世相の潮目  潮 観人

世相はうつろい易く、その底流は見極めにくい。世相の潮目を見つけて、その底流を発見したい。

大久保利通哀悼碑に思う

2009年08月20日 | Weblog

ホテルオータニと赤坂プリンスに挟まれた低地に清水谷公園があります。嘗て、メーデーの集結場所でしたが、今は殆ど訪れる人もない静かな公園です。そこに大久保利通の哀悼碑が建っています。この地で暗殺された大久保利通を悼んで建てられたものです。

大久保利通は、西郷隆盛、木戸孝允と並んで明治維新の中心人物の一人であり、倒幕の後、明治政府の創設と運営に最も功績のあった人です。大久保利通は、内務省を設置し、教育制度、課税制度、軍事制度など近代国家の基礎を築きました。

これらの制度を立ち上げて運営したのは官僚組織でしたが、これも同じく大久保利通が作り上げたものです。人材は各藩から広く優秀な藩士を集めてこれに当たらせました。優れた人材であれば徳川幕府の者でも採用しました。

明治時代は政治家も官僚達も近代国家を作る意欲に溢れていました。明治政府にも汚職事件はありましたが、大久保利通、伊藤博文などが率いる日本政府のモラルは極めて高いものでした。これは明治時代が江戸時代の武士社会の風土を引き継いでいたからでしょう。

そのモラルの風土は政治家や官僚だけでなく渋沢栄一など財界人にも共通していました。アジアで日本だけに健全な資本主義が育ったのも、このモラルの高さにあったと思います。

しかし、大正の政党政治時代になると、このモラルは崩れていきます。いくつかの疑獄事件が政権を揺さぶり、それを巡った政争が繰り広げられました。政界と財界の間、更には外国政府との間で政治汚職は広がっていきます。昭和になると汚職の規模は益々大きくなります。

戦後、鳩山一郎から政権を委譲された吉田茂は、戦前の政党人が汚職にまみれていたのを知っていました。また、対米外交に腐心する吉田茂は、外交政策を重視しました。しかし、党人政治家たちは長期的な視野での政策よりも当面の選挙対策にばかり夢中になっていました。吉田茂は政党政治家に不信感をもつようになります。

その結果、吉田茂は官僚を政治家に養成し、政治家に登用する外に方法はないと考えたと云われます。戦後の高度成長期を指導した岸信介、池田勇人、佐藤榮作などは皆官僚政治家です。

いま、大久保利通が創設した官僚組織が諸悪の根源のように批判されています。戦後をリードしてきた官僚政治を打破しなければならないと与野党共に唱えています。確かに、国民的目標が明確なときには官僚政治は成功しましたが、目標が多元化した今は、官僚政治は有効でないことは事実です。

しかし、国民的目標を定めるのは官僚の仕事ではなく、政治家の仕事です。多元化した目標を纏め、優先順位を付け、国民に信を問い、官僚組織を駆使してその目標を実現するのが政治家の役目です。その政治家が官僚組織を壊すとだけ叫んで、それが目標であると主張しているようでは、政治家の資質が問われます。

いま選挙戦の最中です。痛みを伴う政治を唱えた小泉改革は否定されて、与野党共に国民の歓心を買う甘い政策を並べ立てています。経済、外交、防衛などの長期的視野からの政策討論が聞こえないのは寂しい限りです。

国民の多くは、目先の損得ではなく、国の長期的な利害に関心がある筈です。明治の政治家たちは己を無にして、長期的観点から、国の運命を賭けた政治を行いました。今の政治家達は、その事に早く気付いて欲しいと願っています。
(以上)
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敗戦の日に思う

2009年08月16日 | Weblog

8月15日は敗戦記念日です。今年で敗戦の日は64回目になります。戦いに敗れて歴史上初めて日本本土が占領された日です。

この日には、戦争への反省、周辺国への謝罪、非戦の誓いなどが語られ、内外からは歴史に学べと声高に批判されます。賢人は歴史に学ぶと云いますから、日本人も敗戦を大いに歴史から学ぶべきです。

この敗戦を歴史から学ぶには、第二次世界大戦だけを切り離しては、本当に学んだことにはなりません。東京裁判では第二次世界大戦は満州事変から始まったとして裁かれましたが、日本が満州事変を始めたのは欧米列強およびソ連のアジア進出に対抗するためでありました。

そして何故日本が満州事変を始めたかと言えば、その原因は明治維新にまで遡ります。日本が明治維新を実現したのは欧米列強に植民地化される危機を強烈に意識したからです。その危機意識なしには、300年続いた天下太平の鎖国は破れなかったのです。

