サラリーマン生活を卒業し、ご隠居?生活の身になると、曜日の感覚が薄れてきます・・・
例えば、左上に挙げたグラフはあるブログの毎日のアクセス数を記録したものですが、毎日採っていた記録が最近少し落ち着いたので、1週間に1回の記録にしようと思い、何曜日が良いかと思案しているところです。
サラリーマン時代だと、基本的に1週間の始まりが月曜日と決まっており、曜日を忘れることはまずなかったのですが、毎日サンデーの身になるとマイルストンになる曜日が無く、つい忘れてしまうのです・・・
どうすればよいか!? どうも名案が浮かばない!
やはり、自分で作るスケジュールに書き込んでおくしかないのかな!?・・・とも思っているところです。
まあ、毎日サンデーの身になると、自分で自分の行動を律する必要があるようで、記憶力が低下することを防ぐ意味においても、何とかカレンダーをみて、「今日は何曜日だ!だから何々をしなければならない!」と脳味噌を刺激するような習慣をつけたいと思います・・・
これがダメなら、やはりスケジュールに書き込んでおくしかないのかな・・・
ここ数日、朝夕も過ごしやすい気候になり、自分にとって一年を通じてもっとも楽しい「至福のひととき!」を味わうことができるようになりました!
僕の「至福のひととき!」というのは・・・
~~朝目覚めた後お日様が東の空に上がるのを横目に、庭で新聞に目を通すこと~~
~~夕方、だんだん空が暮れていくのを眺めながら、庭でコップを傾けること~~
です。
今夜は久し振りに、満月の少し前の月が、雲間に見え隠れするのを眺めながら、コップを傾けました
一日の疲れがサーッと無くなる「至福のひととき!」なのです・・・
いつまでも、この朝夕の「至福のひととき!」を大事に味わいたいと思っております
最近、朝日新聞の地方版に掲載された「幻の本土決戦陣地跡は語る」という記事を見て、子どもの頃(終戦前)の家の裏の畑に掘られていた防空壕のことを想い出しました。
戦争末期になって本土空襲が激しくなった頃、自分の家は田舎の山村であったが、阪神地方を空襲したB29が中国に向かって飛ぶコースになっていたらしく、かなり上空であるがB29の機影を見ることがありました。
それに対処するためか、家の裏の畑に防空壕が掘られていました。人が屈んで3,4人が入れる位の大きさだったと思います。
防空壕といっても焼夷弾が1つでも落とされると、何の役目もしないような幼稚なものだったようですが、幸いに使用することは無く終戦を迎え、いつの間にか元の畑になっていました。
防空壕ではないが、田舎の実家にまだ防空を意図した名残が残っています。
それは、蔵の白壁が飛行機から発見されないようにと、泥で茶色に塗られていることです。
新聞に紹介された「本土決戦陣地」も未完成の状態で終戦を迎えたとのことですが、使用されずに幸いだったと思います。
人類皆が「戦争は無駄なこと!愚かなこと!」と知りながら、まだ地球上では内戦などが繰り返されているのはなぜだろう
美しい自然の原野を、戦争など愚かなことで破壊しない平和な世の中にしたいものです!!
終戦後、何時頃かは覚えていないが、学校で昼の給食が始まりました・・・
戦争末期から終戦後かなりの期間は食糧難で、米のご飯はほとんど口にすることが無く、サツマイモやカボチャの蔓まで入った麦雑炊か代用食のすいとん(水団)が主だったから、給食が始まるまで弁当は何を食べていたのだろう!?・・・チョット想い出せません!
始まった給食と言っても、開墾した畑から掘り出してきたサツマイモを蒸かしたものと脱脂粉乳(アメリカからの援助物資)をお湯で溶いたものだったのです・・・
脱脂粉乳をお湯で溶いた物は不味く、一口飲んで残りを窓から捨てていたことを想い出します・・・
その栄養を代わりに吸ったであろう校庭の桜の木も、数年前の廃校とともに無くなり今ではその姿を見ることが出来なくなっております。
遥か昔の想い出になりましたが、口に慣れない給食だったから想い出したのでしょう・・・
ただ、脱脂粉乳の粉は美味しかった!
脱脂粉乳の粉は、木の樽に入って、学校の調理場の倉庫に置いてあり、食器返還の時などに、調理のおばさんに交渉し舐めさせてもらったことを想い出します・・・
その頃のことを想うと、今の食事は全く贅沢すぎる・・・
だからメタボになって栄養指導を受けるようなことになったのだろう!? 反省!
