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エルナン・コルテス・・・アステカ帝国の征服者(1)

2014年12月28日 | 好きな歌

エルナン・コルテス

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エルナン・コルテス
エルナン・コルテス
生誕 Hernán Cortés de Monroy y Pizarro
1485年
メデジンカスティーリャ王国
死没 1547年12月2日
カスティジェッハ・デ・ラ・クエスタスペイン王国
職業 コンキスタドール
著名な実績 アステカ帝国の征服
署名

初代バジェ・デ・オアハカ侯爵英語版エルナン・コルテス・デ・モンロイ・イ・ピサロスペイン語: Hernán Cortés de Monroy y Pizarro, 1485年-1547年12月2日)は、スペインコンキスタドールメキシコ高原にあったアステカ帝国を征服した。

1992年から2002年ユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1,000ペセタ紙幣の表面に肖像が使用されていた[1]

 

 

 

生涯[編集]

前半生[編集]

1485年、現在のエストレマドゥーラ地方メデジンにて生まれる。イスパニョーラ島の統治者であったニコラス・デ・オバンドの遠戚にあたる。

はじめ法律家を目指しサラマンカ大学に通ったがかなえられなかった。

当初、遠戚であったニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスが大怪我をしたためかなえられなかった。その後、スペイン南部のカディスセビリアパロスなどで、新大陸から帰還した者の当地での発見、征服、金、原住民などの話を聞くなどして、見聞を広めた。

新大陸へ[編集]

1504年アロンソ・キンテーロ (Alonso Quintero) が率いる船で、イスパニョーラ島に渡り植民者となった。キンテーロが、第一発見者になるために取ったライバルを騙したり欺いたりする手法は、コルテスが新大陸でその後取った手法に少なからず影響を与えた。18歳のコルテスは、イスパニョーラ島の首都サント・ドミンゴで市民登録をして、建物を建てたり土地を耕したりする権利を得た。程なくして、統治者のニコラス・デ・オバンドがコルテスにエンコミエンダ制の権益を与え、彼をアスーア・デ・コンポステーラ (Azua de Compostela) の町の公証人にした。その後5年間、コルテスは植民地での地位の確立のために働いた。1506年、コルテスはイスパニョーラ島とキューバの遠征に参加し、多くの不動産とインディアンの奴隷を獲得した。

1511年、コルテスはディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ征服に参加した。その結果ベラスケスは、キューバの統治者となった。ベラスケスはキューバ支配におけるコルテスの働きに感心していた。コルテスの勇猛果敢なリーダーとして名声は、その後も続いた。そしてコルテスはベラスケスの秘書官となった。キューバにおいてコルテスはエンコミンダ制による収益や鉱山、牧畜などで生計を建てていた。秘書官としての地位により、彼は指導力も得た。1514年、コルテスは、労働力としてさらなる原住民の割当を要求していたグループのリーダーとなっていた。

アステカ征服[編集]

 
コルテスの征服路

時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。 1519年、コルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、ヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラの族長の娘マリンチェと出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。同年8月、メキシコ湾岸にベラクルス市を建設する[2]と、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった[3]。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。[4]

インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします」と言って丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。

弱腰を貴族たちに責められたモクテスマ2世が、前言を翻してスペイン人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。

コルテスはベラクルスでパンフィロ・デ・ナルバエスに率いられたキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れインディオを引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。しかしこのとき、兵120名とともに留守を任されていたペドロ・デ・アルバラードたちが祭典中のアステカ人たちを虐殺し、激怒したアステカ人たちは反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちをモクテスマ2世に説得させようとしたが、激怒した市民によってモクテスマ2世は殺され、6月30日には暴動はさらに拡大して、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。この事件はスペイン側からは「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」と呼ばれ、約1,000名のスペイン人が死亡した[5]

アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。

1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。

征服後[編集]

アステカを征服すると、コルテスは征服した土地を部下に分け与え、自らも広大な土地を手に入れた。これにより、旧アステカにもエンコミエンダ制が大々的に成立することとなった。1523年、コルテスはカルロス1世(カール5世)から総督に任命されカリフォルニア南部を探検した。同時に、ホンジェラスやニカラグアへ遠征隊を派遣した。入植者たちは、広大な土地を与えられ、労働力としてインディオたちを金山や銀山で強制労働させ、奴隷として扱った[6]

1524年ホンジュラスのスペイン併合を宣言。

1525年2月26日、反乱を企てたとの疑いにより、クアウテモックを絞首刑に処した。この瞬間アステカは滅亡し、メキシコはスペインに併合された。

1527年にスペインに一時帰国し、1529年、バジェ・デ・オアハカ侯爵に封ぜられる。1530年にはメキシコに戻り、大エンコメンデロとして富を築いた。

1532年から1536年まで、バハ・カリフォルニア半島の調査を命じられる。1539年に、カリフォルニア半島の存在を確認した。

1540年、スペインに帰国。総督への再任を請願するも、却下される。1541年にはカール5世のアルジェ遠征に参加した。

1547年12月2日、セビーリャ近くのカスティリェハ・デ・ラ・クエスタにて、62歳で死去。遺体は遺言により、メキシコシティと改称したテノチティトランに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬された。

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