欧米列強に支配されるかも知れないという危機意識は、明治以降、第二次大戦まで続いた日本人の共通の危機意識でした。

維新の廃藩置県は幕藩体制の支配者階級に大きな痛みを与えるものでした。明治の富国強兵政策は国民大衆に大きな痛みを与えるものでした。これらの痛みに国民が耐えたのは、いつに懸かって欧米列強に対する危機意識があったからです。国家の運命を誤らせた軍国主義も、その過程で生まれてきたのです。

いま、百年に一度と言われる金融恐慌が世界経済を襲っていますが、1929年(昭和4年)の世界恐慌は今より遙かに過酷な生活を各国民に与えました。中でも資本主義経済が未熟だった日本の東北の農村では娘を売って飢えをしのぐという事態まで生じたのです。軍国主義発生の芽となった 2.26 事件(昭和11年)は、これに怒った若い軍人達が引き起こしたと云われています。

戦争中、多くの若い兵士達は命を落としました。国内では原爆投下、東京大空襲によって非戦闘員が大勢殺されました。敗戦した日本では、一億総懺悔という言葉が生まれましたが、戦争責任はナチスだとしたドイツのような責任転嫁の言葉は聞きませんでした。

それは明治維新を実現したときの危機意識が、国民の意識の底流に流れ続けていたからです。敗戦を歴史に学ぶには、この危機意識の原点に立ち返って反省し、これからの日本の行方を考えることでしょう。

写真は、敗戦の日、昭和天皇の詔勅を聴くべく集まった国民達が両手を付いた皇居前の広場です。64年後の昨日も、空には真夏の暑い太陽が輝いていました。
(以上)
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「市ヶ谷記念館」を考える

2009年08月07日 | Weblog

東京の市ヶ谷台に旧帝国陸軍の大本営本部の建物が残されています。ここが第二次世界大戦、日本が云う大東亜戦争を遂行した司令塔があったところです。そして其処はまた、連合軍が日本の戦争責任を裁いた極東軍事裁判所が置かれたところでもありました。

防衛庁(今の防衛省)が、平成12年(2000年)に六本木から市ヶ谷台に引っ越したとき、邪魔になるのでその建物を取り壊す話が出ましたが、戦争の悲惨さを忘れないために残せとの主張と、大東亜戦争の意義を記憶するために残せとの主張がぶつかり合い、真っ向から反対し合う意見が残すことで一致して残されました。

敗戦後、半世紀余り経た今日でも第二次世界大戦への意見は国民の間で大きく分かれていますが、更にその後、分裂にとって忘れられない事件が起こります。

作家三島由紀夫が東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込み、自衛隊にクーデターの決起を呼びかけ、その直後、割腹自殺した事件です。三島由紀夫は日本の繁栄と豊かさに欺瞞と退廃を見ての行動でした。

しかし、大多数の国民にはこの事件は理解に苦しむものでした。丁度その頃(1970)は、戦後の高度成長は終わりつつありましたが、人々は世界第二の経済大国となって物質的に豊かさの余韻に浸っていたからです。

だが、その頃から日本経済は後退期に入ります。ニクソンショック(1971)とオイルショック(1973)で日本の衰退は誰の目にもはっきりしました。1990年代の不動産バブルは、日本の戦後の復興が行き詰まったことを示しました。

敗戦後半世紀余り経た今日、人々は日本の経済的、政治的実力が如何に不安定なものであるかを思い知らされていますが、三島由紀夫の行動は、それより40年弱早く日本の繁栄が本物でないことを指摘していたのです。

しかし、自衛隊にクーデタを促すという非常識な方法と、割腹自殺という前時代的な行為は、当時の有識者からは狂気の沙汰と批判されました。

第二次世界大戦中、アジアの周辺諸国へ与えた被害に謝罪することは当然ですが、他方で、戦争中に命を落とした同胞たち、なかんずく若き兵士達への感謝と鎮魂の思いもなく、アメリカの庇護のもと安穏に生きる日本人への怒りが、三島の行動の原点にあったように思います。

今は「市ヶ谷記念館」となって残された旧日本軍司令塔の建物の柱に、三島由紀夫が事件のとき斬りつけた刀の跡を見ることができます。

敗戦の日の8月15日が近づいています。三島由紀夫の刀傷を見て、第二次世界大戦が何物であったのか、振り返って見るのも良いでしょう。
(以上)
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