不整脈のトラウマに打ち勝って明るく前向きに生きる男の顛末記

明るく前向きに生きることで
不整脈とQOLをコントロールした男の生きざまを描く

会津まつり2023 会津藩公行列

2023-09-30 09:08:44 | ニコンバカ一代福島支部



会津に移り住んで40年、初めて見てきた。
どのような体験であっても体験から学ぶことは多い。
自分自身の課題はもちろんだが、
それ即ち自己中の己の身の程も知ることになる。
 自堕落
 グータラ
 めんどくさがり屋
性分は変えられないから無理をする。

動画作りは好きだが、
動画を撮ってくるのはめんどくさい。

人はこれをジレンマと言う。

病に苦しんでる時は、この病が消えたらバラ色の人生が待っていると思うだろう。
だが、それは幻想だ。

自分自身には様々な限界がある。
体力や精神力はもちろんのことだが、己の性分が招く限界が最も厄介だ。
また、小説や映画のように技術や気力で時間の壁や物理法則を超えることもできない。

病が消え、新たな世界が切り開けても、
また別の何か。
己の力ではどうしようもないことが病に変わり己に立ちふさがるだけだ。

それは
  己の性分が呼び寄せる業であったり
  しがらみであったり

  老いによる衰えであったり
  新たな病であったり

大切なのは、
病で苦しんでた頃を忘れないことだ。

人は今を基準にしてどんどん欲深くなる。
あの地獄だった(と自分で思ってた)頃よりは全然マシではないか。



お囃子が流れ、多くの人の歓声がこだます
先人を偲び、尊び、その苦労とその後の繁栄に思いを馳せながら行進する人たち。
その姿を見ながら頭をよぎるのは、
討ち死にという自ら避けられる死に向かう時、人の心はどうなるのか?
それに比べればはるかに甘いが、己は残りの短い人生をどう生きるか?
ということだった。

自覚はないけど
病んでるんかな? (;^ω^)


よりよく生きるためには?

2023-09-24 06:08:47 | 人間学


自分は好き勝手に生きているぜ!。
そう思っている自分の行動であっても、
よくよく分析してみると自分以外の何かしらのしがらみの中で、
自分は自由に生きていると勘違いして生きていることに気づくだろう。

例えば、自分が行き先を決めて好き勝手に旅行をしている。
まさに自由意思で旅をしている。
本当に?
そう思える旅行ですら、実に多くのしがらみ(制約)の中で生み出された
妥協の産物である。

旅行について少し深く考えてみよう。
旅先は自分が何日休めるかで行ける距離が変わる。
己の懐具合でも同様だ。
どこまで行けるか?、どんな宿に泊まれるか?、どこを見て回るか?。
車がなければ、鉄道などの公共交通機関が通ってないところには行けないし
地球の反対側の外国に行ってみたいと思ってもそう簡単にはいかないだろう。
宿の定休日には泊まれないし、営業時間外の施設で遊ぶこともできない。
相当自由意思が働いてもよさそうな旅ですらこのザマである。
そんなの当たり前だろう!?。

よく言った!
自分の都合のいい時、都合のいい事については、その手のしがらみや制約は許容しているんだよ。
それが常識だとか、社会はそういうもんだとか、そういう屁理屈(もっともらしい)なり、
納得できるであろう理由をくっつけて、人類皆さん漏れなくね!。

おわかりかな。

生きていることでいろんなことが起きるが、
所詮はそれは許せるかどうか(Yes/Noを)自分で勝手に決めている。
自分の許せない誰か(あるいは何か)が自分の行動に制約を加えてきた瞬間、
それは自分にとって嫌なこと、やりたくないことに分類される。

まあ、一事が万事、その繰り返しである。

真面目な人ほど思い悩むことが増えるだろう。
義務感、罪悪感に苛まれ、嫌とは言えず、
やりたくないことに疑問を持ちながらもやり続けるしかない。
真面目な人ほど自分の人生ってなんだろう?、
生きるって何だろうと?と考えるはずだ。

だが、お釈迦様が仏の道の修業に至るまでの人生を、
是非本かなんかで読んで欲しい。
かの大賢人ですら逃げたのですよ(まあ、そういう言い方が正しいかは別として)。
また、弟子にはこう漏らしているそうだ。
この世で何が嫌かって、嫌いな人と居ることだねと。
かの大賢人ですら、しがらみにはうんざりしていたようなので、
まあ、我々凡人が悩み苦しむことは至極当たり前で、そこを問題にすることはない。


【よりよく生きるためのに】
旅行で起きる各種しがらみ(制約)は許容しているように、
最後は自分が許す・認めるしか手はないが、
そうはいってもどうしても許容できないこともあるよね。
とはいうものの選択肢は結局のところ以下のように集約される。

 嫌だと思うこと(人)を遠ざけるか?
 嫌だと思う気持ちの閾値を上げるか?
 嫌だと思うことを誰かに分け与えて自分の負担を減らすか?
 嫌だと思うことから見合った報酬を受け取れるようにするか?
 心を鬼にして(他人に何と言われようと)見捨てるか?
 自分の方が全てを打ち捨てて新たな人生を始めるか?
 それが自分が背負ったカルマなのだと諦めてしがらみの奴隷と化すか?
 生きることそのものを放棄するか?

