平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

世界遺産に登録された沖ノ島

2017年12月21日 | 大和王朝期

 2017年7月沖ノ島は世界遺産に登録された。この絶海の孤島は古くから立ち入りを制限されている。常駐しているのは福岡宗像大社の神職ひとりである。毎朝禊を行うという神の領域では、日本の夜明けとともに始まった祈りがある。この祈りを担ったのが宗像氏といわれ、胸に刻んだ入れ墨からその謂れがある海の民である。宗像氏の古墳には華麗な装飾が施され九州で独自の文化が花開かせ、古くから天皇家との深い繋がりで知られている。

 日本書紀には天照大神が宗像三女神、市杵嶋姫・田心姫・なぎ津姫を産んだとの記載がある。それぞれは辺津宮、中津宮、そして沖ノ島にある沖津宮に祀られている。今回この三つの社と古墳群が世界遺産に登録されたのである。この中ですべての根源とされるのが沖ノ島である。沖ノ島で行われてきた祭祀の跡は4世紀から9世紀頃のもので、一木一草たりとも持ち出してはならないという掟が沖ノ島を太古のままの姿に留めてきたのである。1954年沖ノ島に初めて学術調査がはいり、12回にも及ぶ調査でその重要性が明らかになった。林立する巨岩の元から次々と発掘された遺品、国宝金製指輪、金銅製織機、金銅製龍頭、は500年もの間続けられた来た祭祀の姿を現している。始まりは4世紀の古墳時代、岩に神が宿るとして古墳から遺品が出土、7世紀の飛鳥時代にかけては岩肌からペルシャガラスなど海外からの品々が見つかった。そして9世紀の平安時代にかけては祭祀は、神社の原型とも言われる岩を離れた平地で行われた。では誰がこのような大掛かりな祭祀を行ったのか。第二回の学術調査でそのヒントが見つかった。それは岩の間から出てきた数多くの鏡・三角縁四神文帯二神二獣鏡である。これは大和政権が手に入れて畿内で保管していた鏡であることから、大和政権が国家的祭祀として行ったことがわかる。では何故か、沖ノ島は大和から瀬戸内、関門海峡を経て朝鮮半島へ行くまでの最短ルート上にある。従って海上交通の安全を祈願する意味があったと思われる。

 4世紀大和王朝は海による交易を重視し大きな力を手に入れた。海上交通祈願の一例が瀬戸内の大飛島にもある。奈良三彩は中国に倣って作られた日本発の彩色の陶器で、沖ノ島だけではなく、ここでも多く出土した。

 宗像大社の拝殿の額に刻まれた奉助天孫は、宗像大社の役目を示す言葉である。神宝館には沖ノ島で見つかった数多くの国宝が収められている。なかでも最も重要な宝は鉄の板で、沖ノ島の祭祀の始まりを示す重要な物証である。このころ近畿地方は倭と呼ばれて大きな力を持っていた。その大王の墓から出土するのが、青銅をはるかに凌ぐ鉄の甲冑、剣である。古代も今も朝鮮半島は玄界灘を隔ててすぐ先にある。倭を出発した船は釜山の近くに到着、伽耶は当時頻繁に交易した相手である。伽耶を代表する古墳には大成洞古墳がある。この古墳から大量に出土したのが鉄の板である。倭では良質の鉄を作るのが難しくはるばる伽耶までやってきたのである。朝鮮半島西部のかつての百済の地でも倭人の足跡・前方後円墳がある。百済の通常の古墳よりもはるかに大きい古墳が10基以上見つかっている。葬られているのは、百済の官僚となった倭人や交易に携わった百済の実力者など諸説ある。何故百済に倭の古墳を造る必要があったのか。

 4世紀朝鮮半島は緊張状態にあった。高句麗が南に侵攻し百済、新羅が存亡の危機に立たされた。そこで百済は倭と結んで高句麗と対抗したと考えられる。古墳は倭との絆を高句麗にアピールするためのものである。さらに百済は倭に鉄を供給することで倭の軍事力強化を図ったと考えられる。大和政権はそれをどん欲に吸収し権力基盤を固めていった。百済の主要都市であったプヨ、ここには6世紀の武寧王陵がある。武寧王は百済人の母の元倭で生まれた人物である。墓の内部はレンガ造りで、棺は日本からもたらされた高野槙で作られ、その親密性を物語っている。

