平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

明智光秀は何故山崎の戦いで敗れたのか

2018年01月08日 | 戦国時代

 1582年6月2日に起こった本能寺の変は明智光秀の緻密な作戦のもとに遂行された。1582年5月29日織田信長は僅かな供回りとともに安土城から上洛し、本能寺に宿泊した。翌6月1日夕方5時頃光秀は13000の兵とともに丹波の亀山城を出陣し、毛利攻めを行う羽柴秀吉の援護に向かった。当時織田信長の軍は五つの方面に分けれれている。滝川一益関東方面軍、柴田勝家北陸方面軍、織田信孝四国討伐軍、羽柴秀吉中国方面軍、明智光秀近畿方面軍である。織田信長のすぐ近くで大軍を有していたのは光秀のみ、6月1日午後9時頃光秀は重臣を集めて謀反の計画を語ったという。応仁の乱以降京都の町は城塞都市と化していた。そのため光秀はあらかじめ町の門戸を開かせて行軍しやすいように図っている。そして1982年6月2日午前4時頃、信長に気づかれることなく本能寺を包囲し終えた光秀は一斉攻撃を命じた。戦いは僅かな時間で終わったが次の標的は信長の嫡男織田信忠である。この時織田家の代表は嫡男に移っており、信忠が正当な後継者であった。僅か1時間ほどの戦闘で信忠を討ち取った。

 緻密な計画を練った光秀の出自は定かではない。早くから室町幕府の足利義昭に仕えていた。その後信長に能力を見出されて、比叡山焼き討ちなどの武功を挙げて、近江の要衝・坂本城を任されるほど信長から厚い信頼を得ている。1583年光秀は丹波攻めの総司令官に抜擢される。丹波が平定されれば中国の覇者・毛利攻略の足掛かりとなる。この平定によって光秀は家中随一の称号を得たのである。丹波平定の光秀の居城は黒井城、標高は380m、周囲8km、重臣斎藤利光に命じて大土木工事を施した城である。光秀は築城術に秀でていたことがわかる。

 光秀の出自は不明であるが、江戸時代初めに編纂された「当代記」によると、当時67歳であったという。老い先短い光秀は変の理由についての手紙を後継者に出している。また川角太閤記によると、光秀軍の生き残りの証言では、老後の思い出に一夜たりとも天下の思い出をなすべき、とある。変の後、午後1時頃光秀は京から近江へ進軍し攻略平定にとりかかった。秀吉の長浜城や丹羽長秀の佐和山城を攻略し、6月4日には平定し終えると、6月5日光秀は信長の安土城に入城した。この素早い動きにより大和の筒井順慶や若狭の武田元明を味方につけた。6月7日安土城にいる光秀のもとに朝廷の勅使が派遣されてきている。つまり、安土城にある財宝を確保して朝廷をも味方につけたのである。また上杉、北条、毛利、長曾我部に密使を派遣して連携を求めたと考えられる。次に京の庶民に対して免税を実施、信長親子の死に際して人々は喜び天下が定まったといわれる。光秀は天下人になるための所要日数を100日と見積もっていた。

 丹波三大城のひとつ黒井城

 

 ところが、光秀の配下であり姻戚関係にあった細川藤孝が協力を拒否、髷を切り謹慎を表明する。また、摂津の武将たちも去就を明らかにしていなかった。こうした武将たちに書状を送って味方につけようとした。1982年6月9日、秀吉軍がすでに姫路まで到着しているという。

 秀吉は備中の高松城を総大将として攻撃中であった。高松城は毛利輝元の家臣・清水宗治の城で周囲を沼で覆われた攻めにくい城であったが、秀吉は水攻めにより兵糧の補給を絶ち、落城させた。この反乱により織田信長が横死したことが毛利元就の耳に入れば、毛利側が強気になり秀吉の和平交渉は潰れてしまう。光秀は乱後に毛利元就に知らせるべく使者を送ったが、秀吉側に捕まり毛利側よりも先に秀吉側に伝えられた。これにより織田信長の死という弱点を毛利に知られること無く和平交渉は進められ、即座に退陣することができたのである。毛利元就は織田信長が明智光秀とともに、秀吉に加勢すべく攻めてくるものと思い込んでいたから、吉川元春、小早川隆景を中心とした毛利は所領の半分を織田家に差し出す条件で講和に応じたのである。毛利側が織田信長の死を知らされたのは和平の翌日で紀州雑賀衆の海路によるものと思われる。秀吉は講和を結ぶと直ちに東へ引き返すべく行動した。毛利家に知られること無く講和を結ぶことができたのは、軍師・黒田官兵衛の手柄であるが、織田信長の嫡男・信忠が光秀により自害させられたことも後になって秀吉に運をもたらす。そして、光秀と同じく秀吉も各地の武将たちに書状を送っている。ところがその内容は、信長様窮地を脱出したとのこと。つまり信長は生きているとの偽情報を流し、味方につけようとしたのである。

