海賊について学んでいます。
ウィキペディアなどで調べていますが、すこし難解な箇所もあります。
そこで、ネットで公開されているサイトを探しています。
その幾つかをご報告します。
カリブ最強の海賊 - ナショナル ジオグラフィック日本版
http://nationalgeographic.jp/nng/feature/0608/index5.shtml
海岸の遊歩道にしつらえた手術台で、18世紀風のぼろ布をまとった海賊が、今にも片脚を切り落とされようとしている。ここは米国バージニア州の港町、ハンプトン。うだるような6月の午後、哀れな海賊が屈強な仲間4人に押さえつけられ、悲鳴を上げて身をよじると、見物客は大喜びだ。傷めた足がのこぎりで“切断”されると、木製の義足がくくりつけられる。次の瞬間、血の色をした飾り帯を締めた黒ひげの男が、芝生の向こうから悠然と姿を現した。男は赤ん坊を連れた若い母親をぎょろ目でにらみ、「こりゃかわいいや」と砲声のようなだみ声を上げる。「赤ん坊のほうも悪くねえな」
この黒ひげの男は、ハンプトンで毎年開催される「黒ひげ祭」の主役。こわもての海賊「黒ひげ」は、『ピーター・パン』のフック船長や『宝島』に出てくる一本足の海賊ジョン・シルバーのモデルとされている。映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』で海賊を演じるジョニー・デップや、黒ひげ祭で主役を務めるベン・チェリーのおかげで、昨今ますます人気が高まっている。
海賊物語
http://taleofpirates.info/
目次
海の王者達の夢と現実
人の命を脅かし、暴力によって略奪する彼らは完全な「悪」であるにもかかわらず人間社会の様々な軋轢から解き放たれた彼らの生き様は時として痛快でロマンや憧れさえ抱かせます。
海賊に関する伝説は世界各地で伝わり、小説が書かれ、現代でもアニメの「ONEPIECE」や映画の「パイレーツオブカリビアン」など大人気です。
古くから人々を魅了する海賊達を様々な角度から検証し「ワンピース」などフィクションの海賊との共通点も考えてみたいと思います。
また大航海時代との密接な関係も考えていきます。
皆さんも海賊の世界を少しだけ覗いてみてください・・・・・
海賊の起源
海賊の起源は?
と問われたら「よくわからない」が正解だと思います。
人間が船を使って物資の輸送を開始すると同時に、自然発生的にそれを奪おうとする者(海賊)が出現したのですから。
神話の世界にも海賊は登場します。
酒の神ディオニュソスが海岸で寝そべっていると海賊達が何処かの王子と勘違いしてディオニュソスを船に拉致してしまいます。
すると船は突然葡萄のツルに覆われ動かなくなり、ディオニュソスは獅子に変身しま
す。
恐れおののき海に飛び込んだ海賊達はイルカに姿を変え、それ以後ポセイドンの寵愛を受ける事になりました。
神を誘拐した海賊が何故ポセイドンに寵愛を受けるのか?よくわかりませんが、神話ってすべからく理不尽なので、気にしないで読み流して下さい^^;
海に繰り出すと言う事は命がけです。
その勇気が称えられ海賊に限らず全ての船乗りは神の寵愛をうける対象だったのかもしれません。
古代ギリシャに存在した海賊の多くは、農業の事は全く知らず狩猟と海賊行為(掠奪)によって暮らしていました。
彼らにとって海賊行為は生きていく為の手段であり狩猟や漁と何ら変わりはなく、狩りの相手が動物か?人間か?だけの違いです。
したがって海賊行為そのものは「善悪」というものさしで計るような事ではありませんでした。
しかし次第に人々の考え方が変わって行き、個人的利益を得るための海賊行為は非難の対象とされるようになって行きます。
沿岸地域に大きな都市が形成されると周辺都市との海上貿易も盛んになり、必然的に海賊も増えてしまいますので、安全な海であることをのぞむ各国家(都市)は海の治安に力を注ぐようになり、海賊の討伐は国家の責任・君主の務めであるという考え方に変わっていったのです。
しかし、小さな都市国家がどれほど海賊対策に力を入れようが、次から次へと発生する海賊達を根絶するには至りません。
