もいるんです”。

こうしたミュージシャンの善意は疑いませんが,本当に地元の人が望んでいるかどうか,ちょっと考えてみる必要はありそうです。

以前,“もうコンサートにはこないで”という投書が地元住民から新聞に寄せられたことがあります。
これからは,自分自身も含めて,善意のの押しつけでなく,自己満足でなく,地元からの希望にそって,
このような活動を行う必要があると感じました。

最後に,昨年の秋,私も加わらせてもらった,小さな話し合いの場で私が感動した,若い事業家の言葉を紹介します。
「もう自分たちを被災者と呼ぶのを止めよう」。

彼の会社は流され,行政はほとんど手を差し伸べてくれない,そんな中で彼が言った言葉が,その場にいた他の参加者
(ほとんどが何らかの被害を受けている)を大いに勇気づけたと感じました。

以上は,主に私の個人的な体験や見聞に基づいて,震災4周年の3月11日に思ったことですが,
これとは別に,震災復興に関する政府の対応に関して2点だけ書いておきます。

一つは,原発事故に対する政府の姿勢です。安倍首相は震災の追悼式で,復興に全力を挙げるとは言っていますが,
現在,福島で起こっている深刻な汚染水の流出問題などには一切触れませんでした。

安倍首相の言動は,震災4年というより,国民の気持ちを,オリンピックまで5年という方向に導こうとしているかのようです。

オリンピック招致の際,原発からの汚染水は「コントロールされている」(under control)と豪語した安倍首相には。
汚染水問題は触れたくない厄介事なのでしょう。

次に,除染で集められた汚染土及び除染廃棄物が13日から大熊町と双葉町にある中間貯蔵施設予定地の「仮置き場」
への搬入が始まりました。

しかし地元住民は,将来「最終処分場」を引き受ける自治体がないことを承知の上で政府がこうした政策を実施していることに,
疑念をもち反発しています。

しかも,現在まで,地権者の承諾が得られないため,「中間貯蔵施設」の用地を確保できているのはごくわずかしかありません。
汚染水と汚染土の問題はどこまでも未解決のままついて回ります。

少しずつ減っているとはいえ,4年経っても放射線の影響や家屋の喪失のため,仮設住宅や他県で非難生活をしている人は,
まだ23万人もいるのです。まだ震災の影響は終わっていません。

私たちは,自然の力の大きさ,それに対する科学技術の限界,一旦事故が起きてしまえば,収拾不可能なほど大きな影響を
長期間にわたった与え続ける可能性があります。

原発を稼働することの危険性を,もう一度本気で考えて胸に刻む必要があることを痛感します。

こうした,本当に大切な問題に目をつむり,憲法改正,軍事国家化,株価の高騰,労働者派遣法による雇用形態お多様化という名の,
非正規雇用拡大に傾斜する現政府のあり方に,危機を感じているのは私だけではないでしょう。

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以下の写真は2011年5月29日と30日に私が撮影したものです。南三陸町の写真を除いては,主に亘理郡の写真です。


中浜小学校。この小学校で生徒が体育館の最上部にあった狭い空間に逃れて助かったという。


中浜小学校前の墓地で,津波で倒され散乱した墓石。


駅舎とホームは流され,ホームを渡る高架橋部分だけが残った坂本駅。


山元自動学校では,教習後に送迎バスで帰宅した人が津波に飲まれ多数亡くなった。


夥しい数の車の残骸があちこちに集められていた。


流されて陸に乗り上げた漁船。


足元が波で表れて倒壊した堤防(南三陸町)堅牢な堤防も,足元が洗われてしまうとあっけなく倒壊する。







(注1)ブログ「大木昌と秀子のワクワクライフ」http://ameblo.jp/wakuwakulife317/entry-10856243091.html
 と途中からは http://blog.goo.ne.jp/wakuwakulife317 に連載。

(注2)このブログ「大木昌の雑記帳」に左側に,記事のカテゴリーが示されています。その中で,「東日本大震災」および「原発・エネルギー問題」の項目に集められています。

