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派手好きで酒乱の実成院

2010年08月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 実成院お美佐1821-1904といえば十四代将軍徳川家茂生母で、 父は紀伊藩士・松平右衛門晋である。 おみさ24歳の時に、紀州大納言・斉順の侍妾となり懐妊したが斉順はその出産を待たずに没してしまう。 おみさは落飾し、実成院を号して江戸赤坂藩邸で菊千代(慶福のちの家茂)を生んだ。 1858年、慶福は将軍嗣子となり、家茂と名を改めると、翌年実成院は将軍生母として本丸大奥へ移る。 将軍・家茂の時代は、和宮降嫁など激動の時代であったにもかかわらず、実成院は万事が派手好きで朝から酒を飲み、日々乱痴騒ぎをしては、時の御年寄(取締役)瀧山に注意を受けるという女性であった。 

 一方、三代将軍徳川家定・正室となった篤姫の父は島津忠剛。 叔父にあたる薩摩藩主島津斉彬の養女となる。家定の世嗣に一橋慶喜を擁立する目的で斉彬は敬子を正室を亡くした家定の後室に推す。 将軍家の正室は宮家公卿からとされていたため敬子はいったん近衛左大臣忠煕の養女となり、篤子と改名して御台所となった。 ところが家定は一年半後、三十五歳という若さで没し、篤子は二十三歳で未亡人になる。 その後、実家島津家に反して次期将軍に紀伊徳川の慶福(のちの家茂)を立てて養母となった。家茂の御台所として和宮が降嫁するのにあたり、大奥から二の丸に移る。 江戸城開城ののちは家定・生母とともに一橋家へ、その後も紀伊邸、尾州家下屋敷、赤坂相良屋敷、千駄ヶ谷(徳川公爵邸)へと移ったが島津家には戻らなかった。  将軍・家定の死で、篤姫が天璋院となり喪に服していた頃、大奥に残る決意をしていたまるは、中臈に昇格して女中たちを取り仕切る立場となり、 新将軍・家茂と天皇の皇女・和宮の結婚話が進み、大奥に嵐が近づいていた。 諸外国との条約調印問題などで対立が深刻化した朝廷と幕府を融和させる政略結婚である。  天璋院となった篤姫は、将軍家茂の養母として江戸城大奥を束ね、強い発言力を持ち続ける。 将軍家茂に降嫁してきた皇女和宮との嫁.姑の争いは有名な話。 しかも家茂付奥女中は約130人、天璋院付奥女中は90人、和宮付奥女中は70人、この他に家定生母の本寿院付、家茂生母の実成院付の奥女中たちと、部屋方といって大奥女中たちが自分の部屋で使う女中も合わせれば、およそ八百人の女たちが江戸城本丸の大奥で暮らしていた。  

 和宮は降嫁に当たり、毎年一回京に里帰りする、大奥でも身の回りは京風にするなど五ケ条の条件をつけた。 実成院は大奥の新しい権力者で、気位が高く、条件をつけた和宮と対立します。 五ケ条の条件は最初から破られ、京から同行した女官たちも怒る。 政略結婚ではあっても、家茂と和宮は仲むつまじく、和宮も身の回りのことにはあまり京風にこだわらなくなった。 ただ、京への里帰りだけはしたいと実成院に言うが、実成院は取り合わず、子の産める体がどうかの検査を強引にしたという。  和宮親子内親王は十四代将軍徳川家茂・正室で、 仁孝天皇第八皇女です。 異母兄は孝明天皇。六歳の時に有栖川宮・熾人親王と婚約が決まっていたが、公武合体のため破棄され家茂へ降嫁することになった。 当時公家の子女の間では 「死にたければ東に嫁せ」 と言われるほど江戸は恐れられていて、はじめは強く拒んでいたが、孝明天皇は侍従の岩倉具視の意見を採りいれ輿入れを決めてしまう。

 武家と公家の習慣の違いで初め家茂養母の天璋院とは険悪なムードが流れていたが、その後和宮が踏み石の下置かれていた家茂の履き物をはだしで縁側に下りて上にあげたことから二人の諍いはなくなったという逸話がある。 家茂とは仲むつまじかったというが、二人が一緒に過ごしたのは二年足らず。 元々体が弱かった家茂は度重なる戦闘指揮に西上し、その疲労から二十一歳の若さで脚気で戦病死した。  このとき、実成院は江戸城に居住続けている。 和宮は落飾して静寛院宮と号して次期将軍に一橋慶喜を立てた。 江戸城開城後いったん京都に帰ったが五年後江戸に戻り、実成院とともに田安家の屋敷に移り住んだが、家茂と同じく脚気にかかり三十二歳で没している。 実成院はその後、紀州徳川邸で84歳の長寿をまっとうした。  和宮は徳川家の墓地に埋めてほしいという遺言で増上寺の家茂の墓の隣に葬られ、実成院は寛永寺に本寿院とならんで眠っている。 1959年に行われた徳川家墓所の改葬で開かれた和宮の棺の遺体は正装した一人の男性の写真を抱いていたという。 開棺後の処置が不十分だったため翌日には写真の人物像は消えてしまったため定かではないが、それは家茂だったと言われる。 和宮内親王の後ろに控える二人の女性はもちろん和宮の母・橋本経子(1826-1865)と 仁孝天皇の典侍・庭田 嗣子(1820-1867)であり、降嫁の祭に和宮付きを命ぜられてともに江戸へ下った二人である。  