 1862年6月9日、光秀は京の下鳥羽に出陣、信孝を討つために大阪へ向かおうとしていた。しかしこのとき光秀に味方していた大和の筒井順慶が参陣を拒否、すでに順慶は秀吉と通じていたのである。一方、秀吉は播州の姫路城を出発すると、それを知った光秀は迎え撃つべく山崎へと向かった。このとき摂津の武将たちも秀吉に加勢、光秀軍1万に対して秀吉軍は3万数千となっていたのである。秀吉軍よりも早く山崎に到着した光秀軍は大山崎の狭隘な地区を流れる小泉川を防衛ラインとして、大山崎の出口に陣を構えた。また淀城や勝竜寺城の防備を固めた。一方の秀吉軍は天王山と川に挟まれて細長い陣形にならざるを得ない。かくして光秀は大軍の利を封じた。しかし大坂の信孝と合流した秀吉軍は弔い合戦という大義名分を得た。決戦開始は6月13日午後4時頃、戦いは光秀の思い通りの展開であったが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜けて光秀軍の側面をついてきた。この奇襲により光秀軍の左翼が崩れ光秀本陣に迫った。激闘は数時間で終わり、光秀は夜陰にまぎれて近江の坂本城を目指す途中で、農民に竹で突かれて重症を負い切腹したという。


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畠山義就が主役とも言える応仁の乱

2017年12月16日 | 戦国時代

 大坂河内・嶽山は応仁の乱へとつながる戦が行われた場所である。応仁の乱が始まる4年前の1463年4月、畠山義就・27才はこの嶽山・龍泉寺に立てこもり、室町幕府の大軍を相手に2年半も持ちこたえていた。

 1448年11月に畠山義就人世最初の転機が訪れた。畠山義就12歳のとき、畠山義就は父・畠山持国の跡取りとなった。母の身分が低かったために弟が跡取りになるはずであったが、父の心代わりがそうさせたようである。元々、畠山家は室町幕府のNo.2管領になれる家柄で、細川家、斯波家。持国も二度管領になった幕府の重臣で、河内など4か国を治める守護大名であった。1457年10月、畠山義就21歳のとき将軍からある問題解決の大将を命じられた。このころ都で暴れていた土一揆、借金の帳消しなどを求める民衆が米などを盗む暴動を起こしていた。ところが畠山義就は土一揆を鎮圧しなかった。抑え込むよりも取り込んだほうが得策ではないかと考えたようである。かくして畠山義就は地方勢力を味方につけて家や幕府を盛り立てようと考えた。この畠山義就の動きを不気味に見ていたのは、時の管領・細川勝元で、畠山家の力を削ぐ機会を狙っていた。勝元は幕府の権威のもと、土一揆鎮圧命令に背いたとして畠山義就を畠山家当主の座から追放、畠山義就のいとこの畠山政長を据えたのである。細川勝元に深い恨みを持った畠山義就は、すぐに河内で決起し嶽山に立てこもり細川勝元に反旗を翻したのである。

 相手は室町幕府の大軍、しかし地方の武士・土豪に期待されて持ちこたえた。1463年畠山義就は追い詰められたが、土豪の湯浅は畠山義就の甲冑と取り換えて身代わりを打って出た。かくして僅か30人ほどの手勢とともに包囲を突破した。これほどまでに畠山義就と地方の土豪との結びつきは深かった。畠山義就は奈良県上北山村の人々にかくまわれたという。村の中心にある景徳寺には畠山義就ゆかりの弓引き行事があるという。

 1466年、応仁の乱勃発の半年前、畠山義就の元へある人物からの手紙が届いた。勝元の舅であり、8か国の守護を務める大名・山名宗全である。山名宗全は勝元との戦いを決意し、畠山義就との同盟を求めてきた。何故か、山名宗全にしてみれば勝元と組んでいれば安泰ではあるがトップにはなれない。思いもよらない誘いに畠山義就は5千の兵を率いて上洛した。宗全と畠山義就は大軍で京都を占拠し、幕府の実権を奪うことに成功した。さらに畠山義就は勝元に就いたいとこの政長を攻めた。このときについに都で戦が起こったのである。政長は闇に紛れて逃亡、畠山義就は畠山家の当主に返り咲いた。さらに将軍にも認められて幕府の重臣にも復帰した。これが11年にも及ぶ応仁の乱のきっかけであった。

 京都堀川は・一条戻橋近辺は応仁の乱の激戦地とされている。1467年5月26日軍勢を密かに整えていた細川勝元は4万の軍を率いて山名宗全の館に攻撃を始めた。油断していた山名宗全、畠山義就は5千の兵を堀川沿いの西陣船橋あたりに敷いた。このとき両軍の放火で京都は焼け落ち多くの死傷者がでたという。それまで中立的立場であった足利義政は細川勝元側に就いたことで、山名側は反逆者となった。山名側の指揮も低下した。ところが、瀬戸内海に500もの大船団が現れた。率いるのは22歳の若武者・大内政弘、4か国の守護を務める大大名で、瀬戸内の利権をめぐって勝元と対立し、幕府内の地位についても不満を持っていた。そのため宗全の誘いに応えて3万もの大軍で上洛したのである。

 

 1467年10月山名側は 将軍の御所のすぐ隣の細川側の拠点となった相国寺などを攻めて大打撃を与えた。最強の相棒、畠山義就と大内政弘の活躍で戦は振出に戻るとともに、この乱は長引くこととなる。山名方11万、細川方16万の兵が戦い続けて7年、都は荒れ果てて終わる気配もなし。山名宗全は降参を考え、細川勝元は和睦に前向きになり乱が終わるかに思えたが、畠山義就と大内政弘は反対し和睦は纏まらない。畠山義就は党首の座を、大内政弘は幕府内での地位が保証されなければ意味がないとした。すると宗全は切腹未遂、勝元は隠居、翌年の1473年には二人とも亡くなってしまった。この頃足利義政は引退、9歳の足利義尚が新将軍となった。義尚の母は日野富子、早く乱を終わらせてすべての大名が息子義尚に従うような室町幕府体制を復活させたかった。富子は家や幕府の資産を元手に高利貸などで稼いだ金、現在の価値で70億とも言われている金で、都で戦う武将たちに対して優位な立場を築いた。かくして多くの武将が富子の求めに従って戦から手を引いていった。ところが畠山義就は今更金で解決できるはずもないとして従わなかった。