 大島には宗像三女神・なぎ津姫を祀る中津宮があり、ここ遥拝所からは沖ノ島を祈りをささげる。沖ノ島は女人禁制であるために、大島遥拝所に足を運んだのである。

 九州北部の宗像は海の民の本拠地であった。近年この地で弥生時代の田熊石畑遺跡が発見された。これは沖ノ島の祭祀遺跡よりも500年以上前の遺跡である。ここからは多量の青銅器が出土、この宗像では常に先進的な技術や文化が入ってきている。つまり宗像は弥生時代から日本で最も進んだ地域の一つだった。それを支えたのは宗像氏の高度な航海術である。ところが6世紀になって宗像氏は大和勢力とある勢力との間で決断を迫られることとなる。それは九州の豪族たちで、古墳は華麗な装飾で飾られ、大和とは違った高度な文化を築いていた。彼らの古墳の代表的な図柄が船。中でも九州の八女を支配していた磐井氏は多を圧倒していた。石人、石馬は磐井氏の古墳の周囲におかれた巨大な像で、大和政権の埴輪に相当する。磐井氏は朝鮮半島との独自の交易ルートを持ち、財力・軍事力を持ち合わせていた。かくして大和王朝にとっては驚異的な存在であった。そして6世紀初頭527年に大和政権はこの地に攻め入った。磐井の乱である。攻撃の理由は、磐井氏が新羅と通じて反逆を企てたというもの。当時大和は百済との交易を独占しようとしていたから、この磐井と新羅の繋がりを見過ごすことはできなかった。結果、磐井は負けてことごとく石人は破壊された。一方宗像は大和に就いたために生き残ったといえる。

 9月には宗像最大の祭が始まる。大島の漁師たちは沖ノ島に集まり、漁師たちの手で神が海を渡る みあれ祭である。沖ノ島の田心姫と大島のなぎ津姫とが宗像大社に向かうのである。

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大分温泉旅館 久住小笠原

2013年11月01日 | 大和王朝期

宮崎神話巡りをほぼ予定とおり終え本日は大分にある久住小笠原で泊

大分の温泉といえば湯布院があまりにも知られていますが、久住はそのすぐ南に位置します

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阿蘇外輪山・天空の道

2013年11月01日 | 大和王朝期

 ここは阿蘇外輪山の一部でラピュタの道とか天空の道と言われているところです。339号線、通称ミルクロードを北上して阿蘇カントリークラブの北側10kmくらいのところでしょうか。阿蘇山頂の噴火絵よりも断然感動的でした。ところで、阿蘇山、昔はロープウエイでの登頂のみでしたが今では車で行くことができます。ただし硫黄の濃度が5ppmを超えると危険と言うことで入場口が閉鎖されます。今日は絶好の条件でしたので、山頂まで行ってきました。後ほどまた。

