70数年前の想い出になりますが・・・
中学生で 英語を習うようになり、それを使ってみたく、どういう方法でたどり着いたか 忘れてしまったが、一人の女性のペンパル(文通友達)と手紙のやり取りしたことを思い出しました。
現在では、SNSなどで、世界中に友だちを作ることができるが、その頃は 、何日もかけて 往復する郵便が、外国のことを垣間見る 楽しみだったのです。
先に「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の投稿をして、自分の生まれた年はどんな世相だったかを知りたく検索してみると、「思い出の昭和史」というサイトの「どんな年?」という欄に次のような投稿がありました。
・日本の国は天皇が統治するという「国体明徴」声明。これにより、絶対である天皇の権威と力を利用して国家が運営されていきます。社会の底流に極めて不気味な「動き」が始まった年です。 自由な言論は封殺され、軍国主義化が進みます。 |
生まれたばかりの年なので、その頃の世相を自分では知るすべもありませんが、興味を引かれたのは後半の「紙芝居」についてでした。
というのは、数日前に、お母さん方によって催された「わんぱくはらっぱ」という子どもの遊び広場で、「紙芝居」が子ども達に大人気だったのです。(左上の写真をクリックしてみてください。)
何時の世も、肩を寄せ合い、駄菓子を口にしながら、演じる肉声と絵に夢中になるのは、子どもにとって至福の一時なのでしょう。また、独りで夢中になるゲームより、ずーっとずーっと子どもに思い出として残ることでしょう!!
今年に入り、新聞・テレビなどで「戦後70年」という言葉がよく聞かれる・・・
終戦は僕が10歳の時である。したがって、今年は僕にとっては、傘寿の年である・・・
満開になったサクラを背景に、ピカピカの一年生が家の前を登校して行った。
これを見て思い出したのが、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」という、戦前?の小学校一年生の教科書の文節です。
僕が入学したのは、小学校でなく国民学校だったと思う。ただ、一年生になる直前は小学校であり、教科書の最初が、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まっていたので、サクラを見るとこの文節を想い出すのだろう!?
小学校に入学して最初に目にし聞いたのは「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」だったようだが、その文節をすぐには想い出せない・・・子どもながらに、急に変わったことには付いて行けないのかもしれない!?
この世に生を受けて80年・・・戦前・戦中・戦後・高度成長期そして現在・・・いろいろなことを経験してきた筈だ・・・
自分史を綴るまでには行かないが、思い出すままに書いてみようと思います。
子どもの頃の七夕さん・・・
七夕(子どもの頃の田舎では月遅れであったが!?)が近づくと、縁側の外にちぃっちゃな涼み台(1畳くらいの一段高くなった舞台のようなもの)を作り、笹竹を2本飾りました。
七夕の当日か前日かは忘れましたが、近くの棚田の水源に育っている「ハスの葉」に溜まった水滴を採りに行きました。この水滴で墨を擂り短冊に願いことを書いたのです。
水滴を採った帰りに、短冊を吊るす「井草」のような30cm位の先に小さな穂のようなものが付いた草を採って来たことを思い出します。
短冊にどんなことを書いたか忘れましたが、2本の笹にたくさん願い事を書いたはずです。
七夕の翌日には、短冊が沢山ぶら下がった笹竹を、前の小川に流しに行き、楽しかった七夕さんが終わりました。
最近、朝日新聞の地方版に掲載された「幻の本土決戦陣地跡は語る」という記事を見て、子どもの頃(終戦前)の家の裏の畑に掘られていた防空壕のことを想い出しました。
戦争末期になって本土空襲が激しくなった頃、自分の家は田舎の山村であったが、阪神地方を空襲したB29が中国に向かって飛ぶコースになっていたらしく、かなり上空であるがB29の機影を見ることがありました。
それに対処するためか、家の裏の畑に防空壕が掘られていました。人が屈んで3,4人が入れる位の大きさだったと思います。
防空壕といっても焼夷弾が1つでも落とされると、何の役目もしないような幼稚なものだったようですが、幸いに使用することは無く終戦を迎え、いつの間にか元の畑になっていました。
防空壕ではないが、田舎の実家にまだ防空を意図した名残が残っています。
それは、蔵の白壁が飛行機から発見されないようにと、泥で茶色に塗られていることです。
新聞に紹介された「本土決戦陣地」も未完成の状態で終戦を迎えたとのことですが、使用されずに幸いだったと思います。
人類皆が「戦争は無駄なこと!愚かなこと!」と知りながら、まだ地球上では内戦などが繰り返されているのはなぜだろう
美しい自然の原野を、戦争など愚かなことで破壊しない平和な世の中にしたいものです!!