 そこで富子は大内政弘の官職を山名と同等に引き上げ、瀬戸内海での利権を認めた。これにより大内の願いは叶ったことで国に帰る決意をした。1477年11月11日大内は都を離れたことで応仁の乱は終わった。畠山義就は自らの兵2千とともに河内に再び向かい、国を奪い取ることにした。僅か20日たらずで河内すべてを手中に収めた。かくして河内は幕府の支配から切り離された独立国になった。このような国が日本中で生まれた「戦国の世」の先駆けとなったといえる。畠山義就は大阪羽曳野市で晩年を過ごした。応神天皇陵のすぐ近くに館があったと考えられている。近くにある誉田八幡宮で行われる秋祭りで担がれる神輿は頼朝による寄進と言われているが、畠山義就も担いだといわれている。

上杉清子  
┣足利直義1306-1352    ⇔  新田義貞1301-1338  
┗足利尊氏1305-1358    ⇔  後醍醐天皇1288-1339
  ┃┣義詮1330-1367                     ┃┃      ┏憲忠1433-1455
 ┃┃┃藤原慶子                       ┃┃関東管領上杉氏 ↑      
 ┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷  ┃┃       享徳の乱1455-
 ┃┃┃┃ ┣義量1407-1425              ┃┃     ↑  ↓
 ┃┃┃┃栄子 武者小路隆光         ┃┃三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
 ┃┃┃┃   ┣━━━━ 娘         ┃┃関東公方足利持氏   
 ┃┃┃┃   ┗円満院  ┣細川澄之     ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┣潤童子 九条政基      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃  大内義興娘      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃斯波氏┣義栄  1538-1568┃┃(三好氏で養育)   
 ┃┃┃┃    ┃┣義維1509-1573      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃日野永俊娘          ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┣義晴1511-1550      ┃┃   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義輝1536-1565    ┃┃⇔ 松永久秀(1565永禄の変)   
 ┃┃┃┃    ┃┃┃┣義昭1537-1597(覚慶)┃┃  (三好三人衆:義栄派)  
 ┃┃┃┃    ┃┃┃近衛娘          ┃┃  伊勢貞親1417-1473 
 ┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸   ┃┃⇔┏北条早雲1432-1519伊勢氏   
 ┃┃┃┃  ┣政知1435-1491関東堀越公方  ┃┃ ┗北川殿  
 ┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐  ┃┃  ┣竜王丸(氏親)⇔┏小鹿範満 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃  今川義忠1436-1476駿河守護 
 ┃┃┃┃  ┃  ┃             ┃┃   
 ┃┃┃┃ ? ┣-  ┣義勝1434-1443        ┃┃満元┓   
 ┃┃┃┃ ┣宗子  ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 ┃┃管領細川持之1400-1442     
 ┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児         ┃┃ ┗細川勝元1430-1473 
 ┃┃┃┃ ┣義資  ┃┃今参局-1459      ┃┃   ┃┗政元1486-1507(明応政変)
 ┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489       ┃┃   ┣-    ┣澄之(養子)
 ┃┃┃┃ ┃  ┣┃日野富子1440-1496    ┃┃ ┏春林寺殿 ┗澄元(養子) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┃┃ ┣豊久(細川養子→出家) 
 ┃┃┃┃ ┃    ┃┃┗娘義尚夫人         ┃┃山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┣義視1439-1491(義尋)   ┃┃   
 ┃┃┃┃ ┃  ┃┃┣義材1466-1523⇔政元  ┃┃満家(山城守護)┓   
 ┃┃┃┃ ┃  ┗┃日野美子 妙音院       ┃┃管領畠山持国1398-1455   
 ┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局          ┃┃畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護   
 ┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413         ┃┃ ┗政長(勝元保護)┗畠山基家 
 ┃┃┃┃春日局                ┃┃           ┗義英
 ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418                 ┃┃   
 ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)              ┃┃  
 ┃┃┃┃┃ 日野康子   ┏━━━━━━━━━┛┃ 
 ┃┃┃┃┃ ┣-      ┃┏━━━━━━━━━┛ 
 ┃┃┣義満1358-1408   ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)  
 ┃┃┃   ┣女子    ┃┃
 ┃┃┣満詮 日野業子   ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368  
 ┃┃紀良子        ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
 ┃┃藤原仲子(崇賢門院) ┃┃┃                
 ┃┣基氏1340-1367    ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
 ┃赤橋登子        ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
 ┣直冬1327-1400      ┃阿野廉子1301-1359             
 越前局           ┣護良親王1308-1335 
                    ┣懐良親王1329-1383 
            源師親娘


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山崎の戦いでは、豊臣秀吉が本陣を置いた上宮天満宮

2017年11月24日 | 戦国時代

 上宮天満宮は、社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという。993年、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途についた。かくして道真を祀ったのが上宮天満宮の始まりとする。1568年、芥川山城の三好討伐の際に織田信長が本陣を構え、1582年の山崎の戦いの際には、豊臣秀吉が参道である「天神馬場」に本陣を置いた。秀吉は戦勝に感謝し社地を寄進して社殿を修造している。


