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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
 TEL 028-621-8661 ※24時間対応しております

牧師・ミ ニ チャーチ集会(兼祈祷会)(要約)

2014年09月30日 05時04分53秒 | メッセージ
・祈りの諸課題の祈祷
・聖書:主牧 詩篇118篇13節
隅の親石を土台と始めにおいて神殿や家屋は建てられた。キリストは最重要な「石」は知らないために捨てられたが、教会の礎とされた。私たちは世から評価されないでいる中で、神に評価されていることを知るのです。

牧師・礼拝説教(要約)

2014年09月29日 05時44分03秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 9月 21日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 詩篇92篇1~15節
・説教題 年老いてもなお
▼正しい者の幸い
1節~3節。朝ごとに、夜ごとに感謝と賛美の恵み。朝に、夜ごとに賛美は十弦の琴や立琴によるたえなる調べに合わせて。殊にこれは安息日のための歌であり、とても幸いな生涯の喜びが顕れています。主イエスの教会に居るのは悪の天幕にいるのに比べ物にならないほど、祝福された生涯ですね、詩篇84:10
 4、5節。私になさった神の御手のなさったこと、それは大きい。御計らいは、いとも深いのです。
▼これに対して、悪者の気の毒さ6~9節
6節「まぬめ者」、「愚か者にはこれがわかりません」神の愛と恵みの道を何らかの形で見、知っているのに、侮り、妨害さえしてきた方々は、神の御目からは、まぬけ者であり、愚かでしかありません。7節「青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。」
 私たちが、今日まで、殊に主を信じてから、どれだけ、悲しみ憂い、傷つき苦しんだことでしょうか。しかし厳粛なことは、私たちの分を越えて、神が裁かれることなのです。
▼10~15節。悪者たちのため忍び、耐え、祈り、善を施しましたが、その中で神は、私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油を注がれました。「私に立ち向かう悪人どもの悲鳴を聞きます。」と。
 私たちは年老いても、13~15節、神の大庭で栄え、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」と。
▼私たちは、主イエスを信じて若々しくいることができる。年老いても、実を結ぶことができる。体はたとえ衰えても、病を持ったとしても、魂と心は実を実らせていただくことを願いましょう。
①家族が、神と人とに仕えることが分かり、それが当然の願いとされるように。
②死と神の裁きに何の備えが出来ていない方々のために。
③自分は苦しい状況にあってもいつも主による平安と愛があるよう、造られてまいりましょう。
▼年老いても、若く、実を結ぶ者とさせていただきたい。

牧師・エッセイ

2014年09月28日 14時41分54秒 | メッセージ
『主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない。恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。』(箴言16章5、6節)

祈 り 
☆先週礼拝に市内立伏(りゅうぶく)町(グリンタウン)から初来会されたご家族を歓迎いたしました。公園CS後、主牧の礼状を携え、CS担当者が同家を訪問しました。
☆会員関係者が来会され感謝でした。
☆9月23日、大宮教会での役員研修会に牧師夫妻他、会員4名が出席し恵みを受けました。
☆21日午後の鹿沼定期演奏会は、とても素晴らしいものでした。当教会からは9名ほど出席、感謝しました。

♪今週半ばの集会♪
9月30日(火)聖書に学ぶ会     10:30~
10月4日 (土) 公園CS       15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」』(創世記12章1節)祝福してくださる神を信頼して生きることを学びました。

ガーデンスポット
刈り入れされた稲田

次聖日の礼拝説教  創世記22章6~14節『イサクの献身』

人生のかぎ

2014年09月27日 04時42分07秒 | メッセージ
取り替えられた人生  ―J・ハドソン・テーラー
 マカートニー師がここで、全ての人に対して次のような勧告をつけ加えたのには、相応の理由があった。「急ぎあわて、失望の淵に浮いている時、見上げなさい。栄光の中にいます方を見なさい。イエスの御顔の輝きに照らされなさい―主イエス・キリストの御顔を仰ぎ見なさい。主は心を煩わせ、心配し、また、悩み疲れておられますか。主の眉間にしわは無く、思い煩いの影はいささかもありません。しかも、あなたの直面するような問題は主のものでもあるのです。」
 現実に「飽くことがない」のが、いのちの水をたっぷりと飲むたましいであるように、豊かに実るのは、主にあるいのちである。キリストにあるいのちは、つながっているいのちであり、いよいよ豊かに増すいのちである。満足を与えるものであり、あふれ流れるものである。ハドソン・テーラーにとって経験によって明らかに知った聖書の真理を表現するのは、ハリエット・ピーチャー・ストウの書いた小冊子「キリストに根ざして生きる法」にあることばが、最も最適であった。彼はこの本をミッションのひとりひとりに送ったのであった。ストウ夫人の言うところの一部は次のとおりである。
「枝はどのようにして実を結ぶのであろうか。日光や空気を求めて絶えず努力することではなく、花に美しさを加え、葉に緑を加えるためのいのちを盛んにする力を求めて、むだな努力をすることでもない。それは妨げられることのない結びつきにおいて、静かにぶどうの木につながっているだけである。花や実は自然の生長の結果として表れてくる。
V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―
より引用しました。A.O