徳川家重1712-1761(9代将軍)     
 ┣徳川家治1737-1786(10代将軍)       
至心院┣千代姫    ┣-
   ┣万寿姫   倫子女王(1738-1771)閑院宮直仁親王の第6皇女 
   ┣家基1762-1779 
   ┃徳川家康    
   ┃┗宗尹(一橋徳川家初代当主)           
   ┃  ┃┏斉隆1777-1795福岡黒田氏藩主   
   ┃  ┃┣斉敦1780-1816一橋徳川家3代当主   
   ┃  ┃┃   ┣-
   ┃  ┃┃ ┏保子 
   ┃  ┃┃二条治孝1754-1826(左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉通1781-1798(母:嘉姫)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣九条輔嗣1784-1807(養子 父:九条輔家)   
   ┃  ┃┃ ┃ ┣九条尚忠1798-1871(養子:関白左大臣)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条道孝1839-1906(左大臣 最後の藤氏長者) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┃ ┗節子(大正天皇皇后 貞明皇后)  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条幸経1823-1859(養子:鷹司政通の子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┣九条夙子1833-1897(孝明天皇女御 英照皇太后) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928  
   ┃  ┃┃ ┃樋口基康娘   
   ┃  ┃┃ ┣西園寺寛季1787-1856(母:徳川宗翰娘)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┣二条斉信1788-1847(母:徳川宗翰娘)    
   ┃  ┃┃ ┃ ┣二条斉敬1816-1878  
   ┃  ┃┃ ┃ ┃ ┗二条基弘1859-1928(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃   ┗二条厚基1883-1927 
   ┃  ┃┃ ┃ ┃    ┗二条弼基1911-1965(養子) 
   ┃  ┃┃ ┃ ┗広子(有栖川宮幟仁親王妃)  
   ┃  ┃┃ ┣九条尚忠1798-1871(関白左大臣)   
   ┃  ┃┃ ┃   
   ┃  ┃┃ ┗隆子(常蓮院)   
   ┃  ┃┃   ┃ 
   ┃  ┃┃   ┣斉朝1793-1850(正室:家斉娘 淑姫)    
   ┃  ┃┣治国1776-1793(母:お富)   
   ┃  ┃┣斉匡1779-1848(徳川田安家2代当主   
   ┃  ┃┃ ┣松平慶永1828-1890(春嶽)田安家3代当主→越前松平氏15代藩主  
   ┃  ┃┃ ┣徳川慶臧1836-1849徳川尾張家13代当主  
   ┃  ┃┃お連以   
   ┃  ┃┃   
   ┃  ┗治済┓1751-1827(一橋徳川家2代当主)   
   ┣徳川家斉1773-1841(養子 第11代将軍)
 蓮光院(お知保)  ┃
        ┏━━━━┛
       ┣敦之助1796-1799(清水徳川家養子)正室近衛寔子 (広大院島津重豪娘)  
        ┣淑姫1789-1817(尾張徳川斉朝妻) 側室お万(勢真院)
    ┣家慶1793-1853(12代将軍)    側室お楽(香琳院)
     ┃ ┃┣徳川家定1824-1858(13代将軍)  
     ┃ ┃┃┣-       
     ┃ ┃┃篤姫1836-1883(大奥御台所御殿に)  
     ┃  ┃本寿院1807-1885(大奥新御殿に)         
     ┃  ┣慶昌1825-1838(一橋徳川家6代当主)         
     ┃清涼院          
     ┣敬之助1795-1797(尾張徳川家養子)側室お歌(宝池院) 
    ┣峰姫1800-1853(水戸徳川当主斉脩妻)側室お登勢(妙操院)         
     ┃治紀 ┣-       
     ┃ ┣徳川斉脩1797-1829(水戸8代藩主)       
     ┃ ┗徳川斉昭1800-1860(水戸9代藩主)       
     ┃   ┣徳川慶篤1832-1868(水戸10代藩主)      
     ┃   ┣徳川慶喜1837-1913(15代将軍)      
     ┃ ┏吉子女王1804-1893(父:織仁親王)      
     ┃ ┣有栖川宮韶仁親王1785-1845      
     ┃ ┗喬子女王1795-1840       
    ┃   ┣竹千代、儔姫
    ┃  家慶1793-1853(12代将軍)
    ┣斉順1801-1846(清水家3代当主)  側室お登勢(妙操院)          
    ┃   ┣徳川家茂(慶福)1846-1866(14代将軍)           
    ┃   ┃┣-          
    ┃   ┃和宮1846-1877(孝明天皇異母妹)          
    ┃  実成院1821-1904(16歳で女中奉公 入城後七宝の間に)          
    ┃松平六郎右衛門晋┛(紀州藩高家)          
    ┃          
     ┣斉明1810-1827(清水徳川家当主) 側室お八重(皆春院) 
     ┣斉民1814-1891(津山藩8代藩主)  側室お八重(皆春院)         
     ┣斉衆1812-1826(鳥取藩主)     側室お八重(皆春院)         
     ┣斉良1819-1839(浜田藩主)     側室お八重(皆春院)         
    ┣斉裕1821-1868(徳島藩13代藩主) 側室お八重(皆春院)     
    ┣斉荘1810-1845(田安家4代当主)  側室お蝶(速成院) 
    ┃ ┗昌丸1846-1847(一橋徳川家6代当主)          
    ┣和姫1813-1830(長州藩主毛利斉広妻)側室お蝶(速成院)  
    ┣浅姫1803-1843(福井藩主松平斉承妻)側室お美尾(芳心院)    
     ┣斉温1819-1839(尾張藩11代藩主) 側室お瑠璃(青蓮院) 
     ┣斉彊1820-1849(紀州藩12代藩主) 側室お袖(本性院)     
     ┣斉善1820-1838(福井藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┣斉省1823-1841(川越藩主)    側室お似登(本輪院)        
     ┗斉宣1825-1844(明石藩主)    側室お似登(本輪院)

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