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子どもの世界(3)―夫婦・親子関係―

2015-03-08 04:17:59 | 社会
子どもの世界(3)―夫婦・親子関係―


子どもを取り囲む人間関係の中でも,お父さんとお母さんがとりわけ重要です。
家族子どもたちは,お父さん,お母さん,お父さんとお母さんとの夫婦関係を冷静に,しかし鋭い目でみています。

まず,お母さんに関する詩をみてみましょう。

しあわせ  こめはな まさこ
    わたしはすぐにおかあさんにあまえます  
    おかあさんにだきつくと / すごくあたたかくて
    あまいかおりがして / とってもきもちよくなります
    とくに / おねえちゃんとけんかしたあとのだっこは
    けんかにまけてもしやわせなきぶんです

私たちが描く,理想的な母親像が素直に表現されています。お母さんの胸に抱きつくまさこちゃんと,
まさこちゃんを優しく抱きしめるお母さんとの心温まる光景が目に浮かびます。

しかし,母と子はいつも,こうした心温まる関係ばかりではありません。

おかあさん  むらかみ なおこ
    おかあさんは / いつもかがみをみて
    きれいやけど/ あしのうらをみたら
    まっくろやねん /あしのうらも
    かがみをみいやというてん

女の子は母親を同性の女としてきびしい目で見ています。時には,母親の言葉に逆襲することもあります。

あほう   うえの みさ
    おかあさんに /「どうしてそんなにあほうなの」っていわれた
    みさはあほうなおかあさんから / うまれたから
    しょうがないの

あ,痛たっ!言わなきゃよかった。言われたお母さんの何とも言いようのない顔が浮かんできます。みさちゃんは,
“あほう”どころかなかなかの知恵者です。

しょみんのみかた   さがやま りょうた
    きょうもさんまだった / 「また さんま~」というと
    ママは「さんまはしょみんのみかたよ」といった
    しょみんのみかたということは
    せんせい / やすいということなんですか
    しょみんのみかたはもうあきた

りょうたくんは全てをお見通しです。しかし,お母さんにそれを直接に抗議するのではなく,
「しょみんのみかたはもうあきた」と表現するところに,やさしさを感じます。

おかず   かわばた まさこ
    おかあさんは / よるのごはんのおかずを
    わたしになにたべたいのとよくききます
    きくだけで / おかあさんはじぶんのすきなおかずを
    つくってしまいます

どこの家庭でも日常的に起こっていることですが,おかあさんの身勝手さに,まさこちゃんは,ちょっぴり不満です。

おやのいうこと   なかむら ゆきひろ
    しんしつのしょうじをやぶりました
    おかあさんは / おとしだまやこずかいで
    べんしょうしなさいって / むちゃくちゃいいました
    これがおやのいうことか

お母さんとしては,ゆきひろ君が障子を破ったのだから,その責任を取りなさい,という教育的な配慮があったのかもしれません。
または,家計の配慮から子どもに弁償させようとしたのかもしれません。子どもにとって,どちらの理由であっても,
「これがおやのいうことか」と反発しています。

どちらの言い分も,理があります。次に,お父さんに関する詩をみてみましょう。

おとうさんのにおい   こうき あけみ
    わたしはいつもおとうさんとねていました
    おとうさんがようじでいっしょに / ねられないときに
    おとうさんのまくらをだいてねます / まくらをだいてねると
    おとうさんのにおいがして / おとうさんとねているようなきがしました
    おとうさんのまくらのにおいは / おしごとのにおいです
 
あけみちゃんはお父さんが大好きです。だから,お父さんがいないときにはお父さんの枕を抱いて寝ます。
まるで,お父さんが恋人みたいです。

こめはな まさこちゃんがお母さんの「あまいかおり」で幸せを感じているように,あけみちゃんは,お父さんの,
「おしごとのにおい」で安心します。

においに敏感なことは,女の子の特徴でしょうか。男の子にはあまりみられません。それにしても,お父さんのお仕事は何でしょうね。

お父さんに関しても厳しい目で見つめている詩の方が多いようです。

おとうさん  ほそかわ ちよこ
    ちよこのおみせに女の人がきた
    おかあさんはその人びじんというた
    おとうさんはそのときおくで / ごはんをたべとったのに
    あわてておみせへとんでいった / せんせいといっしょや