「田植え」が始まったとのニュースをTVなどで見ると、子どもの頃の田植えの様子を想い出します・・・
子どもの頃の田植え風景は、今TVに映るような田植え機で植えるのとは全然違っていました。
まず、田植え時期になると、学校は農繁休暇といって2週間くらい?休みになり、子どもも田植えの手伝いをしたものです。
その頃の田植えは、代掻き(田植えの準備として田んぼを均す整地作業)が終わった田んぼに、地区総出の共同作業で、数人から十数人が横一列に並び、横に張った「田植えひも」の印を目印に、一人が数株づつ担当し、一株一株手で植えるのでした。
「田植えひも」は、白い紐に30cm(位かな?)間隔に赤い玉が付いており、そのひもを順次等間隔で移動することによって、苗を格子状に植える定規の役目をするものです。
この「田植えひも」を、田んぼの両方の畔で順次移動するのが子どもの役目だったのです。
雨の日は、藁で編んだ蓑を着て手伝ったものです・・・ちゃんと子供用の小さな蓑があったのです。
最後の田植えの日は、「さなぶり」と言って、手伝ってくれた人々が集まり慰労の会が開かれました。ここでの子ども役は、田植えの手伝いでなく、この宴会に出される「筍ご飯」に入れる筍を、山に採りに行くことでした。
今では農繁休暇もなく、子どもは学校で勉強・・・
田植えは、広い田んぼの中を、大人の人が乗った田植え機が行きつ戻りつ・・・
どうも絵にならず、想い出にも残らないような光景しか見られなくなったて残念
職場に配属されたその日から、退社後帰寮途中週に2,3回、配属先の先輩に、職場の人たちのたまり場だった「焼き鳥屋」に連れて行ってもらった・・・
「焼き鳥屋」の名前は「夏ちゃん」とか言って、モツを目の前で焼く屋台風のカウンター式で、止まり木に座るとまず塩もみのキャベツが出たように記憶しています。キャベツを爪楊枝で刺し、モツ焼きと交互に食べるのが美味しかった! アルコールは合成酒だったと思う
そこでの話題は、焼き鳥の食べ方から職場のこと、仕事のこと、遊び方、世間話などなど、とにかく新社会人には役立つものばかりでした
そこには、自分の職場以外の先輩達も、よく立ち寄られており、いろんな人に紹介され、顔なじみになり、仕事の上でも大変役に立ったのです
最近は、自動車通勤が多くなり、そのような機会は少なくなっているようだが、50年ほど前は自動車通勤など珍しく、通勤途中のこのような立寄りは多かったのです。
とにかく、このような課外授業は、仕事や世渡りの潤滑油になることが多く、リタイヤ―した今でも、機会あるごとに参加し楽しんおります。
会社に入り、設計者の端くれになった頃、「お釈迦!」を作ってしまうことが多々ありました。
「お釈迦!」とは、使い物にならないもののことです。
改めて、「お釈迦!」の語源・由来を調べてみると、「鋳物職人の隠語からでた言葉で、阿弥陀像を鋳るはずが、誤って釈迦像を鋳てしまって、使い物にならなかった。」ことから来たようです。
想い出として浮かぶのは、なぜか失敗の事例ばかりです・・・上手く行ったこと、成功したこともあるはずですが、それはあまり記憶に残っていないのです・・・
その一つの例が・・・
図面に書く数字が紛らわしい字であったために、部品の「お釈迦!」を作ってしまったことです。
数字の「5」を、製図文字でなくふつうメモに書くような文字で書き、さらにその図面をリコピー機(今ではほとんど見かけないような、湿式ジアゾ式複写機)でコピーしたため不鮮明になり、加工者が「3」と読み取ったのです。そのため「お釈迦!」品を30個くらい作ってしまったのです。
今では、図面をCAD(Computer Aided Design:コンピュータ支援設計)で描くため、こんなことは無いと思いますが、文字による情報の伝達の難しさを肝に銘じた失敗事例でした。
とにかく、言葉にしろ、文字にしろ、自分の意図したことを他人に伝えることは難しい!
このブログでも、自分の気持ちが正確に伝わるかどうか心配ですが、上記の様な失敗を想い出しながら書くよう努めたいと思います。
昭和20年8月15日のすぐ後のことは、夏休み中だったからかあまり記憶がありません。
夏休みが終わり、2学期が始まった頃の記憶の一つは、教科書に墨を塗った事です。
多分、実家に帰り家探しすると見付かるかもしれませんが、教科書と言っても今では想像もできないようなもので、新聞紙大のわら半紙を切って、自分で綴じた冊子でした。
墨塗り教科書については、手元に資料もないので、次のWebサイトの「~墨塗教科書~」を参考にしてください。
http://www.city.ono.hyogo.jp/~kokokan/kanzouhin/suminuri.html
真っ黒に塗った教科書でどんな授業を受けたかは、残念ながら記憶に残っていません。
夏休み前までは「鬼畜米英」「撃ちてしやまん」だったのが、夏休みが終わって学校に行くと、戦争に関係するようなところは墨を塗る・・・
子どもながらにその変化について行けず、記憶に残すことができなかったのかもしれません。
記憶にも残せないような、こんな急激な変化はあまり経験したくないし、今の子ども達にも経験させたくありません
太平洋戦争が終わったのは1945年8月15日であり、その時自分は国民学校4年生の夏休みだったはずです。
当日は、何時ものように、近くの小川に泳ぎに行っていたが、「昼に重大放送があるから早く帰って来い!」と言われていたので、昼前に家に帰り、上半身裸で汗を拭き拭き、縁側に座ってラジオを聞いたように記憶しています。
内容はよく理解できなかったとようだが、それが終戦を告げる「玉音放送」だったようです。
その時の縁側での様子は想い出せるが、その時何を感じたかは想いだせません。
戦争中のことは、断片的にしか想い出せない・・・
例えば
・朝、運動場で朝礼があり、奉安殿に最敬礼した後、教育勅語を大声で朗読?した。
意味は解らなかった!と思う。
・出征兵士をのぼり旗を立て行列で見送った・・・
何処まで送ったかは定かでない。
・学校の運動場に、直径5m余り?の「すり鉢」状の穴が掘ってあった・・・
遊び時間に、その中の傾斜部分を走り廻っていた・・・
少年飛行兵になって、宙返りしたときに平衡感覚を失わないようにする訓練だったようです。
断片的にでも、出来事を想い出しながら書いていると、だんだん多くなるようです。
また機会を見て書くことにします。
終戦日以前は、やはり先に紹介した「撃ちてしやまん」の精神を汲んだ軍国少年の教育を受けていたようです。
それが、8月15日を境に180度の変化・・・
どんな感じだったのだろう!?~~~残念ながらほとんど想い出せません!