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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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牧師・余白余録 

2017年10月18日 05時13分49秒 | メッセージ
喜悦の盈満  蔦田二雄著  PP75,76
 
聖書の有機性

 次にもう一つの事実に触れておく。聖書の始めの旧約の部分は、後に書かれる新約の部分を計算に入れて、その準備的先行的な意味合い帯びつつ綴られていると考えることは困難ではない。私たちが文章を書く時でも、結論を頭に入れて書くのと同じである。これを聖書の有機性という。
 旧約の記事は、後からくる新約に盛られる出来事や真理を加算し、望見しながら、預言的な性質を帯び、予言的な意味合いを含んで書かれている場合が非常に多い。さきほど説明し出エジプトの出来事も、40年の荒野の歴史も、単に過去あった出来事の記録として記されているものではないということを知らなければならない。聖書が単なる歴史書ではないと言われるには理由があるのである。世の中の歴史にはそういう意味がない。例えば旧約にある昔の記事には、その中に指差されている、やがて来るべき出来事に、知らされるべき真理なりに対する予表、または予言的な意味が全部含まれているのである。であるから、贖いの日に祭司が行った行事もその服装も、ただ昔そう言う行事をしたという記録のために記録してあるのではない。それはやがて新約において成就される、完全な真理の予表、シンボルとして行われているのだということを知らなければならない。こう言う聖書観を持つことは、聖書を正しく立体的に理解するために非常に大切である。でないと、旧約はユダヤ的なものだからいらない、新約だけでいいのだ、などというようなことになってくる。新約の本当の意味を立体的にとらえようとすると、どうしても旧約の知識や理解が必要になって来る。(続く)