終戦後、何時頃かは覚えていないが、学校で昼の給食が始まりました・・・
戦争末期から終戦後かなりの期間は食糧難で、米のご飯はほとんど口にすることが無く、サツマイモやカボチャの蔓まで入った麦雑炊か代用食のすいとん(水団)が主だったから、給食が始まるまで弁当は何を食べていたのだろう!?・・・チョット想い出せません!
始まった給食と言っても、開墾した畑から掘り出してきたサツマイモを蒸かしたものと脱脂粉乳(アメリカからの援助物資)をお湯で溶いたものだったのです・・・
脱脂粉乳をお湯で溶いた物は不味く、一口飲んで残りを窓から捨てていたことを想い出します・・・
その栄養を代わりに吸ったであろう校庭の桜の木も、数年前の廃校とともに無くなり今ではその姿を見ることが出来なくなっております。
遥か昔の想い出になりましたが、口に慣れない給食だったから想い出したのでしょう・・・
ただ、脱脂粉乳の粉は美味しかった!
脱脂粉乳の粉は、木の樽に入って、学校の調理場の倉庫に置いてあり、食器返還の時などに、調理のおばさんに交渉し舐めさせてもらったことを想い出します・・・
その頃のことを想うと、今の食事は全く贅沢すぎる・・・
だからメタボになって栄養指導を受けるようなことになったのだろう!? 反省!
「田植え」が始まったとのニュースをTVなどで見ると、子どもの頃の田植えの様子を想い出します・・・
子どもの頃の田植え風景は、今TVに映るような田植え機で植えるのとは全然違っていました。
まず、田植え時期になると、学校は農繁休暇といって2週間くらい?休みになり、子どもも田植えの手伝いをしたものです。
その頃の田植えは、代掻き(田植えの準備として田んぼを均す整地作業)が終わった田んぼに、地区総出の共同作業で、数人から十数人が横一列に並び、横に張った「田植えひも」の印を目印に、一人が数株づつ担当し、一株一株手で植えるのでした。
「田植えひも」は、白い紐に30cm(位かな?)間隔に赤い玉が付いており、そのひもを順次等間隔で移動することによって、苗を格子状に植える定規の役目をするものです。
この「田植えひも」を、田んぼの両方の畔で順次移動するのが子どもの役目だったのです。
雨の日は、藁で編んだ蓑を着て手伝ったものです・・・ちゃんと子供用の小さな蓑があったのです。
最後の田植えの日は、「さなぶり」と言って、手伝ってくれた人々が集まり慰労の会が開かれました。ここでの子ども役は、田植えの手伝いでなく、この宴会に出される「筍ご飯」に入れる筍を、山に採りに行くことでした。
今では農繁休暇もなく、子どもは学校で勉強・・・
田植えは、広い田んぼの中を、大人の人が乗った田植え機が行きつ戻りつ・・・
どうも絵にならず、想い出にも残らないような光景しか見られなくなったて残念
昭和20年8月15日のすぐ後のことは、夏休み中だったからかあまり記憶がありません。
夏休みが終わり、2学期が始まった頃の記憶の一つは、教科書に墨を塗った事です。
多分、実家に帰り家探しすると見付かるかもしれませんが、教科書と言っても今では想像もできないようなもので、新聞紙大のわら半紙を切って、自分で綴じた冊子でした。
墨塗り教科書については、手元に資料もないので、次のWebサイトの「~墨塗教科書~」を参考にしてください。
http://www.city.ono.hyogo.jp/~kokokan/kanzouhin/suminuri.html
真っ黒に塗った教科書でどんな授業を受けたかは、残念ながら記憶に残っていません。
夏休み前までは「鬼畜米英」「撃ちてしやまん」だったのが、夏休みが終わって学校に行くと、戦争に関係するようなところは墨を塗る・・・
子どもながらにその変化について行けず、記憶に残すことができなかったのかもしれません。
記憶にも残せないような、こんな急激な変化はあまり経験したくないし、今の子ども達にも経験させたくありません
太平洋戦争が終わったのは1945年8月15日であり、その時自分は国民学校4年生の夏休みだったはずです。
当日は、何時ものように、近くの小川に泳ぎに行っていたが、「昼に重大放送があるから早く帰って来い!」と言われていたので、昼前に家に帰り、上半身裸で汗を拭き拭き、縁側に座ってラジオを聞いたように記憶しています。
内容はよく理解できなかったとようだが、それが終戦を告げる「玉音放送」だったようです。
その時の縁側での様子は想い出せるが、その時何を感じたかは想いだせません。
戦争中のことは、断片的にしか想い出せない・・・
例えば
・朝、運動場で朝礼があり、奉安殿に最敬礼した後、教育勅語を大声で朗読?した。
意味は解らなかった!と思う。
・出征兵士をのぼり旗を立て行列で見送った・・・
何処まで送ったかは定かでない。
・学校の運動場に、直径5m余り?の「すり鉢」状の穴が掘ってあった・・・
遊び時間に、その中の傾斜部分を走り廻っていた・・・
少年飛行兵になって、宙返りしたときに平衡感覚を失わないようにする訓練だったようです。
断片的にでも、出来事を想い出しながら書いていると、だんだん多くなるようです。
また機会を見て書くことにします。
終戦日以前は、やはり先に紹介した「撃ちてしやまん」の精神を汲んだ軍国少年の教育を受けていたようです。
それが、8月15日を境に180度の変化・・・
どんな感じだったのだろう!?~~~残念ながらほとんど想い出せません!