カテキズム(教理問答)

2014年09月26日 04時54分59秒 | メッセージ
【世の終末】
問87 さばきの後、世界はどうなりますか。 
   新しい地と新しい天が現れます。
聖書 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(ヨハネの黙示録21章1節)

インマヌエル少年文庫5  カテキズム(教理問答)より引用しました。A.O

聖書、神様について知りたい方は教会の門をたたいてください。
教会は毎週日曜日:10:30~礼拝、火曜日:10:30~聖書に学ぶ会、
木曜日:11:00~ミニチャーチ集会で
聖書からお話をしております。

牧師・聖書に学ぶ会(要約)

2014年09月25日 05時15分26秒 | メッセージ
・聖書の個所 マルコ2:3ー12
2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。

<中風をわずらっている人>
その友人4人に床のまま担がれて、天上から降ろされ、キリストの許へ

牧師・余白余録

2014年09月24日 05時21分42秒 | メッセージ
パゼット・ウイルクス著「救霊の動力」恐怖の奴隷より PP.67,68
「恐怖は二つの異なった形において現れる。1.迷信。信仰を変えることからの悪い結果を恐れること。2.人を恐れること。この二つの間には区別がある。第一のものは驚くほど深い位置を占めていて、キリスト者の心の中にすら、そのような疑惑を持つものがある。異教との心の中にはこれが実に金城鉄壁のようにかまえている。意志の力をもってこの不思議な迷信を破壊してしまうことはほとんど不可能である。このような困難に遭遇するとき、ただ祈りと神のことばによってのみ、彼らのかせを砕くことができることを発見する。わたしたちは、これが地獄において鍛え上げられたもので、人の心をとりこにする最も力強い武器であることを覚えておく必要がある。先ごろ信仰に入ったばかりのひとりのキリスト者が自分のいっさいの事業で失敗をした。神がすべてを破壊されてしまうかに見えた。わたしは彼の妻に、その失敗の理由は明白で、「まず神の国と義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ6:33)とのみことばに従わないためだと説明した。彼女は答えた。それは「本当だと思います。わたしもそう話したのですが、主人はやはり親戚の人の言うように、先祖の神を捨てたたたりだと考えているようなのです」と。「異教徒は物質を先に求めて成功するかも知れない。しかし神は、キリスト者に神をはずかしめることを許されない。神は彼らが『まず神の国』を学ぶようになるまで、すべての企てをいっさいさえぎってしまわれたのだということを語った。しかし彼は容易に承服しなかった。」


牧師・礼拝説教(要約)

2014年09月22日 05時25分46秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 9月 14日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 列王第二 4章1~7節
・説教題 器は油に満ちた
▼列王第一はソロモン王の治世40年間のできごと。空前絶後の繁栄した後、最後には堕落し王国が分裂した後の80年間のことが記されています。列王第二の内容は、南と北王国の相互年代と南王国の年代記です。エリヤとエリシャは預言者で紀元前850年前後に活動した。両者は奇蹟をした。エリシャの奇蹟①.ヨルダン川が分かれる2②エリコで水源がきよめられる③やもめの油が増える ④死んだ少年が生き返る⑤煮物の中の毒がきよめられる ⑥預言者の食物が増える ⑦ナアマンのツァラアトが癒される ⑧ゲハジがツァラアトに冒される⑨斧の頭が浮かぶ ⑩アラムの軍の目が見えなくなる。
両者は北王国を担当していて、当時の神学校を指導していた。時代背景は、北も南も周辺民族の偶像に染まり、王が神に忠実な何人かが南に入りましたが、北はほとんど無かったと言えます。
▼彼らからの教訓は、王、指導者、知識者、殊に宗教者が、神から離れたら堕落しついには、民族も滅亡させられるということです。
▼エリシャがある日、夫が死に、未亡人に会いました。未亡人と子供は生活能力を失い、その上、借金があり、「貸し主が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」とエリシャに訴えたのです。身につまされるかわいそうな出来事です。エリシャは油が残っているのを聞いて、油を入れる容器をできおるだけ多く近所から借りて、それをいっぱいに増やして、売ってお金に換え、返済とその残りであなたとあなたの子どもたちは暮らしていけますと。それを可能にした奇跡が起こりました。元種は油の壺一つに残るわずかの油。
▼なぜエリシャはそんなことが出来たのでしょうか。神が同情して、エリシャに働き、不思議をさせたからです。主イエスは5つのパンと2匹の魚から5000人の給食をなさいました。手元から不思議と出てまいりました。奇蹟は手品ではなく本物です。私たちはゼロから土地や会堂を、皆様の細い手を通して立てることができました。皆様や牧師たちも決して飢え、借金がどうしようとせっぱ詰まったことはなくもないですが、今日まで過ごせたのは、生きた証ではないでしょうか。
▼「空の油の壺」を主イエスさまに訴え、奇蹟を待ちましょう。