だ~れもその答えは出せないんだよね。

だからこそ人は悩み苦しむのだが、
お釈迦様が悩みや苦しみから逃れる方法はコレだとこうおっしゃっている。

 すべては自分次第

どれを選んでも、それを選んだのは自分であり、
(それを選ばざるを得なかったとしても)自分が選んだのだから納得してやれば?。
 自分が選んだことに対してまで
 それが良かったのか悪かったのかを思い悩むから
 悩みや苦しみはいつまでもなくならないのだ
とね。

キツイ言い方だが、よりよく生きるとは、まあそういうことである。

そうは言っても気の持ちようで解決できるんなら誰も苦労はしない。
解決策はその辺の悩み事相談所で聞けるような安いのしかないのが現実なんだが、
 自分を分かってくれる友を見つける
 自分の話を聞いてくれる友を作る
 自分なりの発散方法を見つける
 自分が打ち込んでる間は全てを忘れることができる没頭できる趣味を見つける
 自分の逃げ場を作っておく
 イザとなったら何もかも打ち捨てる覚悟を持つ

誰もがやっている当たり前のことを当たり前にやって、
生きていくしかないのが、悟りを開けない凡人にできる最善の策。
なのではないかと思う次第である。
(まあ、そんな魔法みたいなのが簡単に見つけられるんだったら
 ただのサラリーマンで底辺付近を彷徨っているはずもないんだなぁ~ これが)


生きるとはなんなのか?

2023-09-20 05:10:50 | 人間学


前回までは父の死をきっかけに死について己が人生を振り返りながら考えてみた。
こんなことを言うと不快に思う人がいるかもしれないが死については割と単純だ。
死んだらどうなるのか?
魂はあるのかないのか?
死後の世界で己と言う人格を維持したまま(これを魂と呼ぶのだろうが)、
己が存在する世界が異なるだけで生前と同じように自分自身は存在するのか?
それともすべてが消え去り無に帰すのか?
議論はまずその二択から始まる。

だが、生きるとはなんなのか?と言う問いになると、
これはもう大変な事態になる。

生きるってどういうこと?。
この問いに誰もが納得するような明確な答えが出せる人はいるだろうか?。
いないんだな、それが。
かつて人類界には偉人というか大賢人というか、
その答えを見出したお偉いさんが幾人かはいた。
まあいわゆる宗教のお話に出てくるような人ね。
(その人物が実在していたかどうかはここでは問わない)

筆者は絶対神信仰は好きではないので、ここではお釈迦様の話をする。
お釈迦様は大変偉大な御方で生と死についての悟りを得た方なのだが、
それでもお釈迦様のおっしゃることがもっともだと信じてついていく人、
いわゆる仏教徒は4億人に届くかどうかで多くはない。
ちなみにキリスト教は23億人弱、イスラム教は14億人強、ヒンズー教は9億人、
無宗教も10億人近くいて、伝説になるような偉人・大賢人であっても
70億人誰もが納得できる真理を示せている人は一人もいない。
(ちなみに筆者は無宗教である)

お釈迦様の教えは精神的に軟弱になった現代人の方々には実は大変厳しいものだ。
 安全を保障しろ~
 危険だって知らせろ~
 非難しろって指示しろ~
自分の生死ですら誰かに教えてもらったり、指示してもらわねばダメな連中だらけになった人類。
(自らの命の危機を自ら判断できないってどういうことよ)
こういう連中は絶対神を信仰した方が良い。
すべては神の思し召し。
そう、何でも神のせいにできるよ。
いいことも悪いこともね。
自分は一切責任を取らなくていい。
自分は悪くないんだよ!。
何があってもね。
だって神様がそうなされたんですもの。
しゃ~ないよね。
例え選択を誤って自分が死んだとしても、死すら神の思し召しで済ませられる。
実に便利で身勝手な教えだ。
これを他因自果という。


一方、お釈迦様の教えをメチャクチャ簡単に要約すると

 すべては自分次第である

と解釈することができる。

例えば、嫌な奴に嫌なことを言われたとしよう。
自分がそいつを嫌な奴だと思うのも自分。
そいつが自分の嫌がることを言ってやがると思うのも自分。
これを自因自果というが
なんでもハラスメント時代にどっぷり浸かった現代人には、
到底受け入れられない教えだ。

筆者は仏教はそのうちなくなるのではないか?と危惧している。
自分以外の何かのせいにして生きるのは誰でもできるしその方が楽だ。
他人の行いのせいで被害を受けても、被害だと思っているのは己である。
なぁ~んてことを受け入れられる人はいまい。
だからこそ悟りが開けたのはお釈迦様と他に一部のお弟子さんだけなのだ。
そんな究極のお人好しになるようにしか思えない教えであるが、
生きることや死ぬことの苦しみから逃れられるのも、
世界から争いをなくすことができるのも、
唯一このお釈迦様の教えを実践できた者だけである。