それどころか都市自体が生きる為に他の都市を襲いあう、いわば慢性的な戦争状態となり、海上にもその都市の海軍なのか海賊なのか判断できない船団が入り乱れ、海上の治安はメチャメチャになります。
海賊年表(もくじ)
当サイトで紹介する海賊達の実働期間を上から古い順に(生誕・没ではありません)
(文字がピンクは女海賊)
活動海域 | 海賊実働期間 | |
地中海 | 紀元前480年 | アルテミシア |
北海・バルト海 | 5世紀 | アルヴィダ |
北海・バルト海 | ~879 | リューリク |
アジア | ~941 | 藤原純友(ふじわらのすみとも) |
北海・バルト海 | ~1401 | クラウス・シュテルテベーカー |
地中海 | ~1518 | バルバロッサ・ウルージ |
地中海 | ~1546 | バルバロッサ・ハイレディン |
地中海 | 1500~1565 | ドラグト・レイス |
アジア | ~1588 | 村上武吉(むらかみたけよし) |
広域 | 1562~1595 | ジョン・ホーキンス |
広域 | 1568~1596 | フランシス・ドレーク |
北海・バルト海 | ~1603 | グレイス・オマリー |
地中海 | ~1622 | ジョン・ウォード |
カリブ海 | 不明(1636生まれ) | シャーロット・デ・ベリー |
カリブ海 | 1655~1688 | ヘンリー・モーガン |
カリブ海 | ~1675 | ロッシュ・ブラジリアーノ |
カリブ海 | 1670~1686 | ミシェル・ド・グラモン |
インド洋 | 1689~1701 | ウィリアム・キッド |
カリブ海 | ~1707 | ダニエル・モンバール |
北海・バルト海 | 1691~1714 | ルネ・デュゲ=トルアン |
インド洋 | 1694~ | ジョン・エイヴァリ |
インド洋 | 17世紀後半~ | ミッソン |
カリブ海 | 1716~1717 | サミュエル・ベラミー |
カリブ海 | 1716~1717 | ジョン・キング |
カリブ海 | 1716~1718 | エドワード・ティーチ |
カリブ海 | 1717~1718 | スティード・ボネット |
カリブ海 | 1718~1720 | ジョン・ラカム |
カリブ海 | 1719~1720 | アン・ボニー |
カリブ海 | 1719~1720 | メアリー・リード |
インド洋 | ~1720 | エドワード・イングランド |
広域 | 1719~1722 | バーソロミュー・ロバーツ |
カリブ海 | ~1724 | フランシス・ロロノア |
カリブ海 | ~1724 | エドワード・ロウ |
アジア | 1801~1810 | 張保仔(チャン・パオ・チャイ) |
カリブ海 | 1818~1825 | ロベルト・コフレシ |
カリブ海 | ~1826 | ジャン・ラフィット |
アジア | ~1851 | 徐亞保(チュイ・アプー) |
ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマによって開拓された欧州とインドを結ぶ航路は欧州に大きな富をもたらしましたが、このインド航路は海賊たちにも大きな富を生む巨大な狩場となっていったのでした。
しかしカリブ海に比べると海賊史上に残るような大海賊は多くはありません。
その理由のひとつとしてインド洋上には海賊が堂々と振舞えるような都市が無かったことが挙げられます。
海賊といえども船の修理等や物資の補給が出来る拠点が必要ですから。
その点で、ポートロイヤルなどの拠点を足がかりに好き勝手に大暴れしたカリブの海賊とは一味違うタイプの海賊が多いです。
それでも、この海で名を上げた海賊はいます。
色々な意味で少々特殊な海賊達ではありますが・・・・・・。
ウィリアム・キッド
「キャプテン・キッド」として世界中に名前が通った有名な海賊だが、彼ほど伝説と実情がかけ離れた海賊も珍しい。
自らは海賊になる気などなかったのに気づいたら海賊船の船長になっていたという勇猛果敢な海賊のイメージにはそぐわない極めて普通の男だった。
海での生活に憧れて私掠船としての活動を願い出て許され、西インド諸島で私掠船の船長として活動をはじめたものの、1691年、部下のロバート・カリファドらに反乱を起こされ、島に置き去りにされてしまう。