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境野一号墳と明智光秀本陣跡

2017年11月10日 | 戦国時代

  ここ境野一号墳は1582年6月に起こった天下分け目の天王山「山崎合戦」の時、明智光秀方の本陣が置かれた場所ではないかと考えられている。『太閤記』の記述に御坊塚に光秀本陣が置かれたとあり、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられる。古墳のある場所は標高高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけていることから、羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってつけの場所であったと言える。周辺で行った発掘調査では、火縄銃の鉄砲玉も出土し、両軍の激戦の様子が窺える。合戦は圧倒的な兵力を誇る秀吉軍の勝利に終わり、光秀はわずかばかりの手勢を伴い勝龍寺城から近江坂本城に向かう途上、落ち武者狩りの手にかかり、無念の最後を遂げたと言われる。


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細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの勝竜寺城

2017年11月03日 | 戦国時代

 勝竜寺城は、京都府長岡京市勝竜寺に所在した城で、同名古刹・勝竜寺に由来する。また勝竜寺城は細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城としても有名である。1578年8月、細川藤孝の嫡男・忠興と明智光秀の娘・お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。細川藤孝は1581年に丹後に入封し、代わって村井貞勝の家臣矢部善七郎、矢部猪子兵助の両名が城主となったが、1582年本能寺の変によって明智光秀の属城となる。同年の山崎の戦いで敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城している。一方、光秀の援軍要請を断った藤孝は剃髪、家督を忠興に譲って居城を田辺城に移し、ガラシャを幽閉してしまった。その後勝竜寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃する。江戸時代に入った1633年、荒廃していた勝竜寺城の修築を行い、近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかし1649年に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。


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秀吉が光秀を討った山崎の戦い

2017年11月02日 | 戦国時代

 1582年6月2日、本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中の高松城を総大将として攻撃中であった。高松城は毛利輝元の家臣・清水宗治の城で周囲を沼で覆われた攻めにくい城であったが、秀吉は水攻めにより兵糧の補給を絶ち、落城させた。秀吉は毛利の使僧・安国寺恵瓊を通じて毛利側と和平交渉に入り、織田信長には出陣を要請した。これに呼応して織田信長は明智軍に出陣を要請した。明智光秀にとっては軍を動かす絶好の口実となり本陣の丹波亀山城から出陣し斎藤利三らの重臣と共に丹波亀山城から京に入り本能寺の奇襲は成功する。織田信長の嫡男・信忠はこのとき兄・信長を助けようと妙覚寺を出たが本能寺が焼け落ちたことを知らされ二条御所へ入った。このとき誠仁親王親子を内裏に逃がし、明智光秀に囲まれると切腹した。また、信忠に付き添っていた織田長益(有楽斎如庵)は信忠の嫡男である三法師を連れて二条御所から脱出している。 

 この反乱により織田信長が横死したことが毛利元就の耳に入れば、毛利側が強気になり秀吉の和平交渉は潰れてしまう。光秀は乱後に毛利元就に知らせるべく使者を送ったが、秀吉側に捕まり毛利側よりも先に秀吉側に伝えられた。これにより織田信長の死という弱点を毛利に知られること無く和平交渉は進められ、即座に退陣することができたのである。毛利元就は織田信長が明智光秀とともに、秀吉に加勢すべく攻めてくるものと思い込んでいたから、吉川元春、小早川隆景を中心とした毛利は所領の半分を織田家に差し出す条件で講和に応じたのである。毛利側が織田信長の死を知らされたのは和平の翌日で紀州雑賀衆の海路によるものと思われる。秀吉は講和を結ぶと直ちに東へ引き返すべく行動した。毛利家に知られること無く講和を結ぶことができたのは、軍師・黒田官兵衛の手柄であるが、織田信長の嫡男・信忠が光秀により自害させられたことも後になって秀吉に運をもたらす。結局東方へ戻った秀吉を追わなかったのは知略に優れた小早川隆景の意見であった。