だが、人を殺してお金儲けをする人間が牛耳る今の世では、
この教えを実践するものが増えたらたまったもんではない。
争いを絶やさないためには、
常に他人(他国・他宗教・他民族)のせいにさせ続けて、
まあ、お互いが破滅しない程度に憎しみ合い争い続けてもらわねば、
おまんまの食い上げになって困る。
ゆえに仏教が人類の信仰の主流になることはないし、
人が愚かになればなるほど、お釈迦様の教えは抹殺される可能性が高くなる。

理由は簡単だ。
絶対神信仰と独裁政治は実に相性がいい。
唯一無二の神。
の神の部分を独裁制の指導者の名前に書き換えればよい。
個々の国民一人一人にすべては己の中にある! 目覚めよ!
なぁ~んて教えが広まった日には独裁者にとっては悪夢だ。
国民はバカのままでよい。
神(独裁者)の思し召しなのだから何も考えず黙って従え。
てな具合にね。

仏教徒がどんどん減り続けているのは、
人類が陥っているある理由にあり、その流れはもう止められない。
もう一回バカ騒ぎをして大勢が死んで、その悲惨さにまた同じように反省するまでは。

お釈迦様については、ここではこれ以上触れないので、
興味のある方はお釈迦様に関する本を読み漁ってみるといい。
ただし、答えが見つかると思っている人は考えを改めねばならない。
答えは誰かに示されるものではなく自ら見つけるものだ。
お釈迦様の教えを簡単に言うと、まあ、そういうことである。



さて、最初の話に戻ろう。
生きるとはなんなのか?

生物学的な生死判定で言えば、自発呼吸の有無であるとか、脈があるとか、
瞳孔が開いていないとかであるが、そんなことは聞いていないよね。

ここで自問自答してほしいのだが、
生きているということを自分の自由意思で自由に動くことだと仮定した場合、
あなたが自分の自由意思で思い通りに動いている時間ってありますか?。
あったとしたら、その比率はどれくらい?。

例えば朝起きる時間。
365日すべての日で起床時間を自由意思に任せて起きていい日ってありますか?。
仕事のある日なら仕事に間に合う時間に起きてるだろう。
同じく朝昼晩のご飯を食べる時間も仕事の影響を大いに受けてるハズだ。
決して自由意思で好きな時間に飯が食えているわけではないだろう。

では仕事の影響を排除しよう。
花が好きなあなたは退職して1日中花のお世話をすることにした。
だが実際に365日1日中お世話ができるかというと、それは不可能だ。
まず生物学的な限界で生きている時間の1/3は睡眠という休息に取られる。
宇宙の摂理に従って起きる夜、この真っ暗い夜にもお世話をすることはできない。
天候にも左右され雨の日にもできないだろう(花のためには雨は必要不可欠であるが)。
生きるために欠かせないメシの準備・食う・後片付けの時間にもできないし、
(自給自足時代は、この食料を確保する時間が=生きるってことだった)
友人が遊びに来た時間にも花と遊ぶことはできない。

この例えが適切かどうかは別にして、
こんな感じで自分の人生の行動全てについて当てはめて考えた時、
何かしらのしがらみに縛られずに自分の自由意思で生きている時間って

 ある?

まあ、人によるがほぼないハズだ。
って、こういう思考実験をしていった時に
お釈迦様の教え、自因自果 が活きてくる。
つまり、誰かしらの何かしらのしがらみの影響を受けて
決して自分の自由意思だけでその行動を行っているわけではないが、
自分が許容(または納得)できる理由があれば、
それは自分の自由意思で行っているという風に自分が思えるということだ。

ここで重要になるのはその境い目、いわゆる閾値となる。
どこの誰のせいでそうなったのか?
その誰が許せる人なら許せるが、許せない人なら許せない。
厄介なのは最初のしがらみでは許せないことも次のしがらみで許すしか選択肢がなく、
結局許せないことなのに許してやるしかないというケースが多々あることだ。
(さらに複雑なケースも、それこそごまんとあるかもしれない)

キリがなくなるので、この辺にするが
生きるとは何なのか?。

常に何らかのしがらみに影響を受けながら常に何かを自分で選択し行動し続けること。

誰もがこの答えに辿り着けるのにもかかわらず
 生きるってなんなの?。
と問わざるを得ないのは、まあ自分の思い通りに人生生きられないからなのではないかな?


次回は
 よりよく生きるためには?
を考えてみたい。


死とはなんなのか?

2023-09-17 09:28:56 | 人間学



父の通夜の夜は斎場に泊まれるように手配してもらった。
その斎場のお泊り部屋は父の亡骸を安置する場所と間続きで父と一晩を共にした。
今は一晩くらいは持つ渦巻き型の線香があって寝ずの番はせずとも良いが、
オシッコが出る薬を飲んでて途中何度も目が覚めるので、
水を変えたり、尊顔を拝んだりして、一晩父とゆっくり過ごすことができた。


この斎場に一冊の哲学本が飾ってあった(もちろん読んでも良い)。
死とはなんなのか?という題名の本だった気がする。
死がどういうものか?
この手の答えが出ないものを突き詰めて答えを見出そうというのが哲学である。
例えば、死が何なのか?について、一見成り立ちそうな理屈を述べた哲学者がいたとして、
他の哲学者が、その理屈が成り立たない理屈を考え、その理屈が真理ではないと証明し、
と言うようなことをやりつつ自分の理屈を真理に昇華させていこうということのようだ。
(本当のことは知らん)