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花房台温泉・狗の郷にて

2013年10月30日 | 大和王朝期

 ここは熊本県、明日の高千穂巡りのために宮崎から一気に移動して狗の郷という旅館に宿泊しています。

特徴は、全てをわんこと一緒に楽しめます。すべての食事を自由にオーダーできます。

リンパマッサージを受けることができます。わんこのトリミングもついてます。

中庭のライトアップも楽しめます。詳細は別途ということで速報です。

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葛城氏再考・蘇我氏の祖

2012年09月23日 | 大和王朝期

 蘇我氏の祖とされるのは武内宿禰という人物である。 第8代孝元天皇の孫にあたり、9人の子から27の氏族を誕生させている。このうち、蘇我石河宿禰の末裔が蘇我氏とされている。武内宿禰は成務天皇の時代に大臣に任命され、仲哀天皇急死によって摂政を務めた神功皇后を補佐した。武内宿禰には多くの伝承があり、蘇我馬子のモデルであったり、藤原鎌足のモデルであったりする。不比等の父・鎌足が孝徳天皇に仕えたありさまが竹内宿禰のそれに似ているというのが理由である。武内宿禰の子・蘇我石河宿禰が蘇我氏の初代であり、この人物の末裔とされるのが蘇我・川辺・田中・高向・小治田・桜井・岸田臣の7氏であり、これらは蘇我氏と血縁関係があったと見れる。記紀において蘇我という姓を名乗る最初の人物は蘇我満智宿禰で、履中天皇の時代に出てくる。次は雄略天皇の時代にでてくる蘇我韓子宿禰である。紀氏や大伴氏とともに新羅遠征に派遣されて現地で殺害されている。そして次が宣化天皇の時代の蘇我稲目となる。しかし、満智、韓子、稲目の3人の系譜関係はまったくわからない。つまり記紀では蘇我氏はわずかしか登場せず、極めて影が薄いのである。蘇我稲目以降、蘇我氏は急速に大和王朝に台頭するのであるが、実情は謎に包まれている。

 蘇我稲目は宣化天皇のときに大臣に任命されて、大伴金村と物部麁鹿火などの大和政権の大連と並ぶ地位に加わった。蘇我稲目が大和政権に突如台頭した理由として推定されているのが、財政担当として大きな功績をあげたことである。雄略天皇のときに、蘇我氏は三種類の倉(三蔵)の管理を任されていたことがその理由である。そして蘇我稲目の飛躍的な発展を裏付けるのが、二人の娘を欽明天皇に嫁がせたことである。小姉君は5人、堅塩媛は13人の子供を生み、稲目を外祖父に持つ皇子、皇女は18人にも及んだ。そして3人の天皇が生まれている。 聖徳太子の父・用明天皇や、崇峻天皇、推古天皇である。この時代はまさに蘇我氏の絶頂であったといえる。本来、天皇と姻戚関係が結べるのは、葛城氏、和邇氏、息長氏などの臣姓に限られていて、大伴氏や物部氏などの連姓の豪族から妃がでるのは困難であった。その点、新興豪族ではあるが臣姓であった蘇我氏から欽明天皇に妃をいれることができたのは、理解できるが、新興勢力であるだけに謎はぬぐいきれない。ともかく、大王家と蘇我氏の結びつきは急速に親密になっていた。

蘇我氏を辿れば 剣池島上陵に眠る第8代孝元天皇 に行き着く

 

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葛城氏再考・葛城の諸神

2012年09月22日 | 大和王朝期

 葛城の諸神は地域の狭さに比べて多様である。葛城坐火雷神社は尾張氏、鴨都波 八重事代主神社は鴨族、高天彦神社は葛城族が祭祀集団である。が、その歴史的諸役割ははっきりしない。これらを解明すべく、主要神社である鴨都波神社、高鴨神社、一言主神社の歴史的性格が詳しく整理されている。葛城国にある天皇陵といえば、孝昭・孝安・孝霊天皇陵が該当し、それぞれ掖上博多山上陵、玉手丘上陵、片丘馬坂陵とよばれている。そしていずれも没年齢は100歳以上で113歳、137歳、128歳となっている。神武天皇が即位したのは西暦前660年となっている。これは中国の辛酉革命説による。君主の徳がなければ陰陽の調和が乱れて天命がかかり革命が生じるが、それを占星と関係深い暦数暦運によって推測するというものである。辛酉の年に革命が起き、甲子の年には諸政の変革が起こるとしているが、60年ごとに回ってくる辛酉・甲子のたびに起こるのではなく、7元、21元年に大革命が起きるという。 元は5x12年=60年。 日本において暦が伝わった7世紀はじめの辛酉歳は推古天皇次代の601年である。ここから遡ること21元が西暦前660年になり、神武天皇即位はこうして割り付けられたのである。そして実年代と日本書紀紀年との数百年のずれについては古い天皇の創出によって修正されたと考えられる。これが欠史8代といわれる天皇が架空の人物として生み出された理由である。また天皇の没年齢を大きくのばして14人中10人もが100歳以上となっている所以である。

掖上博多山上陵

 

玉手丘上陵

  

片丘馬坂陵

 

