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旧作探訪 #141 - 消えた画 クメール・ルージュの真実

2014-10-22 19:32:30 | 映画(映画館)
L'image manquante@早稲田松竹/監督・脚本:リティ・パニュ/ナレーション:ランダル・ドゥー/2013年カンボジア・フランス

映画監督リティ・パニュは、幼少期にポル・ポト率いるクメール・ルージュによる粛清で最愛の父母や友人たちを失った。革命政権下で数百万人の市民が虐殺され、カンボジア文化華やかなりし時代の写真や映像は破棄された。その、失われた人命や写真・映像は、果たして甦るのだろうか? 奇跡的に収容所を脱出し映画監督となったパニュは、「記憶は再生されるのか」というテーマのもと、犠牲者の葬られた土から作られた人形たちが、粛清・虐殺の由来を語り始め、そこへ数少ない当時の写真や映像を織り交ぜる形で、カンボジアが経た忌まわしい歴史を紐解いてゆく–

クメール・ルージュとは、1975~1979年にカンボジアを統治した共産主義勢力の通称であり、そのトップはポル・ポトであった。色鮮やかなカンボジアの文化が、クメール・ルージュによる“黒”と紅い旗とスカーフだけの世界に一変する。プロパガンダ映像に登場するポル・ポトはいつも笑顔で、民衆は無表情でロボットのよう。この悲劇は遠い過去のことではない。たった35年前のことなのだ。
体験した人びとだけのものではなく、歴史を知ろうとするすべての人たちの道しるべとなり、陰惨な歴史が繰り返される歯止めとなろうとする映画が、この『消えた画 クメール・ルージュの真実』であり、本年度のアカデミー賞外国映画賞にカンボジア映画として初めてノミネートされることとなった。




この秋、心身の状態がやや不調である。
特に、心肺機能の衰えに不安がある。脈が一拍飛んでドッと動悸がする、微細な不整脈が気になって、心電図を取ってもらう。
息苦しく感じることが以前より増えたことから、肺がん検診を受ける。
いずれも病気の兆候はない様子なのだが、変調の正体がはっきりしないことで、夜間など不安が膨らみ、それがストレスになって自律神経の乱れを招く。「病は気から」の典型である。

たびたび引用しているカミール・パーリアの『性のペルソナ』によれば、「冥界的自然(=死)に飲み込まれてしまうことに対する不安から、強迫観念のように駆り立てられ、自然を克服し支配するべく築かれたのがユダヤ/キリスト教をはじめとする西洋文明であり、女性は月経や出産によって、生まれてきた命は必ず滅びるさだめを知り、より自然と一体化していることから、西洋文明は男性的強迫観念の色彩を帯びるとのことだ。

さらに彼女は、「言葉」はものごとのあるがままの姿から最も離れた発明物に過ぎないとも述べている。
不安から逃れるため、絶対的なもの=神という観念にすがる。その神を否定し、唯物論を説いたマルクス主義も、言葉で定義された理念である以上西洋文明の末裔であり、唯物論は観念論の一変種に過ぎないというわけだ。




人の世の、あるがままの姿からかけ離れた観念論。
ここに、現実に生きている人間を無理やり当てはめようとすると、どのような結果を招くかを、この映画はまざまざと伝える。
内戦の結果、ポル・ポト率いる革命勢力が実権を握り、「民主カンプチア」となったカンボジアで、人びとは男か女か、老人か子どもか、といった区別で分類され、「資本主義の象徴」である都市から地方に移され、農業に従事することになった。
その際、過去の記憶につながるような所有物は捨てることを強要され、個人で持てるのはスプーン一つとなった。「知識」はクメール・ルージュにとって憎悪の対象で、わずかでもその片鱗を覗かせた者は人知れず連れ去られ、拷問され殺害された。さらに、飢餓でも多くの人が死んだ。

こうした恐ろしい政治体制は、カンボジアだけでなく、中国の文化大革命や北朝鮮、さらには最近のイスラム武装勢力とも似通った性質を持っている。
アジアは共産主義の狂気を増幅させる。
梅原猛氏の新聞連載で、手塚治虫の『火の鳥』に対し「これはヒューマニズムではない(が凄い思想である)」と。
手塚マンガは、決して人間中心ではない。生物も、無生物も、万物は流転するという世界観。
唯一絶対神にすがり、現世利益を追求し、自殺を罪悪視するユダヤ/キリスト教からすると、輪廻や解脱といった、個人の自我を否定する考え方を含む仏教はニヒリズムであるということになる。

西洋文明と東洋文明には「水と油」なところがある。
西洋文明の実用主義の部分と、東洋文明の「個性の違いなんて無駄なことだ」という虚無主義の部分が出会うところに、若き日共産党で組織論だけを学んだナベツネがあり、毛沢東や金日成やポル・ポトがあるのだと思う。
映画では淡々と語られるが、当時カンボジアを覆った狂気は、アウシュビッツ級に抜きん出た異常性であると同時に、われわれの悪しき部分の鏡であり、人類が決して忘れてはならない記憶遺産であるといえよう–
コメント
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