取り替えられた人生 ―J・ハドソン・テーラー
こらえ切れなくなって私は、テーラー氏に向かい、『私は書斎におり、あなたは大きな客間においでになるようです』と言ったものである。『あなたは何百人と言う人たちのために忙しくしておいでになります。私はただ何十人かを相手にしています。あなたの手紙は重要な差し迫ったものであり、私の書くものはそんなにたいしたものではありません。それなのに私は心を煩わせて、押しつぶされそうになっており、あなたはいつも平然としておられます。いったい何が原因でこれほど違っているのでしょう』。
すると彼は、静かに答えた。『マカートニーさん、あなたのおっしゃる平安は、私の場合、幸いな特権以上のものです。これは全く必要なものです。私をささえられる全ての理解を越えた神の平安がなくては、私はとてもするべき仕事をやり遂げることはできないのです』。
… 私はこのことに非常に深い感銘を受けた。60才になろうとしているこの人が、非常な重荷を負いながらも、完全に平静であり、心を煩わせることを全く知らない。山のように積まれた手紙!この中に死の知らせ、基金の欠乏、暴動、その他さまざまの深刻な問題が書いてないとは言えない。それなのにこの人はすべてを開封して、すべてを同じ平静さをもって読み、静かに返事をしたためている。キリストこそ、彼の平安の理由であり、彼の静けさの力であった。彼はキリストのうちに住んで、いろいろな問題について主の臨在を力に頼り、それらの問題の中から主ご自身にたよっていたのだ。これらのすべてのことを、彼は信仰の態度をもってなした。それはいつも変わりないことであったと同時に、まことに単純なことでもあった。
彼には幸いな自由さと、自然さとがあった。『神にうちに』という聖書の表現のほかに、これを説明するのに適切なことばは見当たらない。いつでも彼は神にうちにあり、神は彼のうちにあった。それはヨハネによる福音書15章の主に『つながっている』ことの真の姿であった。
V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。
A.O