 秀吉が播州の姫路城を出発し尼崎に到着した頃、織田家の重臣筆頭・柴田勝家は配下の前田利家らを上杉からの防衛として置き、京の情勢を伺い、徳川家康は三河に逃げ帰り、織田信孝は信行の遺児で明智光秀の娘を娶っていた津田信澄を討伐しようとしていた。信澄討伐後は秀吉軍と山崎で合流し明智光秀討伐を果たすのである。実は明智光秀には勝算があったのであるが、大和の筒井順慶と丹波の細川藤孝・忠興(妻は細川ガラシャ)親子は光秀に見方をしなかったために、明智軍はあっけなく壊滅状態となったのである。これが6月13日の天王山の戦いとも呼ばれる山崎の合戦である。光秀は夜陰にまぎれて近江の坂本城を目指す途中で、農民に竹で突かれて重症を負い、切腹した。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-  督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┗森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退)
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
1510-1551    ┃  ┣登久姫                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
   ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
   ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┣織 田 信 長1534-1582 (三男)      
  ┣織田信包1543-1614(五男) ↑   ┃┃┃┃┃┗6信秀1571-1592(母稲葉氏)     
  ┃         【本能寺の変】┃┃┃┃┗7信高1576-1603(母お鍋 興雲院)   
  ┃              ↓  ┃┃┃┗8信吉1573-1615(母お鍋 興雲院)  
  ┃             明智光秀1528-1582┃┃┗9信貞1574-1624(母土方雄久娘)   
  ┃                 ┃┗10信好-1609(羽柴秀吉家臣)  
  ┃柴田勝家1522-1583賤ヶ岳で敗戦 ┗11長次1574-1600(母お鍋 興雲院 関ヶ原で戦死)  
  ┃ ┣-
  ┣お市1547-1583   
  ┃ ┃┏日秀1534-1625 
  ┃ ┃┣旭姫1543-1590 
  ┃ ┃┣羽柴秀長1540-1591               やや 
  ┃ ┃┃┏やや                     ┣浅野幸長,長晟,長重
  ┃  ┃┃┗おね1542-1624(家康 尾張派 加藤清正 福島正則 浅野長政 細川忠興) 
  ┃ ┃┃  ┣-   
  ┃ ┃┗豊臣秀吉1537-1598⇔明智光秀【山崎戦】  
  ┃ ┃   ┣鶴松1589-1591  
  ┃ ┃   ┣豊臣秀頼1593-1615  
  ┃ ┣茶々-1615(近江派 石田三成 増田長盛 小西行長 毛利輝元 上杉景勝)  
  ┃ ┃ 
  ┃ ┃ 
  ┃ ┣お初(京極高次正室)1570-1633  
  ┃ ┣お江与(徳川秀忠正室)1573-1626 お振の方(信長娘)  
  ┃浅井長政 ┣-離縁         ┣為成            
  ┃   ┏佐治一成1569-1634伊勢湾佐治水軍→徳川家康側   
  ┣お犬-1582 佐治信方妻→細川昭元妻   
  ┣織田信興-1570(七男)伊勢長島一向一揆で討死→信長1574年長島一向一揆衆虐殺   
  ┣織田秀孝-1555(八男)喜六郎   
  ┣織田秀成-1574(九男)長島一向一揆で戦死   
  ┣織田長益1547-1621(母:岩室殿 有楽斎如庵)千利休に学ぶ   
  ┣織田長利    -1582(母:岩室殿)二条城で戦死   
  ┣織田信行(信勝)1536-1557末森城主 信長により誅殺  
土田御前 ┣津田信澄1555-1582柴田勝家下で養育→鳥羽城攻略→丹羽長秀に殺害される  
     ┃ ┣織田昌澄1579-1641豊臣家→大阪冬の陣で活躍→道半斎 
     ┃┏明智光秀娘 
     ┃┗細川ガラシャ 1563-1600
     ┃  ┣
     ┃ 細川忠興1563-1646 父は細川藤孝(幽斎)

     ┣織田信兼(織田信孝に仕える) 

    荒尾御前 


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村上水軍の長・武吉の決断

2017年10月25日 | 戦国時代

 村上水軍率いる村上武吉の前に立ちはだかったのは豊臣秀吉、海の関所停止命令をだしてきた。関船徴収は水軍が数百年前から勝ち取ってきた既得権であり、1586年秀吉は完全否定したのである。海賊王・村上武吉はどのように決断したのであろうか。海賊の歴史は謎であるが、中央政府にとっては悩みの種であったことは間違いない。海の民の掟で生きていた村上水軍が歴史に現れたのは室町時代である。村上水軍が支配していたのは西は上関、東は塩鮑諸島までの間で、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏で成り立っていた。関銭を払うなどして村上水軍から過所旗を与えられると自由に瀬戸内を通行できた。彼らが瀬戸内の王者になれたのはなぜか。村上武吉率いる能島水軍の本拠地は能島で周囲わずかに500mで、水流の速さは約10ノット。決して穏やかではなく、島々が密集する地域で、卓越した水船技術を手に入れた。所有船数は不明である 見近島から発見された20%に及ぶ中国から輸入した陶磁器の破片などから、その交易量の多さを物語っている。

村上水軍博物館にある安宅船・関船・小早船

 1555年武吉22歳のとき、毛利元就と陶晴賢による厳島の戦いでは毛利元就の息子・小早川隆景が音戸の瀬戸を通過して広島湾に入ってくる能島村上武吉を封じ込めようとした形跡がある。毛利元就は村上武吉を味方に引き入れようと調略にかかった。この情報は中央の13代将軍足利義輝の知るところとなる。出雲の尼子と安芸の毛利との争いの仲介にも村上武吉に登場願おうとしたのである。

大島と伯方島の間にある能島 能島城の遺構が(400もの岩礁ピット)残されている

 ところで、村上水軍、因島、来嶋、能島は同族か?それぞれの系譜が協力しながら航行安全を守り、通行料をとるビジネスを産むために3氏が協力体制を整えただろう。戦国時代は水軍というという言葉はないから当時は海賊というのが正しいだろう。権力者に従わなかったから賊なのである。戦国時代の終盤になると危機が訪れる。中国地方は毛利元就から孫の代の輝元にかわり、近畿東海地方を抑えたのは織田信長である。関所を廃止し、寺社の役をなくすという楽市楽座を実施し、1576年には大坂を拠点とした本願寺を責め立てていた。毛利輝元は本願寺を救うべく援助物資の運搬を村上水軍に依頼した。そこで織田水軍とぶつかったのが木津川の戦いである。ほうろく火矢により織田軍は惨敗したことで村上水軍の名は天下に轟いた。来るべき毛利との戦いに武吉の力を必要と考えた織田は武吉に誘いをかけている。中国攻めで織田の意を受けて動いたのが羽柴秀吉であり、本格的な村上水軍調略にかかっている。秀吉はさっそく武吉の息子・元吉に書状を送った。実は毛利につこうとする武吉と織田につこうとする元吉の間で意見がぶつかっていた。それを知った秀吉は調略に躍り出たのである。さらに秀吉は来嶋村上家の村上通総の調略に成功している。かくして村上水軍の結束が、織田秀吉という強大な圧力の元、崩れ始めた。実は秀吉は来嶋通総の弟を姫路に呼び、繁栄した町を見せている。