本のタイトルに釣られたが、
哲学書なので当然のことながら明確な一つの答えは書かれていない。
哲学書(またはみたいなもん)に触れる際は、その点には気をつけるべし。
その本もご多分に漏れず、高名な哲学者の理屈とその反証、その他の理屈、
そこから導き出された著者の理屈などがツラツラ書かれているので、
読み手も一人の哲学者になって、自分なりの理屈(=解釈)を見出すことを試みる。
そんな感じで付き合えばよい。


【魂は存在するか?】
その本には(著者の見解)、
人格(の存在)こそが生きている証であり、
人格が永続的に機能を果たせなくなれば、それは即ち死であると考えていると述べている。
(これは答えとして述べているわけではなく、あくまで著者の考えとして述べられている)
また、人格と言うのは当然、正常に機能している肉体がなければ存在し得ない。
従って死とは、
 人格を維持しうる肉体がなくなり、
 人格が維持できなくなる、
 または、人格が機能しなくなってそれが回復できなくなる
状態に陥れば、それが即ち死と言えるのではないか?と綴られている。
機能する肉体がない状態では人格が存在できないので魂もない。
従って魂も存在しないという結論になる。

これは至極真っ当な話だ。(その代わりロマンのかけらもないが)

魂、霊魂、死後の世界。
コレの存在を主張する個人なり団体で収益に全く結びつかない個人や団体はあるまい。
SNSに散見される超常現象なども、
 利益誘導(後ろにいる組織などの)
 承認欲求
 収益
に必ず結びついている。

もし死後も魂があるのであれば、
そしてそれが現世にも現れうる存在であれば
そう人間の都合よく
 縁者の前だけに現れる
 いわくつきの場所だけに現れる
など、まあ話題になるような出方だけするかね?

これまで存在したすべての人類の数だけ魂もあって、
(それは数百億とかのとんでもない数になるだろう)
それらが場合によっては人前に姿も現わせるとしたら?
今の人間界同様、変わり者の魂や無法者の魂(あの世のルールを無視するような)
目立ちたがり屋の魂が、イレギュラーな場にイレギュラーな形で現れ、
世は大混乱になるだろう。
そしてそれが日常化し、もはや幽霊が出ようが何しようが話題にもならなくなるだろう。

おわかりかな?
ミステリーやオカルト話で話題になるような、
そんな出方でしかお目にかかれないということ自体が、
魂も幽霊も存在し得ない明確な証拠であり、
人の欲、あるいは築き上げた社会システムを維持するために作られたヨタ話なのである。

よく考えて欲しい。
自分にだけ亡き父が見えて、話しかけてきて声も聞こえる。
そんな都合のいいことは物理的にはあり得ない。
光子として認識できるのであれば他人にも見えるし、
音波として認識できるのであれば他人にも聞こえる。
自分にだけ超常現象。
これが成立するのは、その人の脳内で都合のいい物語が造り出され、
その人の脳内で脳内再生された場合のみである。



人間には
 思い込み
 幻覚
 幻聴
 夢想・妄想
があり、そこに
 承認欲求
 利益
が加わって、
もはや真実などと言うものは人間界から当の昔に消え去っているのだ。


【死んだらすべてお終いか?】
当人にとってはイエスである。
もしそうでないのだとしたら?
誰も死を恐れたり悲しんだりすまい。
変な話だが死んだらすべてお終いなのは誰もが知っている。
だからこそ、みんな死にたくないのではないのかね?

だが、生き残った家族や縁者にとっては、
父の死で父のすべてがお終いになるわけではない。
すくなくとも孫(ウチの父であれば4人の曾孫)くらいまでは心に思い出とし残る。
亡くなった父の魂はなくとも、父は仏になった。
7日ごとに法要(仏になるための修業の節目)があり、7日ごとに閻魔様の裁きを受ける。
49日目に閻魔様の裁きが確定し、仏になるか?地獄に落ちるか?が決まる。
7回目の法要をもって墓に骨を収めるのも、この日をもって真の仏になれるからだ。
(これは私はこう思うということであり、その他の意図は全くないことはお断りしておく)

宗教、宗派によって細部は異なるが(例えば神道であれば死者は神となる)、
共通している点がある。
それは生き残った人にとっての故人への畏敬の念や信心・信仰心の問題である。
私個人としては無宗教である(ただ、実家は仏教であるし、今の家は神道である)
だが、私個人としてはお釈迦様の教えを受け入れている。

 仏はあなたがいると思ったところにいる

父は亡くなり、火葬で肉体が消え去った時点で死が確定した。
魂も存在しない。
だが、父は仏になり、49日後には極楽浄土へ旅立つ。
今父は仏になるための修業中だが、
私がいると思ったところには仏として存在する。