新緑の今、庭の柿の蕾を見出し、子どもの頃を想い出しました。
国民学校の2,3年生の頃の記憶はあまり想い浮かばないのですが・・・
家の周りの柿が色付くのは、当然秋の頃ですが・・・
田舎のことだから、大人は朝早くから夕方暮れるまで、稲の刈り取り収穫に忙しく働いています。
その間、子ども達は多少は手伝いをするが、すぐ飽きてしまう・・・
それを見て、両親は「柿を採てこい!」と言うので、子ども達は、竹籠を持って柿の木に登ったり、先を細工した長い竹の竿を持って、甘柿採りに走ったものです。
その柿を、田圃に持って行って、大人たちと一服の休憩・・・
当然、柿は皮も剥かず丸齧りです・・・しかし、美味しかった!
柿の木に登れるようになると、柿は木の上で食べるのがこれまた楽しみの一つであったことを想い出します。
なお、庭の柿の木は、田舎で食べていた木の穂を接ぎ木したもので、美味しさは変わりませんが、残念ながら、まだ小さいので、木の上で食べる楽しみはもう少し先のようです・・・
柿をお店で買って食べることを知ったのは、かなり後でした
新しいランドセルを背負ったピッカピッカの一年生の下校しているのを見て、タイムスリップしてみました・・・
自分が国民学校(入学前年に小学校から国民学校になった)に入学した頃のことで、想い出すのは「紀元二千六百年」と「撃ちてしやまん」という言葉です。
国民学校に入学したのは「紀元二千六百年」の次の次の年だったはずですが・・・
田舎だったからか戦争開戦前だったからか幼稚園の記憶はないのですが、入学前に買ってもらい、喜んで下げて廻っていた手提げ画板入れに「紀元二千六百年」と「撃ちてしやまん」の文字が書いてあった(今でもそのイメージは想い出せます)からのようです。
その意味は解らないまでも、「紀元二千六百年」の歌だとか「撃ちてしやまん」の言葉を大人の人たちから、絶えず聞かされていたからだろうと思います。
なぜか、ランドセルの記憶はないのです・・・何も書いてなかったからかナ!?
今では、「紀元二千六百年」も「撃ちてしやまん」も死語同然ですが、すぐ想い出すのは、やはり印象が強かったからだろうと思います。
今の子ども達は、70年後には何を想い出すだろう!?・・・
楽しいことを想い出してくれるように、日頃話しかけたいものです
子どもの頃、実家の裏の畑に、1箱だが蜜蜂を飼っていました・・・
春になると、周囲の田んぼに緑肥として植えられていたレンゲ草の蜜を求めて蜜蜂が盛んに飛び交い、自分の巣箱に運んでいました。
最近は、田んぼの肥料も化学肥料が主となり、レンゲ草が田んぼ一面に咲いているのを見かけなくなったので、蜜蜂を飼う家も少なく、あるいは無くなっているのではないだろうか!?
蜜蜂を飼っていたころを想い出すと・・・
ある花、例えばレンゲ草が咲き終わる頃、ドラム缶より一回り大きい円筒形の中に、蜜がたまった巣枠を入れ、遠心力で蜜を取り出す様子です。
蜜の流れ出す口に指を浸し口に持って来る・・・
ああ美味しい!とまた指を出す!・・・美味しい思い出です。
花の時期によって味が違うのです・・・
レンゲの蜜は美味しいが、栗の花の蜜は不味い!