お父さんの下心は,ちよこちゃんに読まれています。ついでに,先生までも批判されています。ちよこちゃんは,
男は美人に弱いんだ,と思っています。お父さんの行動に,情状酌量の余地はありません。

家庭の中では,父と息子がお母さんを巡って,「恋のさやあて」のような争いもあります。

おれのおんな  おおほり しゅんすけ
    おとうさんがぼくに
    しゅんすけは / だれとけっこんするんやときいた
    ぼくはおかあさんとするねんというた
    あんなおばはんのどこがええんや
    おとうさんは / わかいのがええわといった
    それでもおかあさんがええというたら
    おれのおんなにてをだすなといった
    あほらしてはなしにならない

エディプスコンプレックスを絵にかいたような父親と息子の母親を巡る恋の真剣勝負です。
「おれのおんなにてをだすな」と言う父親に対して,しゅんすけ君は「あほらしてはなしにならない」とあきれています。

子どもは容赦のない言葉を父に投げつけます。

しかし,こうした会話がオープンに交わされるところに父,息子,母親の仲の良い家庭の雰囲気が伝わってきます。

おとうさん  たけだ けん
    おとうさんがいばったら / おねえちゃんはいやがります
    おかあさんは,「せめていえだけでもいばらせたげてよ」といいました
    かいしゃではいばっていないのかなあ

お母さんは,「せめていえだけでも」とお父さんを援護しているのですが,けん君は,お父さんは会社でいばれないから
家でいばっているんだと,彼なり社会の現実をちょっぴり感じています。

子どもたちは,父親と母親の微妙な夫婦関係を,日々注意深く見ています。

でんわ  さがやま りょうた
    パパから「はやくかえるわ」とでんわがあった
    ママはうれしいかおになり / いえのなかをいそいでかたづけた
    パパのかおなんかまいにちに見とうに

電話を受けたおかあさんが,「うれしいかおになり」,家の中をいそいそと片づけたところに,お父さんとお母さんの,
そこはかとない愛情が感じられます。

しかし,りょうた君にはそこが見えていません。それでも,ほほえましい夫婦愛を,りょうた君は見事に表現しています。

お父さんとお母さんがどうして結婚したのか,はこどもにとっても大きな関心事です。

けっこん  いながき はなこ
    おとうさんとおかあさんは / おみあいけっこんです
    おとうさんのおばさんが / これぐらいにしておきなさいといったそうです

きっと,お父さんがはなこちゃんに言ったのでしょう。ここまで子どもに言わなくてもよかったのに。はなこちゃんが,
このことを淡々と表現しているところが救いです。

おかあさんは?   なかむら あきひろ
    おとうさんがしごとからかえると
    かならず「おかあさんは?」とききます。
    おかあさんににげられるとおもっているのかな

なんと言っていいか,言葉がありません。

よめさん  よしむら せいてつ
    おかあさんがぼくに
    「けっこんするんやったらぶすとするといいよ」というた
    「なんでや」ゆうてきいた
    「ぶすは3日したらなれるし べっぴんは3日にしたらあきる」ねんて
    ほんならうちのおとうさんは もうなれたんや
    ほんでもぼくはべっぴんのほうが / やっぱりええわ

子どもは正直で残酷です。せいてつ君,「うちのおとうさんは,もうなれたんや」だけは口に出さないでね。

けんか  たぐち みえ
    おとうさんとおかあさんが / けんかをしました
    おとうさんは / おかあさんがでていくといったので
    あわててとめて / じぶんがでていくといいました
    それやのにどこへもいかないで / ふたりはねてしまいました

みえちゃんには,こんな夫婦関係は不思議でならないのでしょう。みえこちゃんが大人になって結婚すると,理解できるかもしれません。

けんか   くぼ かつよし
    くちげんかは / おとうさんがつよく
    ぼうりょくげんかは / おかあさんがかちます

口喧嘩はお母さんが強く,暴力喧嘩はお父さんが強いのが普通だけど,かつよし君の家では逆なんですね。
子どもは事実を隠すこともなく披露してしまいます。

そして,淡々と表現しているところに,一層,現実味を感じます。

次は,お母さんのお父さんに対する愛情が,子どもの目からみるとどう見えるかを教えてくれます。 

さむい   のむら しゅうへい
    ぼくが「さむい」といったらおかあさんは
    「おそとへいってはしっといで」といいます
    おとうさんが「さむい」といったら
    ガスストーブとデンキカーペットでぬくもらします