それでいいではないか。

魂があろうがなかろうが、死後の世界があろうがなかろうが、
私が死を迎えない限り、父は私の中に仏として存在する。
ある時は道端の花に宿り、ある時は空の星の一つになる。
私がこう思うのも、仏壇に手を合わせ、墓参りをし、
父(あるいはご先祖様)を敬うのも、私の心の持ちようの問題である。

死後の世界があり、魂があると思うのも良し
(その場合、死んでもすべてお終いとはならないハズだ)
死後の世界も魂も存在しないが、父は仏として身近にいると思うのも良し。

死とはいったいなんなのか?
まんたろうという人間のまんたろうとしての人格が存在しなくなること。

それが答えである。


ニンゲンはこうして醸成され熟成する

2023-09-14 23:25:31 | 人間学


遺伝的性質と環境因子。

父の危篤、父の死。
世間一般で言うところの一大事に遭遇しても極めて普通に過ごしている自分がいる。
父の訃報の当日、会社で何事もなかったように働いていると何をしてるんだ的に皆に言われる。

 えっ? 皆さん そうじゃないの?

とっくの間に自覚はしているが俺って変!。

例えば、今駆け付けたところで何もできない。
病院は安易に面会を許す場所ではなくなった。
例え親の死に目だろうが何だろうが。
それにアニキ夫婦はバタバタだ。
夕方に倒れ、日付が変わったと思ったらすぐに亡くなった。
そこに事情を察しタイミングを読むことができない弟が来たら?。
疲れが増すだけだろう。
葬祭場を決めたり、葬儀の段取りをする段階で、
外から余計な口出しをする親族がいたら?
俺なら迷惑しか感じない。
と現実を見て、アニキ夫婦の現状を考え、合理的な行動とは何かを考えれば、
事が進むまで(アニキ夫婦の段取りが終わるまで)普通の日常を過ごすしかないのである。

まあ父との関係性、父のこれまでの生き様、父の亡くなり方。
こういうもので抱く感情や対応の仕方も変わってくるが、今回はこれがベターである。
しかし、きわめて合理的なこの対応も、
世間様的には冷徹非情の烙印を押される自分がいる。

どうも世間様は
親が亡くなったら取り乱し、泣き叫び、真夜中だろうが何だろうが
家に駆け付けねばならないらしい。
これが変だと思えないのが世間様なのか・・・
父との思い出を振り返る中で見えてきた

自分はなんでこうなった?

おやじが40歳近い年でできたのがワシ。
上のアニキとは12歳、下のアニキとも9歳離れている。
皆様がイメージするような世間一般の親に抱くイメージやアニキのイメージとは大きく異なる。
親もアニキもとにかく大人なので優しいのだ。
こういう立場になるとどうなるか?
こうおやじであるとかアニキであるとかの実感がわかなくなる。

 おやじは父親とじいちゃんの中間。
 上のアニキは父親とアニキの中間。

これがちょっと特殊な家族感情の始まりである。

で、思春期に突入した子供の親がいいおっさん、おばさんだと何が起きるか?
授業参観などに来てほしくないという感情が芽生える。
別にそれで同級生にいじられたことはないが劣等感がね。
周りの同級生の親はピチピチだがウチの親は親とジジババの間。
これは子供心には結構堪える。
で、運動会なども弁当持ち。
今は親が来れない子供同士を集めて、
先生も一緒になってって配慮があるらしいが当時はそんなものはない。
いっつも一家団欒を横目にしながら育まれたのは孤独や劣等感に耐える能力である。

真夜中の山中に一人で居て寂しくないのか?とよく言われるが、
この時培われた経験が活かされている。
それに車などの避難場所が近ければ寂しくも怖くもない。
悪霊の類は容易に車内に侵入してくることが予想されるが、
まあそうなったらそうなったで霊と齧りあって雌雄を決するしか手はない。

ただ、虫だろうがクマだろうが悪霊だろうが人間よりははるかにマシである。
この世の中で見ず知らずの人間ができてない他人ほど質の悪いものはない。
この地球上で要らないものは人間だけである。


中学校に入ると部活をせねばならぬ。
帰宅部志望だったが、どうもそれは許されないらしい。
野球が好きで得意だったが坊主頭は死んでも受け入れられない。
で柔道部に入ったが、これが人生の大きなターニングポイントであった。
当時はブルースリーやジャッキーチェンに憧れてたので、
ホントは空手部に入りたかったが空手部がない。
まあ、同じ格闘系なのでいいだろうと柔道部に入ったが
成長期に筋肉や骨を太くする方向に身体を鍛えると背が伸びるのが止まる。
私の兄弟や息子たちは175cmはあるが、
私は筋肉ムキムキと引き換えに背が小さめとなった。