 このとき本能寺の変が起こり、秀吉の毛利攻めは中断し、上述の危機は一瞬去ったが後に重大な選択を秀吉から迫られる。秀吉は本能寺の変の3年後には関白に就任し天下人となった。日本を一つにまとめていく政策を始めた。太閤検地は秀吉自身が石高を正確に把握できるようにしたもの。つまり陸地の支配である。そしてその支配は海にも向けられた。海陸役所停止事という令をだした。つまり関銭の中止を命令してきた。村上武吉は秀吉の命に逆らい関銭行為はやめなかったのである。秀吉はついに動き、武吉を瀬戸内追放にたのである。そして福岡県糸島半島に移された。その4か月後に海賊禁止令がだされている。

 1598年秀吉が死去し、2年後関ケ原の戦いが起こると、武吉はこの機を待っていたかのように瀬戸内海の興居島に移り、瀬戸内を取り戻そうとした。そして旧知の仲間に説得を試みた。しかしその翌日突如武吉は夜襲にあった。書状相手の裏切りによるものであった。瀬戸内海にある山口県周防大島に移り住んだ武吉は夢破れて、海賊ではなく毛利家の家臣として生き、1604年ここで眠ることにより海賊の歴史に幕をおろした。

金蓮寺(村上家の菩提寺)にある因島村上水軍の墓 

 

  北畠親房              乃美宗勝の妹
     ┗北畠師清(信濃村上氏)    ┣景隆
            ┣義顕:因島 ┏村上吉充?-? 青影城主
            ┃      ┗村上亮康?-1608
           ┣顕忠:能島 村上武吉1533-1604
           ┃       ┣元吉1553-1600
           ┃       ┣景
           ┃       ┣景親1558-1610
           ┃       ┣琴姫(養子:実父は村上通康)
           ┃       ┃┣秀元(毛利輝元養子 長府藩祖)
           ┃   (来島城主)┃毛利元清1551-1597(穂井田家)
           ┃   村上通康┃
           ┃  1519-1567┣娘 
           ┗顕長:来島  ┣得居通幸1557-1594        
                           ┣来島通総1561-1597当主
                  ┃・・村上吉継? 当主補佐 甘崎城本拠
                         河野通直の娘


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奥州伊達光宗公の霊廟・園通院・三慧殿

2017年10月18日 | 戦国時代

日本三景・松島の瑞巌寺に隣接した臨済宗の寺院で、伊達政宗公の嫡孫「光宗公」の菩提寺でもある。

本堂・大悲亭

 

伊達光宗の霊廟・三慧殿


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奥州伊達政宗の長女・五郎八姫

2017年10月17日 | 戦国時代

 日本三景のひとつ奥州松島へ。そこで見つけたのが伊達五郎八姫の墓所・天隣院。いろはひめと読むこのお方、1594年-1661年は、伊達政宗の長女として京都の聚楽第屋敷にて生まれ、母は正室の愛姫、院号は天麟院で徳川家康の六男・松平忠輝の正室である。政宗と正室の愛姫との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたであろうが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。五郎八姫は、聚楽第から伏見、大坂と各地を転々としたが、1599年、徳川家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約。1603年には伏見から江戸に移り、1606年に忠輝と結婚した。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。1616年、22歳のときに忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は再婚することなく仙台で暮らした。

                        伊達輝宗1544-1585 
                           ┣伊達政宗1567-1636 
             義姫(最上義光の妹)┣五郎八姫1594-1661(松平忠輝の正室) 

103後土御門天皇(成仁1442-1500)  ┃原田甲斐宗輔1619-1671

┗104後柏原天皇1464-1526     ┣伊達兵部宗勝1621-1679   浄眼院
 ┗105後奈良天皇1497-1557     ┣伊達忠宗1600-1658(2代)    ┣伊達綱村1659-1719(4代藩主)
    ┗106正親町天皇1517-1593  愛姫┃      ┣伊達綱宗1640-1711(3代仙台藩主)
       ┗誠仁親王(陽光太上天皇)    ┣光宗    ┣伊達宗倫1640-1670 ⇔ 伊達安芸宗重1615-1671
       ┃                  振姫1607-1659┣伊達宗房1646-1686      ┗宗元1642-1712
       ┃           家康-秀忠┛      ┏貝姫┗吉村1680-1752(5代)柴田朝意1609-1671
            ┃                 ┃側室        佐竹親直1566-1615┛       
107後陽成天皇┛                 ┗櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
 ┣聖興女王  1590-1594             ┣光子内親王1634-1727
 ┣清子内親王1592-1674             ┣良仁親王  1638-1685(111後西天皇)
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680  ━━━━┛
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)    ┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)    ┃
 ┃       ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)   ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628  ┏━━━━┛
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)  ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王      ┃        
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)    ┃
近衛前子(中和門院)┣常子内親王       ━┛  
         ┣識仁親王(112霊元天皇)
    園国子(新広義門院