キッドは私掠船の船長として真面目?に許された私掠行為(敵国の船のみを襲う)をしようとしたがカリファドら一派は、元々海賊なのでもっと自由な掠奪活動がしたかったのだ。
その後キッドはなんとか島から脱出し、ニューヨークで結婚し安定した生活を手に入れるが、どうしても海が忘れられず1696年の春、ロンドンに赴き、再び私掠船の免許証を手に入れようと尽力した。
ちょうどイギリスが国家を挙げて海賊の取り締まりに乗り出し始めたころだったので「貿易を阻害する海賊を捕らえる」ことと「敵国であるフランス船の拿捕」を国王ウイリアム3世から許されアドベンチャー・ギャレー号に乗り込んでインド洋へと出航した。
しかし、前述したとおりイギリスは国家を挙げて海軍の増強を進めていたので、優秀な水夫は水兵強制徴募隊でほとんど軍に持って行かれ、その結果、集まった船員は一般の船乗りではなく海賊出身者がほとんどになってしまう。
欧州からインド洋に向かうまでにコレラ等の伝染病もあって多くの死者を出し、その都度船員を補充するが、やはり集まるのは海賊出身者ばかりで、気づいたらボスのキッド以外は全員が海賊となっていた。
キッドはあくまでも許された掠奪に拘るが、部下達にそんな思いは全くない。
目の前に商船が現れればキッドの制止を無視して勝手に襲撃を始める始末だった。
船長と部下の思いが食い違ったまま数年海をさまよい続けたが、キッドの前についに「獲物」が現れた。
フランスの通行証を持つクェダマーチャント号だ。
襲撃は成功し莫大なお宝を手に入れ意気揚々とセントメアリ島へと連れて行ったところ、偶然にも過去に自分を裏切ったカリファドの船が停泊していた。
現時点での戦力は完全に勝っており恨みを晴らすチャンスである。キッドは部下達に攻撃を命じたが、ここでまた部下達に裏切られる事になる・・・・
クェダマーチャント号から莫大なお宝を奪ったといっても、それは国王や出資者達のものであって乗組員たちは命を賭けたに見合うような報酬は受けておらず不満の方が大きかったのだろう。
まして元々海賊の部下達は同じ海賊仲間を攻撃するのは嫌だったのだ。
仕方なくクェダマーチャント号から奪ったお宝の一部を分け与え従わせようとしたが、部下達は分け前を貰ったとたん大半がカリファドの元に走ってしまったのである。
キッドは失意のうちにニューヨークへと向かったが、実はキッドがクェダマーチャント号を襲撃・掠奪したことで、ロンドンではキッドの首に賞金まで掛けられていた。
クェダマーチャント号は敵国フランスの通行許可証を使用しているといっても、持ち主はインドの商人、船長はイギリス人、士官はオランダ人という多国籍船だったことも災いしたのだろうか。
政治的な思惑もあって「東インドの疫病神」とまで言われていたキッドは最終的にボストンの友人に裏切られ逮捕されてしまう。
まともな裁判も受けさせてもらえず、キッドに有利な証拠は一切無視され1701年5月23日にロンドンのテムズ河で絞首刑に処された。
キッドの死体には腐って爛れ落ちないようタールが塗られ、鉄の輪にはめられ数年間テムズ河口にさらされていた。海賊達への見せしめのために。
正直言ってキッドは一流の大海賊とは言いがたい。そんな彼が、なぜ伝説の大海賊となりえたか?
それは彼の死に様があまりに哀れで、死後の扱いも衝撃的だったことと、もうひとつ宝島伝説によるところが大きい。
彼は処刑の前に「莫大な宝をある島に置いてきた」と訴えている。
結局無視され処刑されたが、この一言は作家達の創作意欲を大いに刺激し、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』やロバート・スチーブンソンの『宝島』などの名作がキッドをモデルに描かれている。
また後年、彼の活動拠点に近かったガーディナーズ島(ニューヨークのロング・アイランド島の東)や、カナダのオーク島で隠されていた財宝が見つかり「隠し財宝」伝説は世界中の冒険家たちにますます現実的な夢を与えたのだ。
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