だが、柔道も悪いことばかりではない。
タイマンのケンカでは負けたことがない。
というより勝負をせずに済んだ。
パンチを捕まえて、投げて、袈裟固めで抑え込めばそれで終わりである。
袈裟固め以外の抑え技は噛みつかれる危険性が出る。
袈裟固めの利点は他にもある。
相手と会話ができる点だ。
抑えるのにそれほど労力も必要としないので、
相手が諦めるまで抑え込んでいればよい。
しかも、固めながら相手を痛めつけることができる。
自分の一番下のあばら骨を相手のみぞおちに食い込ませるのだ。
これをやられると呼吸が制限される。
たいていの奴は数分抑え込めばギブアップである。
だが、そこに行く前段階では相手に負けない力が必要だ。
色んな技を覚えるのが面倒なので、とにかく背負い投げ一本で行くことにしたが、
多彩な技がないのに負けないためには相手を圧倒する力が必要なのだ。
努力は嫌いだったが筋トレは死ぬほどやった。
確か中三の体力測定で握力は75、背筋力は200くらいはあった気がする。
組んでさえしまえば血も流さずにケンカに勝てるのが柔道の利点かも知れない。
ただ、手段を選ばない相手には頭から床にたたきつけて殺すくらいの覚悟が必要だ。
背負い投げは相手を抱えて投げる瞬間に自分の膝を折れば、
相手の頭を地面に叩きつけることができる。
殴ったり蹴ったりでは人はなかなか屈しないが、
全体重が落下する運動エネルギーを脳天に食らわせれば簡単に倒れる。
大事なのは、それを実行することではない。
イザと言う時にそうすることを決めておき、
イザという時にそれを躊躇なく実行できる準備と覚悟をしておくことだ。
最後の手段をもっているからこそ、その手前では余裕を持っていられるのだ。

腕っぷしが強いので不良グループからよく誘われたが全部断った。
それを理由によくヤキを入れられそうになったが、
奴らもプライドだけはあるようでリンチはしてこなかった。
が、追い込まれれば手段を選ばなくなるのは弱いヤツにありがち。
なのでいつも予防線は張った。
今はヤラれてやるが、俺が動けなくなるまで一人や二人は半殺しにするぞ。
お前らもいつも群れて過ごすわけではないだろう?
一人になる時は夜道の後ろ頭に気をつけろ。
俺を殺さない限り、一人一人半殺しにしてやると。

群れるのは弱いヤツが自分を守るために群れの中に入りたがるので、
心底嫌いだったし反吐が出る。
奇人変人のオタクでも、ソロでいるヤツには親近感が沸くし尊敬もできるが、
群れるヤツは今でもクソだと思っている。

努力せずともある程度上位に入りたい。
人生全てにおいて、この根本的価値感を原動力として動いているが、
柔道部の顧問に言われたことは一生忘れない。
「お前の力なら県大会でも勝ち上がれるのに何で全力を出さないんだと」

柔道には坊主頭はないが減量はある。
当時階級は忘れたが59kgまで体重を絞らねばならなかった。
大会前日は町のお祭り。
例年であれば屋台でうまいもんを食いまくっていたのであるが、
その年は減量中でなにも食えない。

 みじめだ

さて、地区大会の当日。
3回戦くらいだったと思うが、対戦相手の柔道着の脇の下がまっ黄っ黄。
なんでだ?と思ったのも束の間、組み合った瞬間理由が判明した。
ぷ~~ん! くっさ!。
そう、彼はワキガマンだったのだ。
テメェ~ 汚ねぇ~ぞ(脇も性根も)。
この手の卑怯者は早々に畳に叩きつけてやろうと思ったが少々手強い。
本気でやろうにも鼻を衝くワキガー臭は戦意を削ぐ。
顧問は畳をバンバン叩いて本気になれと言うが、
本能が拒絶するもんはしゃ~ないよねぇ。
で時間切れの合図と当時に背負いで叩きつけたが時遅し。
技への入りが時間切れの合図の後だったので見事なノーカウント(無効)である。
負けた瞬間は悔しかったかって?
そんな気持ちは微塵も感じない。
だって、本気でやれば勝てたから。
他人の尺度(柔道のルール、大会の規定)での勝ち負けは関係ないのだ。
自分でも思うが本当にクソで嫌な奴である。

この時に限らず、実は本気で物事に当たったことはない。
では、その辺で向かうところ敵なしなのか?というと、まあ中の中ぐらいじゃないかな。
本気で物事に当たらなければならない場にはそもそも立ち入らないからだ。
その手の嗅覚が非常に優れているのは以下の通りだからである。
 努力をするのは性に合わない。
 基本(セオリー)は無視。
 他人の真似はしたくないので、もちろん習い事もするはずがない。
 他人に価値を求めてもらう必要性も感じないので競い合う何かを必要としない。
究極の我流・自己流・身勝手流であり、自己満である。
肉まん・あんまん・ピザまんはどれもうまいが、自己満は食うところがない。
世間的には何も価値がない「まん」が自己満である。

今生きていて何が苦痛か?
それは他者に評価されないとおまんまの食い上げになる会社生活。
一日のその手の持久力・忍耐力・耐久力は会社で使い果たすので、
仕事のある日の帰社後は人として終わっている状態だ。

こんな風に何をしてもどこか冷めた目で上から自分をのぞき込んでいる感じ。
まあ、ゲームのキャラもプレイヤーも兼任している感じ。
人生そのものがオープンワールドゲームみたいなもんである。
(なるほど、スカイリムの世界が心地いいのは、あればゲームではなく人生そのものだからか)
これは環境因子で心当たりはないので遺伝的性質なのかもしれない。