しゅうへい君は不公平だと感じていますが,ここはお母さんの気持ちをさっして,元気に外にでて走ってください。
ここにも,お母さんのお父さんにたいする愛情が,「ぬくもらします」という言葉で十分に伝わってきます。

子どもは,社会とか夫婦関係などについて,何も分かってはいない,と大人は思いがちですが,実際にはかなり冷静な目でみているます。
子どもの詩を読むと,短い言葉で,よくここまで親子や夫婦関係を表現できるものだと感心します。



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子どもの世界(2)―子どもと自然・いのち―

2015-03-01 06:52:54 | 社会
子どもの世界(2)―子どもと自然・いのち―

子どもは詩人だという言葉がありますが,子どもたちの詩は,大人があれこれ言葉を選び表現を工夫した詩よりも,
はるかに私たちの心に響き,想像力を豊かに拡大してくれます。

まず,子どもたちが自分を取り巻く自然をどのように感じているのでしょうか。(以下の詩に対するコメントは,
もちろん私の勝手な想像です。)

でんでんむし    やまと なおみ
     でんでんむしが
     あめにむかって
     のぼっていきました

なおみちゃんは雨の中で,でんでんむしが葉っぱの上をゆっくりと這い上がっている姿をじっと見ています。
多分,梅雨時の,あじさいの葉の上を這っているでんでんむしでしょう。

そして,でんでんむしは雨を伝ってさらに空にむかって登ってゆきたいんだな,と感じています。
かたつむりの気持ちまで感じている,なおみちゃんの豊かな感性がうらやましいです。

     やまと なおみ
     きがかぜにのっていました
     はっぱがいっぱいありました
     だから おんがくになるのです

大人は,風が木の間を吹き抜けて,葉を揺らしている,という自然科学的な因果関係で理解するのが普通です。
しかし,なおみちゃんは,動かないはずの木の方が風に乗って,

いっぱいの葉を揺らしながら,あたかも泳いでいるように感じています。「だから」音楽になるのです。

大人では決して出てこない発想です。なおみちゃんのすばらしい想像力に脱帽です。

あじさい   すぎやま かおり
     あじさいが / あめにぬれていました
     かぜがふいてきました
     かぜが / まりつきをしていました

あじさいの花が風に揺れ動く様子を,「まりつき」をしていると表現したかおりちゃんは,立派な詩人です。かおりちゃんの,
みずみずしい感性がうらやましくなります。  

あかとんぼ   こばた やすひろ
     あかとんぼは
     ゆうやけをみたから
     めがあかくなった

童謡に,うさぎの目はなぜ赤い,という問いに続いて,「赤い実を食べたから」という歌詞があります。
これは,食べ物によって体の色が変わる,という大人の科学的知識から出た発想です。

しかし,やすひろ君は,夕焼けを「みた」だけで,目が赤くなったと感じたのです。この時,やすひろ君自身も,
赤とんぼになって夕焼けを見つめていたのでしょう。

ゆうひ   ふじ もとえ(二年)
     夕日がやまにかくれていきました
     お月さまとかくれんぼうしているのかな
     ほっぺをあかくして走っていきました