牧師・エッセイ

2014年09月21日 18時47分06秒 | メッセージ
『 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。主はすべてのものをご計画の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。』 (箴言16章3、4節)

祈 り 
☆先週礼拝には他教会の兄弟姉妹、御家族、愛老の方々が出席され、歓迎いたしました。
☆先週礼拝後、愛老会が開かれました。昼食、手づくり和菓子、各種の出し物でなどで恵みの時でした。
※今週の聖書に学ぶ会は役員研修会で休止。
☆教会学校案内チラシを豊郷中央小の下校時に教会前で配られました。来会者がありましたら、温かく歓迎しましょう。


♪今週半ばの集会♪
9月23日(火)大宮教会で役員研修会
9月25日(木)ミニチャーチ集会   11:00~
9月27日 (土) 公園CS       15:00~ ニュー富士見ヶ丘2号児童公園
9月25日の集会の場所については教会にお問い合わせください。
教会028(621)8661

教会学校金言☞ 『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』(ヤコブの手紙4章6節) 人の限界を知り、力ある神を見上げて歩む者となることを学びました。

ガーデンスポット
稲刈り時の稲穂  萩  すすき

次聖日の礼拝説教  コリント人への手紙第一 13章1~13節『愛に生きる』

人生のかぎ

2014年09月20日 05時44分41秒 | メッセージ
取り替えられた人生  ―J・ハドソン・テーラー
  こらえ切れなくなって私は、テーラー氏に向かい、『私は書斎におり、あなたは大きな客間においでになるようです』と言ったものである。『あなたは何百人と言う人たちのために忙しくしておいでになります。私はただ何十人かを相手にしています。あなたの手紙は重要な差し迫ったものであり、私の書くものはそんなにたいしたものではありません。それなのに私は心を煩わせて、押しつぶされそうになっており、あなたはいつも平然としておられます。いったい何が原因でこれほど違っているのでしょう』。
 すると彼は、静かに答えた。『マカートニーさん、あなたのおっしゃる平安は、私の場合、幸いな特権以上のものです。これは全く必要なものです。私をささえられる全ての理解を越えた神の平安がなくては、私はとてもするべき仕事をやり遂げることはできないのです』。
… 私はこのことに非常に深い感銘を受けた。60才になろうとしているこの人が、非常な重荷を負いながらも、完全に平静であり、心を煩わせることを全く知らない。山のように積まれた手紙!この中に死の知らせ、基金の欠乏、暴動、その他さまざまの深刻な問題が書いてないとは言えない。それなのにこの人はすべてを開封して、すべてを同じ平静さをもって読み、静かに返事をしたためている。キリストこそ、彼の平安の理由であり、彼の静けさの力であった。彼はキリストのうちに住んで、いろいろな問題について主の臨在を力に頼り、それらの問題の中から主ご自身にたよっていたのだ。これらのすべてのことを、彼は信仰の態度をもってなした。それはいつも変わりないことであったと同時に、まことに単純なことでもあった。
 彼には幸いな自由さと、自然さとがあった。『神にうちに』という聖書の表現のほかに、これを説明するのに適切なことばは見当たらない。いつでも彼は神にうちにあり、神は彼のうちにあった。それはヨハネによる福音書15章の主に『つながっている』ことの真の姿であった。

V・レイモンド・エドマン著『人生のかぎ』―信仰生活に秘訣を見いだした人々―より引用しました。A.O