高校は男の花園、工業高校へ進学したが学校までは40kmはあった。
電車とバスを乗り継ぎ駅からは徒歩。
朝6:10に家を出て、部活を終えて家に付くのが23:00頃。
こんな生活をしていればくたびれるし太る。
なんせ23:00に帰ってどんぶり飯3杯も食うのだから。
ちなみに高校入学時の体重は62キロくらいだったが出る時は90キロを超えていた。
毎年10キロずつ増えていったのを数えていた記憶がある。
ぼっちゃりの資質はこの頃磨かれたらしい。

ウチの高校は基本的に部活は辞めれない決まりがあったが、
さすがに勉学に勤しむ時間がなくて成績がガタ落ちという理由が認められ
退部が許された(成績悪化の原因はソレではないが)

この高校生活で培われたのは、自分の力ではどうにもできないことに耐える能力だ。
1年生の時は学校近くの駅の駐輪場までチャリを持っていった。
自転車通で余裕?
とんでもない。
どこの誰だかわからない先輩(3年)に通学途上にあるホカ弁の弁当を頼まれる。
(新入生にとっての3年生はオッサンだよ、しかもやたらとガラの悪いね)
少ない日でも4人くらい、多い日は7人だ。
お分かりになると思うが、ホカ弁でこの数ができるのを待つのも、
これを持って3年の各教室に配達するのも難行苦行だ。
艱難辛苦はこれだけではない。
電車痛の最中にナンパという先輩への奉仕活動がある。
この奉仕活動、成功しても褒められないが失敗するとどつかれる。
年頃の女子がいない日は、途中の車両の運転室の窓から、
通勤時間帯の満員の新潟駅で自己紹介や声出しをさせられる。
これもやってみればわかるが生きるために微塵も必要としないことである。
私の辞書では先輩と書いて理不尽と読む。

だが、この奴隷状態でも悪いことだらけではない。
弁当配達人の特権で先輩からのいじめには遭わなかった。
事情を知らない理不尽(先輩)にヤラセそうになっても注文主が守ってくれる。
だが、偉く率の悪い見返りである。
まあ保険みたいなもんか。
多大な労力を費やすが(保険料を毎月キッチリ収めているが)、
恩恵を授かる機会(保険金を受け取る)は極めて少ない。
まあ掛け捨ての保険みたいなもんが、この弁当配達という労働だった。
この時悟ったのは社会生活を営むということは

 やりたくないこともやらされる
 コネは大事だなぁ


3年の体育の授業中、ジャンプして着した先に他人の足があり、
足首をしこたま捻挫した上に、足の甲の骨が折れる事件があった。
この時、悶絶する私を誰一人助けてはくれない。
なるほど、日頃他人に冷たい奴は人からも助けてもらえないのか。
世は等価交換の法則でできている。

誰の助けがなくても何とかせねばならぬ。
だが痛くてとても歩けない。
保健室まで這って行き、保健の先生に診てもらったが、
センセイはブス色に腫れ上がった足首を見て、はよ~医者に行けと言う。
とりあえず松葉杖を貸してもらい駅まではタクシーで行けたが、その先はね。
当時、我が家で車を持っていたのは上のアニキだけだった(もちろん免許も)
今どきの餓鬼メラなら、すぐに親なりに泣きつくだろうが我が家は鍵っ子家庭だった。
家の電話番号はわかっても、どうせ誰も出ない。
アニキの職場の電話番号は知らない。
もっともわかっていても助けは呼ばなかったであろう。
例えガキでも自分の不始末のけじめは自分でつける時代だ。
松葉杖をついてテクテク歩いて帰ったが途中で血だらけになった。
脇の下にまめができ、それがつぶれたのだ。
駅でも電車内でも皆が避けていく。
そりゃ~そうだろう。
血だらけで松葉づえで目を血走らせたビッコがドスドス歩いて来れば俺でも近寄らない。

何でも自分でできることは自分でやる。
いわゆる自己完結型人間が確立されたのは、
この「脇の下血だら真っ赤事件」によってである。


就職して社会人になってからの経験は人間の醸成にあまり影響を与えるものはない。
この時期の経験は人間の熟成には寄与するが、
すでに醸成された人格の上塗りをするに過ぎない。
三つ子の魂百までというが、
やはり脳や心の成長期に受けたダメージ(または成功体験)が
その後の自分のありように大きく影響を与えるようだ。
ある程度人間性が確立された後の補正・修正というのはあまり効かない。
まあ早い話が手遅れなんだなこれが。

ちなみに遺伝的性質について、ここでは言及しない。
親の癖、価値観などを吟味すれば、根本は似ていることが判明するであろう。
趣味とか、趣向とか、美的センスとか、好き嫌いとか(食い物ではなく)
もっとも、そういうのは占いに似ていて、自分がそう思い込むだけかも知れないが。

まあ、くだらない話をつらつらを書き綴ったが、
言いたいことは私の人生がどうだこうだではなく、
思春期くらいまでに抱いた感情や培った経験などで
己が出来上がってますよということだ。
真っ白いキャンパスに描かれた傷や模様などは後から修正や補修は効かないのと同様、
自分の根幹がそう簡単に変わらないのは、まあそういうことなんだよねぇ。

