大木昌の雑記帳

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司馬遼太郎の「遺言」―『この国のかたち(一)』を読む―

2017-07-23 10:24:08 | 思想・文化
司馬遼太郎の「遺言」―『この国のかたち(一)』を読む―


司馬遼太郎は、日本の歴史と将来に関して数多くの著作を残しています。

古い時代を扱った著作に、たとえば『空海の風景』(単行本 文芸春秋社 初版1975年)は、ほとんど同時代の史料がないのに、
あたかも空海を現場で見たかのように生き生きと描いている優れた歴史小説です。

これは8世紀から9世紀にかけて中国から日本に密教を伝えた天才的な僧侶です。

一応、歴史家である私はこの本を読んだ時、司馬氏の洞察力と筆力のすごさから受けた衝撃は今でも鮮明に記憶に残っています。

また、NHKで2009年から11年まで足掛け3年にわたって放映された『坂の上の雲』は、明治維新から日ロ戦争「勝利」まで
の、近代日本誕生の物語です。

今回、ここで紹介したい作品は、全6巻からなる『この国のかたち(一)』(文庫版 初版1993年)です。

司馬遼太郎は自分の言葉で言っているわけではありませんが、私はこのシリーズは全体として、司馬遼太郎が、どうしても言って
おかなければならないこと、日本の将来あるべき「かたち」を示した「遺書」であると受け取りました。

そのなかでも、私が一番衝撃を受けた個所は、3章 ”雑貨屋“の帝国主義(34ページから46ページ)です。

ここでは、日本の帝国主義をイギリスのそれとを比較して、日本の近代が、どこで道を誤ったのかを、半ば「夢」という形を借り
て述べています。

夢の中では、「モノ」という存在が、司馬遼太郎に語りかけ二人で対話します。

「モノ」とは日本の近代、1905年(明治38年)から1945年(昭和20年)、つまり日露戦争“勝利”から太平洋戦争の
敗戦まで、ということになっています。

この間に、日本に何が起こったのでしょうか?

「モノ」が言うには、イギリスは、世界に植民地を築き、それを守るため世界に冠たる大艦隊を打ち立てました。

日本もイギリスにモデルとして植民地を獲得し、それを維持拡大するために海軍を増強し、大艦隊を構築しました。

ただ、イギリスとの違いは、日露戦争終結の時、日本は世界中に植民地などもっていなかった、という点です。

しかし「日本は日露戦の勝利以後、形相を一変させた」。

「なぜ日本は、勝利後、にわかづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した小さな海軍にしなかったのか」、司馬は
「モノ」に問いかけます。

「戦後、多数の海軍軍人が残った」。「モノ」は短く答えます。

組織と言うものは、たとえ目的がなくても細胞のように自己増殖をのみ考えるものだ、と司馬は解釈します。

日露戦争終了後5年後に、日本は韓国を合併しました。

イギリスは植民地を獲得して、過剰な商品とカネの捌け口を得るために公的な政府や軍隊
を使った。

しかし、当時の日本の産業界に過剰な商品など存在していなかった。日本が朝鮮に売ったのは、タオル(それも英国製)とか日
本酒とか、その他のマッチなどの日用雑貨品が主なものだった。

朝鮮を侵略することについて、それがソロバン勘定として合うかどうかを誰も考えなかった。

司馬は言う。「タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるだろうか」。

“満州国”を作った時も、昭和10年の段階で、人絹と砂糖と雑貨が主な輸出品だった。これらの販売で、ペイするかどうか誰
も考えなかった。

それにつづいて、司馬遼太郎は、近代日本が躓いた源流について、決定的な言葉を述べます。

「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。」(43ページ)


司馬によれば、日露戦争は日本が勝利したことになっているが、当時のロシアは日本に戦争継続の能力が尽きようとしている
のを知っていたし、内部に“革命”という混乱をかかえていても、物量の面では戦争を継続して日本軍を自滅させることも不可
能ではないし、弱点は日本側にあった、というものです。

しかし、幸運にもポーツマスの講和条約で小村寿太郎がぎりぎりの条件で講和を結ぶことができた。

「日本は日露戦争の勝利以後、形相を一変させた。」(37ページ)

司馬遼太郎によれば、この「調子狂い」(言い換えれば“勘違い”あるいはそれに基づいて冷静な判断力を失なった行動)は、
軍の参謀だけではなかった。国民がこぞって「調子狂い」してしまった。

それは、講和条約を破棄せよ、講和条約反対の国民大会が日比谷公園で行われ、暴徒化し、無政府状態になり、戒厳令をし
かなければならない状態になったことにも現れている、という。

つまり、国民は、「平和の値段が安すぎる」、もっと多くの利益を得るべきだ、と叫んだのです。

司馬遼太郎は、こよなく日本を愛した日本人です。

その彼の文章から私が読み取った司馬遼太郎のメッセージ(遺言)とは、次のことでした。

すなわち、日本は日露戦争勝利によって、軍と国民が一体となって、ともに「調子狂い」のまま、朝鮮、満州、さらには中
国への進出、という泥沼にはまってゆき、太平洋戦争に突入し、国の内外に膨大な犠牲をもたらして日本は敗戦を迎えるこ
とになった。

おそらく彼は、「これを言っておかなければ死んでも死にきれない」と、強く思っていたのではないでしょうか。

この「調子狂い」からの40年間は、日本の歴史の中で「異胎」、つまり大国主義の熱に冒された異常な時代だった。

では、この「調子狂い」で「異胎」の40年は、敗戦後どうなったのか?

司馬は「モノ」に問いかけます。

「君は生きているのか」

「モノ」は答えます。

「おれ自身は死んだと思っている。しかし見る人によっては、生きているというだろう。(36ページ)

もし、「モノ」つまり、「調子狂い」の40年が今でも生きているとしたら、それは非常に危険なことです。

これは司馬遼太郎の危機感を込めた警告であり、「遺言」なのかも知れません。

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アジサイが終わり、ナツツバキとユリが目を楽しませてくれます。








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