 

天隣院・伊達五郎八姫の廟所および菩提寺

ここ霊廟背後の凝灰岩壁を掘削した洞窟群には

伊達政宗の三男・宗清 四男・宗泰および10人の殉死者がの供養塔がある。


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奥州伊達政宗の御廟・瑞鳳殿

2017年10月16日 | 戦国時代

 瑞鳳殿は、仙台・経ケ峯にある伊達政宗を祀る霊廟である。瑞鳳殿本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並ぶ。仙台藩初代藩主・伊達政宗は生前に、遺骸を仙台城下町南西縁にある経ケ峯に葬ることを遺言し、1636年没した。経ケ峯は仙台城本丸と同様に青葉山段丘にあり、政宗の後を継いだ第2代藩主・伊達忠宗は政宗の遺言に従い、1637年10月、政宗の御霊屋を経ケ峯の東部に、正面が仙台城本丸を向くよう西向きに建立し、「瑞鳳殿」と命名した。同年、瑞鳳殿の隣接地に政宗の菩提寺として「瑞鳳寺」も創建され、仙台藩領・平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像を本尊とした。瑞鳳殿は、本殿・拝殿・唐門・御供所・涅槃門からなり、桃山文化の華麗な建築を誇った。


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奥州伊達家・公子公女廟御子様御廟

2017年10月15日 | 戦国時代

伊達政宗公の御廟・瑞鳳殿への参道途中にあるのが、公子公女廟・御子様御廟で、1713年以降に設けられた墓所。五代藩主・伊達吉村以降、六代・宗村、七代・重村、十一代・斉義、十三代・慶邦ら歴代藩主の若くして死去した公子公女が埋葬されている。


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奥州伊達家創建の瑞鳳寺

2017年10月12日 | 戦国時代

 瑞鳳寺は、宮城県仙台市の経ケ峯にある臨済宗妙心寺派寺院。開基は伊達忠宗、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像。江戸時代初期の1637年に、仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって、藩祖・伊達政宗廟「瑞鳳殿」造営された際に創建された。境内には、殉死した家臣や、戊辰戦争および西南戦争での戦死者らの墓がある。


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奥州伊達家の居城・仙台城

2017年10月11日 | 戦国時代

 奥州伊達政宗は、出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主であり、仙台藩の初代藩主である。居城跡は仙台駅のすぐ西側に位置し仙台の街並みが一望できる場所にある。幼名は梵天丸、幼少時に患った天然痘により右目を失明したことから後世独眼竜の異名がある。1567年、出羽国米沢城で伊達輝宗の嫡男として、正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。「政宗」は輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたものである。 

 

                        伊達輝宗1544-1585 
                           ┣伊達政宗1567-1636 
             義姫(最上義光の妹)┣五郎八姫1594-1661(松平忠輝の正室) 

103後土御門天皇(成仁1442-1500)  ┃原田甲斐宗輔1619-1671

┗104後柏原天皇1464-1526     ┣伊達兵部宗勝1621-1679 浄眼院
 ┗105後奈良天皇1497-1557     ┣伊達忠宗1600-1658     ┣伊達綱村1659-1719(4代藩主)
    ┗106正親町天皇1517-1593  愛姫┣伊達綱宗1640-1711(3代仙台藩主)
       ┗誠仁親王(陽光太上天皇)    ┣伊達宗倫1640-1670 ⇔ 伊達安芸宗重1615-1671
       ┃                   ┣伊達宗房1646-1686      ┗宗元1642-1712
       ┃                 ┏貝姫┗吉村1680-1752(5代)柴田朝意1609-1671
            ┃          ┃          佐竹親直1566-1615┛       
107後陽成天皇┛          ┗櫛笥隆子1604-1685(逢春門院)
 ┣聖興女王  1590-1594      ┣光子内親王1634-1727
 ┣清子内親王1592-1674      ┣良仁親王  1638-1685(111後西天皇)
 ┣政仁親王(108後水尾天皇)1596-1680 
 ┣尊英女王   ┃┃┣興子内親王1623-1696(109明正天皇)
 ┣近衛信尋   ┃┃┣昭子内親王1625-1651
 ┃       ┃┃┃ ┣近衛基熙1648-1722(左大臣) ┓
 ┃       ┃┃┃ ┣好君(伏見宮貞致親王妃)    ┃
 ┃       ┃┃┃┏近衛尚嗣(関白・左大臣)    ┃
 ┃       ┃┃┃┗泰姫君(水戸藩主・光圀室)   ┃
 ┣高松宮好仁親王┃┃┣高仁親王1626-1628  ┏━━━━┛
 ┣一条昭良   ┃┃徳川和子(東福門院)  ┃
 ┣貞子内親王  ┃┣紹仁親王(110後光明天皇┃
 ┣庶愛親王   ┃┣守澄法親王      ┃        
 ┣尊蓮女王   ┃園光子(壬生院)    ┃
近衛前子(中和門院)┣常子内親王       ━┛  
         ┣識仁親王(112霊元天皇)
    園国子(新広義門院