(春、夏の蜜は人間が戴くので、冬は巣箱に砂糖水をやっていました!)
もう一つ記憶にあるのは、蜜蜂の巣を狙ってアカニカ蜂(一種のスズメバチ)が襲ってきて、蜜蜂と戦闘になることです。
蜜蜂は、一度刺すと自分は死ぬので、巣箱の前は一面死骸の山になる・・・
この消耗戦の被害を少なくするため、人がアカニカ蜂を追い払ったり、巣箱の前にアカニカ蜂の罠を付けたり大変な騒ぎになるのです。
今でも、実家には巣箱や、蜂の巣の枠の残骸は残っています・・・
ただ、手元に写真が無いので紹介できないのが残念です。
今頃の季節(4月の終わり頃)と思いますが・・・
この頃、母たちは連れだって、弁当、竹籠、袋(サンタクロースの背負ってくるような袋)を持って、山に山菜採りに出掛けます。しかし、出掛ける先が山なので、子ども達はお留守番でした・・・
ワラビ、ゼンマイ、フキ、ヨモギなどなど、一年を通しての惣菜にするのです。
それに子ども達へのお土産のダンジ・・・
午後になって、袋一杯の山菜を担いで帰ってきます。
お土産のダンジ(「ダンジ」というのは方言らしく、正しくは「イタドリ」という)は・・・
まず、薄皮を剥いて食べます・・・おやつだったのかな!?
チョット酸っぱいが、美味しかったことを覚えています。
そして、ダンジを使ったお遊び・・・水車を作るのです。
切り取った茎の両端に切り込みを入れてしばらく水に晒しておくと、お子さまランチに出てくる“たこさんウインナー”のように外側に反るので、中空の茎に木の枝や割り箸を入れて流水に置くと、水車のようにくるくる回るのです。(写真が無くて残念!)
子ども達はそれを作って小川に急ぐのです。
母たちは、採ってきた山菜を洗い、茹でて干す準備をしていたのです。
懐かしく想い出す、新緑の頃の一コマです!
先に、サラリーマン時代の想い出を書き始めましたが、想い出は当然子どもの頃、学生の頃にもあると考え、新しいカテゴリーとして「想い出(学びの時代)」として書いてみようと思い立ちました。
手始めに・・・
庭に生え、昨日も摘み取って食べた「セリ」(左上のサムネールは庭のセリです。)て想い出したことを・・・
チョット時期が過ぎたのですが・・・子どもの頃「雛の節句」(田舎では月遅れで4月3日だった筈です)になると、ちぃっちゃな竹の籠を持って、田圃に「セリ」と「田螺」を採りに出掛けました。これが、ピンクのでんぷの乗ったちらし寿司とともに、母の作るお節句のご馳走だったのです・・・
今でも「セリ」が食卓に出ると、お座敷に飾ったお雛さんとともに、子どものころの節句を思い出します。
「田螺」は、最近はというより随分前から目にしていません。田舎に帰っても目にかかりません・・・というのは、稲作のため農薬を撒くようになり、残念ながら田圃に居なくなったのです。
子どものころの想い出は、今ではあまり経験出来ないことが多々ありますが、それだけに懐かしさ一杯なので、気が付くたびに書いてみたいと思います。
今年は、例年より早くサクラが咲いた・・・
満開のサクラを見て、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」の言葉が浮かび、ふと自分の小学校(本当は「国民学校」だったが)への入学のことを想い出そうとしました。
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」は、1年生の「ヨミカタ」の最初の文言ではなかったか!?と・・・
インターネットで調べてみると、違っていました・・・
昭和16年4月から「国民学校」となっていたのです。
それに伴って、国語の教科書(ヨミカタ 一)は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」へと変わっていたのです。
したがって、自分が最初に手にした国語の教科書は「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まったようです・・・
それを手にしたのは、70年前でした・・・
記憶とは不思議なものです・・・
「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」は、すっかり脳の片隅から消えていたのです。
正月が入学の季節だと覚えていたかも判りませんが、4月が新学年だと「入学⇒サクラ」の方が脳の神経が繋がりやすかったようです。
「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」は、戦争に突入する前触れだったのでしょう・・・だから忘れた方が良いのかもしれません。
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」を何時までも子どものころの思い出にしておきたいものです・・・