ただ、社会経験で上塗りはされる。
キャンパスの一番下の層は傷や穴だらけでも経験で上塗りされた表面は、
一見するとキレイに見える。
これが本性は腐っていても社会的には、まあ普通かなレベルを貫ける理由だ。

どうも子供返り、先祖返りして未熟な我儘野郎に戻っていく人間を見ていると、
老いることで社会生活で身に着けた上塗りを維持できなくなるようだ。
それによって傷だらけで穴だらけのキャンパスが現れ、
家族や子供にとっては迷惑でしかない老人が出来上がる。

ウチのおやじは今宵、大往生だったと家族の笑顔で通夜を迎えるが、
そんなおやじの姿を見ていても、なお長生きはするもんじゃないと痛感する。
惜しまれるうちにこの世を去る。
己の上塗りが剥げる前にね。
だって~、上塗りが剥げたら、こんなクソ野郎の面倒を見る家族がいい迷惑でしかない。
例えやり残しがあっても、自制が効くうちに星屑に還る。
これが最期の大仕事になりそうな人生である。


大往生

2023-09-12 07:18:06 | 日記

2023年9月11日 午前1:56 父がこの世を去った。
御年95(数えでは97とのこと)。
老衰ではなく、厳密に言えば病死なのであろうが、
苦しみは一瞬で、その後は痛みや苦しみを感じることもなく、
倒れてから数時間後に静かに息を引き取ったらしい。
(まあ、昏睡状態の中にある人の意識が他人の予測の範囲内であるかは誰にもわからないが)

父にはついこの前のお盆に会ったが、百まで生きると豪語していたので、
多少の無念さはあったかもしれない。

おやじが亡くなったというと、皆が悲しいと思うかもしれないが、私は少し特殊だ。
つまり、亡くなった人の背景でその手の評価を大きく変えるタイプだ。

父は元々頑固者で他人の言うことに耳を貸さないタイプであったらしい。
都会から実家に戻った時は

 ピンクのスーツにオレンジのネクタイ(逆だったかもしれない)

に身を包んで帰郷した傾奇者
(その手の美的感覚が根柢の部分で似ているので、つくづく遺伝とは恐ろしい)

母が言うことを聞かないと暴力も振るったらしいが、
まあ昭和の男、封建制の影を引きずる時代背景が残る中では、
特に珍しくもないだろう(もちろん私がそれを認めることはないが)

そんな父であったが、
40近くで生まれた三男坊の私には、そんな姿はおくびも見せず優しかった。

近年は頑固さや人の話を聞かない傾向に拍車がかかり、
さらに痴呆も進んで同居していた長男夫婦には随分と嫌な思いをさせたらしい。
55歳で国鉄を定年退職し、40年間悠々自適の生活。
95まで大病もせず、好き勝手生きてきたことを考えると、
(前立腺かなんかのガンになったことはあった気がするが)

もう十分じゃね?

それが悲しみを一切感じない故人(父)の背景である。
(ただ、他人に大きな迷惑をかけるような人ではなかったので父が嫌いではないが)

暦や葬儀場の関係か?、通夜は金曜日、葬儀は土曜日となった。
今は葬儀屋が至れり尽くせりで葬儀も難儀な行事ではなくなった。
家族の心労がというが、それは亡くなった故人と死に方によっても変わるだろう。
兄夫婦がどう感じているか私にはわかりかねるが、
何もかも親族が・・・・と言う時代よりは、
故人の死に向き合える時間ができたのが今と言う時代ではないかな。


私の死生観は少し特殊だ。
星屑から生まれた地球の空気や水や土から生まれた人間。
死ねば星屑に還るだけである。
(もちろん未来ある人が亡くなれば、それは悲しいと感じるし
 可愛い孫娘に不幸が訪れたら胸が張り裂けるほどつらい気持ちになるだろうが)

次男坊が飛び降り自殺を図ったり、父の訃報を聞いても、
動揺の気持ちは湧かず、感情も動かないのは私が冷たい人間だからか?
いや、覚悟ができているからだと思う。
つまり、死とは誰にでも平等に訪れ、しかもそれは必ず訪れる。
早い遅い、望む望まないは所詮は人の気持ちの問題であり、
大自然の摂理、輪廻、諸行無常からすれば死ぬことは当たり前なのだ。

覚悟とは?
星屑に還ることが自然で当たり前なのだと悟ること。
(自分にいつその瞬間が訪れるかも含めて、その時が来たら騒がず受け入れること)

父の生き様と最期と言う観点では、
父の死は悲しむべきものではない大往生と言えるだろう。



社会的な父との別れは葬儀という形で行うが、
私個人としては星に還る父との別れは星空の下で行う。
星空の下で一晩じっくり父との思い出を振り返りながら。

もし父が星に還ったのなら、
きっと流れる一筋の光として、私の前に姿を現すハズだ。
とはいっても一晩ではいくつも流れるなぁ。
父よ!。
どれかわかるようにデッカイやつで流れてくれよ!。

そしてそれが、私と父との真の意味での別れとなる。

えっ? 流れなかったら?
次戦に持ち越しということで。