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笠加熊野比丘尼関係資料 宇喜多直家

2016年08月23日 | 戦国時代

2016/8/21 讃岐へうどんツア~目的で行ったのですが、同行者のある女性の実家に「笠加熊野比丘尼関係資料」 という碑があるというので、その実家へ寄ってみた。碑の紹介は以下で、大凡の内容は、同行者のおばあさまにあたる御仁に聞いた内容である。天文年中の1535年頃、ここ笠加(瀬戸内牛窓)で、宇喜多直家は尼であった母親の妹と幼少期の5歳から11歳までの6年間過ごしたという。当時、宇喜多氏は児島高徳の子孫と称したりしていて、新熊野山五流尊瀧院に児島高徳の生誕地の碑があるらしいが、詳細は不明。


---------------- 宇喜多直家-------------------

謀略家で知られる宇喜多直家であるが、その腕前はというとこの新聞記事に代表される。そして毛利家との結びつきによって備前での地位を固めた。ところが織田信長が毛利と敵対すると、すぐに中立の立場をとり、両方を牽制しながら結局は織田側に寝返ったが、すべては宇喜多家存続を守るための戦略である。先に次男・秀家を紹介したが、死後も秀吉に取り上げられて5大老にまで上り詰めたことを考えると直家の手腕に驚く限りである。

 岡山城、それは南北朝時代(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族上神高直が石山台に城を築いたのが最初と「備前軍記」に書かれ、その後戦国時代まで城主は明らかではない。戦国時代(1521-1528)には、金光氏支配し、1570年宇喜多直家が金光宗高に代わってこの地を支配した。宇喜多直家は備前守護代・浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張し、1573年居城である亀山城(沼城)から石山城に入城し、城の改築と城下町の形成を行った。この頃の石山城(岡山城)には、北方の山裾にあった西国街道が、城下に導かれ、備前福岡、西大寺などから商人を呼び寄せ、流通主導による経済振興政策がとられた。信長が安土城を築城する3年前のことである。天正3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐し、事実上の下克上を行いやがて備前、美作、さらに播磨、備中の一部を支配下に置いた。この下克上の連鎖は宇喜多直家が1559年に舅の中山信正と島村観阿弥を謀殺したことに始まる。この二人は浦上宗景の重臣であったが、直家は酒に酔った信正を殺した上、援護に駆けつけた観阿弥も討ち取った。そして隣国備中で勢力を伸ばしていた三村家親も謀殺、その子元親をも1567年に破った。この時点では直家はまだ浦上宗景の家臣であったが、1569年に宗景に対して反旗を翻した。こうして備前・備中を支配すると美作まで勢力を伸ばすために城を岡山に移し、毛利輝元と同盟を結んでいる。これにより毛利輝元の助けを借りて三村元親を討ち、主君の浦上宗景をも打倒した。つまり下克上の裏側には主君と対立する立場の相手と同盟を結んで見方につけるというような戦略眼があるのである。

宇喜多興家-1536浦上氏家臣
 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 
┃  ┣-
 
┗宇喜多直家1529-1582
  
┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641
  ┃ ┣秀継高1599-1657
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
   ┣忠家1533-1609
   ┣春家?
  円融院1549-?(三浦氏) 


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黒田官兵衛47 有岡城主・荒木村重

2015年07月18日 | 戦国時代

 去年の大河ドラマでも紹介された、荒木村重といえば織田信長に対する謀反で知られている。JR伊丹駅前にあるのが有岡城址、行ってきました。ということで城主・荒木村重について解説です。村重はもともと波多野氏の出身であり、摂津に32万石を構えた。波多野氏は平安時代の末期から相模国を本拠地とした豪族という古い歴史を持ち、1580年まで続いたのであるが、三木合戦の最中に壊滅した。時の城主は波多野秀治といって、娘は別所長治の正妻である。波多野秀治はもともと織田信長にくみし、明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に反抗する豪族を討伐を担当していたが、1576年1月に突如謀反に走り、光秀を撃破している。(黒井城の戦い)。織田・毛利の天王寺砦の戦いの直前のことである。激怒した信長はさらなる大軍を投入してきたことにより、地の利を活かした攻撃もやがて衰え、光秀の調略で織田氏に寝返った豪族もでたことから1579年に降伏した。このとき波多野秀治は安土に送られて6月2日磔に処され、波多野氏は途絶えたのである。

 さて荒木村重が波多野氏出身であることを踏まえて、織田信長への謀反を記載する。荒木村重が謀反を起こしたのは1578年7月、終結は1579年10月19日である。黒井城の戦いの頃はともかく、波多野秀治が織田側に抵抗した後半部分は、村重の謀反とリンクしている。このあたりが村重謀反の理由なのかもしれない。波多野秀治の娘は別所長治の正妻である。播磨一帯を制していた別所氏と大坂本願寺の結びつきは強く、別所氏と結びつきが強い波多野氏も大坂本願寺を加勢するのは当然であり、織田信長と対立するのは必然であった。かくして別所・波多野・荒木の一族が団結して織田に抵抗する流れが発生していったと考えるのは当然であろう。荒木村重が有岡城に篭城して1年3ヵ月後の1579年9月、村重が城を抜け出したことで抗戦意欲はなくなり、後の指揮を任されていた荒木久左衛門は11月に開城に及んだ。このとき荒木一族の助命を条件に村重説得を申し出たが、説得できずに荒木久左衛門本人も尼崎城に立て篭もり、結局村重の妻・だしを含む一族全員が処刑された。総勢125名に及んだというから信長の憤りがどれほどだったかが伺える。村重が篭城している間に、黒田官兵衛は説得のために一人交渉に赴いたが失敗、長きに及んで捉えられたことは周知のことである。


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