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Nowhere women

2005-08-30 17:50:46 | 読書
女という病

新潮社

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『女という病』中村うさぎ(新潮社)
“女の自意識は、それ自体、病である”そして、女の病気は女にしか分からない…
「ニセ有栖川宮妃」「保育園長の園児虐待・殺害」「赤い自転車連続通り魔」21世紀ニッポンの闇の中から噴出した13の女たちの事件を、中村うさぎが読み解く…

当ブログを開始して1周年の投稿に、その文体においても生き方においても最もリスペクトする中村うさぎ先生の著書について書けることをうれしく思う。
本書でのうさぎ先生の思考の深さ、各事件について客観性も忘れずに想像力・創造力をはばたかせる文章の冴えに感銘を受けた。
いくつか引用してみると、「“有栖川宮妃”のファーストクラス」では坂本晴美が15歳の時にエホバの証人に入信したことについて「彼女の入信の動機が必ずしも“精神的価値”の希求ではなかったことを証明するのが、“ミスコン”出場である。18歳の時に彼女は“ミス・インターナショナル熊本地区予選大会”に出場し、準ミスに入賞するのだ。クリスチャンとしての価値観と“ミスコン”に出場するメンタリティとの間に、私は多少の違和感を覚えずにはいられない。ゆえに彼女の信仰はキリスト教が持つ独特の“選民意識”に惹かれたものであり、ミスコン出場もまた、別の形で自分が“選ばれし者”であることを確認する行為であったのではないか、と考えずにはいられないのである」
「青木ヶ原樹海から出てきた女」では「“物語への希求”そのものは、大人になった私たちの中にも、形を変えて存在している。“私の物語”なんて欲しくないわ、と言い切れる人間がいるだろうか。クライマックスもなく凡庸で味気ない平坦な人生で満足よ、などと言い切れる人間が、どれほどいるだろうか。私たちは間違いなく“物語”を欲している。“私の物語”に満足できないから、テレビや活字で“他人の物語”を消費し、その賑々しく虚構に満ちた物語に刺激されて、ますます“私の物語”がみすぼらしく思えてくる、という“物語探し”と“物語消費”の永久連鎖の中で生きているのではないか」
「バービー・ナルシシズムが生んだ狂気」では「私はお人形のように綺麗だから、お人形のようにファンタジックなドレスを着るの…伊田の自意識は、小学生の頃からずっと変わらず、大人になっても少しも成長しなかったのである。それは、とりもなおさず、彼女の世界に他者がいなかったからではないか。人間は、他者を通して自分を発見し、成長していく。いわば、人の成熟度は、その客観性の高さに比例するのである」といった具合だが、印象的なのは、桐野夏生さんが現実の事件を冷徹に対象化して、やや強引に物語世界を構築している姿勢に比べ、うさぎ先生が事件の当事者に自らを重ね合わせて寄り添うように想像していく、その祈りにも似た姿勢である。
まえがきを読んだ段階では、自意識の男女差というのはそれほどあるのかと懐疑的であったが、あとがきを読む頃には、その業の深さに圧倒されてしまった。
ただ、男性でも太宰治や尾崎豊のように病的な自己陶酔の果てに破滅してしまうタイプがいて、うさぎ先生は太宰のナルシシズムをかなり嫌っているようである。

1年間書いてきて思うのは、「書く」という行為そのものが思考を深めて文章を彫琢していくように作用する、ということ。
自画自賛になってしまうが、毎日のように書いてこなければ、23日のサラ金広告についての文章にはたどり着けなかった。
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