夕日が沈んで行く一方で,月が出てきます。もとえちゃんにはそれが,夕日と月がかくれんぼをしているように感じられたのでしょう。
その光景が目に浮かびます。

広大な宇宙の動きを描いた,壮大なドラマでせう。大人が,考え抜いて作る詩とは異なり,感じたままを表現した詩がもつ力強さです。

ほし   たかはし みずほ
     せんせいあのね
     なんでそらのほしは
     ほしのかたちがしていないの

こんなふうに問いかけられたら,大人は,答える前に思わず抱きしめたくなってしまうでしょう。

みずほちゃんの心の中では,星は★のような形をしています。あえて,科学的な説明しないで,
しばらくはこのままのイメージをもっていて欲しいと思います。

あめ    やまさき ふみお
     ふゆのあめはしろいのに
     あきのあめはとうめいや

雨そのものは透明なのに,ふみお君には冬の雨は白く,秋の雨は透明に見えるようです。

科学的には,説明できませんが,なぜか,このたった2行の詩は理屈を超えた説得力をもっています。

というのも,冬は寒々とした白いイメージがあり,秋は澄み切った空と空気を連想するからです。

しかし,ふみお君は,大人が描きがちな,こうした理由付けとは関係なく,直感的に感じたままを書いたのです。

かに  すぎたに あらた
     パパとかにをつりにいったら3びきつれたよ
     1ぴきはしんだふりをして
     たべられないぞというかっこうをしたよ
     2ひきめはやめろやめろとあしをばたばたしたよ
     3びきめはもうだめだというかおをしていたよ

この詩を読んだら,大人の詩人も真っ青になってしまうでしょう。あらた君はすっかり釣られた「かに」になりきっています。
あらた君の詩から,3匹それぞれの様子がありありと目に浮かびます。

こんな素晴らしい感性と表現力をずっと持ち続けて欲しいと思います。

さかな   ふなびき ゆきのり
     さかなは目をあけたまましんでいます
     やいても目をあけています
     おさらにのったさかなは
     たべられるのをじっとみつめているようです

ゆきのり君の詩は,上のあらた君の「かに」の詩で,「もうだめだ」という顔をしている,という表現と似ています。

しかし,ゆきのり君の場合,今度は「たべらるのをじっとみつめているようです」というところで,私はギョッとしました。

というのも,食べられる魚の,食べる人にたいする恨みを感じてしまうからです。

ここには,生き物に象徴される自然と人との親和的な関係だけでなく,“食べる・食べられる”という,
冷厳な「いのち」の世界を受け止めている子どもの感情が現れています。

次に,子どもたちが,「いのち」をどのように感じていたのかを見てみたいと思います。
ただ,あまりに人生経験が少ないこともあって,この点に関する詩の数はごくわずかです。しかし,だからといって,
子どもが死について考えていないというわけではありません。

まず,4歳の子がお姉さん(多分小学1年生)との間で交わしていた「あのね帳」に書いた,胸にズキンとくる詩を2編紹介します。

いのち   みねまつ たけし(4歳)
     あのねせんせい
     むしにもいのちがあるんでしょう
     ともだちがふんだ
     むしをふんだ
     いのちがつぶれたひだ
     いのちってやわらかいんだね

友だちが踏んで死なせてしまったのは一匹の虫でしたが,たけし君はもう少し深く,「いのちがつぶれたひだ」,
と感じました。そして,いのちって「やわらかいんだね」,つまりもろく,はかないものなんだ,とも感じています。

こんな鋭い,そして深い目を4歳の子がもっていることに驚かされます。たけし君には,もう一遍,いのちについて書いた詩があります。

ぼく   みねまつ たけし(4歳)
     ぼく
     うまれてなかったらよかった
     だってしぬのがいやだから

子どもは自分が死ぬことなど考えていないだろう,と大人は思い込みがちです。

しかし,このたけし君の詩を読むと,いずれ自分が死ぬことを直感的に分かっているようです。

踏みつけられて死んだ虫と自分の死が二重写しになっているのかもしれません。

もっとも,4歳のみねまつ君は生きてきた時間も短く経験も少ないので,「死」の実感はないのかもしれません。

しかし,小学1年生になると,もう少し死について現実的に考えます。

にんげん   くご いくひろ
     なんのためにうまれてきたのですか
     べんきょうをして
     たのしくあそんで
     あとはしぬために
     うまれてきたとおもいます
     ぼくはうまれてきて
     そんをしたとおもいます

何のために生まれてきたのかという疑問は,思春期に発せられますが,小学1年生でも,感受性の強い子はもう,
自分の生と死の意味を考えます。

そして,いくひろ君は,精一杯勉強して遊んでも,結局は死ぬために生まれてきたんだ,だからせっかく生まれてきても,
損をしたと思っています。

子どもは,透徹した目で,“いのち”をまっすぐに見つめています。
このような根源的な問いを投げかけられると,大人は“ふい”を突かれてとまどってしまいます。

周囲の大人は,むきになって否定したり無視するのではなく,ちゃんと話を聞いてあげることが大切です。
そして,自分自身にも問いかける必要があります。

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