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葛城氏再考・雄略没後

2012年09月18日 | 大和王朝期

 雄略天皇が没した後、葛城韓媛が生んだ白髪王子が大王の座に着き、清寧天皇として即位した。これにより葛城に繁栄の日々が巡ってくるのである。大連大伴室屋、大臣平群真鳥らが推したのであるが、後継の王子がなく治世も5年と短かった。しかし葛城出自の意義は大きく、後に父母ともに葛城系である億計・弘計王子が見出されることとなる。両王子の父である市辺押磐皇子が雄略に殺されたときに従者の日下部連使主・吾田彦親子に連れられて丹後国に逃れ、ついで播磨赤石郡にはいって縮見屯倉で仕えた。葛城系垂見宿禰が丹波王国と深くつながっていたことに理由がある。後に大和に戻った両王子は清寧天皇の死後即位問題が起こるが、その間同母姉の飯豊青王女が忍海角刺宮で政治をとっていたという伝承がある。忍海には5世紀後半に築造された石光山古墳群があり地光寺跡もある。 実態はつかみにくいが両王子は大王位についた。父・市辺押磐皇子の陵墓は滋賀県のケンサイ塚古墳とみられている。

 この頃大連大伴室屋が権勢を振るい、仁賢天皇と春日大郎女が生んだ小泊瀬王子を擁立して武烈天皇として即位させたのは平群真鳥である。また大伴室屋のあとを継いだ大伴金村は後に平群氏を倒し、物部氏・蘇我氏とともに継体天皇を擁立しようとしていた。葛城系の大王が清寧・飯豊・顕宗・仁賢と続いたが、かつての葛城の首長一族の復活をもたらしたわけではない。ひとつは蘇我首長の勢力拡充である。これは新沢千塚古墳や細川谷古墳群で理解できる。蘇我氏の葛城蚕食は蘇我稲目の宮廷における奮闘が契機になっている。というのは蘇我氏はすでに宣化天皇・大王高田王子と姻戚関係になっていた可能性があるからである。宣化天皇の次の欽明天皇の子に宗賀之倉王の名がみえる。母は日影王女(宣化天皇の娘)で、日影王女は欽明の妃・堅塩媛・小姉君とは母が別で、宗賀之倉王とよばれたのが母方の祖母の出自に由来するのならば、蘇我氏はすでに高田王子に一族の娘をいれていたと考えられる。さらに宣化・大王高田王子や安閑・大王勾王子の名も葛城の地名に由来する。勾は曽我の地のすぐ西隣であり、さらに西方の葛城川を越えたところが高田である。

飯豊青皇女は飯豊天皇として祀られている

 

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葛城氏再考・葛城殲滅

2012年09月17日 | 大和王朝期

 安康天皇を殺害した眉輪王葛城が匿った罪により一気に葛城円を倒す口実ができた。翌日幼武皇子に流れが大きく傾くと大伴、物部、平群をはじめ、周りの小豪族も援護の兵を集め1000人を上回る軍兵ができあがったのである。葛城を倒して次期大王になるときが迫ってきた。一気に葛城を襲った連合軍は、葛城円の屋形を囲み、勝敗は歴然としていた。円は最後に交換条件を出して命乞いをしたようであるが、何の意味もない申し出は一笑に付されている。その後葛城円は刀子を喉に刺して自決した。葛城円の娘・韓媛はしばらく石のように心を閉ざしていたが、身狭青の恋人との交流でやがて口を開くようになった。幼武皇子が韓媛との子を後の大王にすると、葛城の一言主神社に誓ったころから、寵愛する妃となったのである。大伴、物部、平群、和珥をはじめ諸豪族が皇子を大王に推したのは言うまでもない。いままでの功績を称え、平群には大臣を、大伴・物部には大連を与えた。これが姓制度の発端といっていい。宮廷内部には王権の属する記録をつかさどる文や、食事に関する管理を行う膳などの専門氏族をおき、財政に関しては伴造として仕えた。これは後の官司制度への幕開けといっていい。雄略天皇が古代の中でも画期的な大王として語られる所以はこういうところにあるのである。

 雄略天皇として王権強化を図り、東国、毛野など支配下においたが吉備国だけは別であったことが、吉備の造山古墳(全長360mの日本四位の前方後円墳)から伺える。瀬戸内沿岸には最大の船団を有し朝鮮半島との交易により財は豊かであった。その吉備は葛城と姻戚関係を結んでおり雄略天皇をよく思うはずはない。後に新羅征伐に情熱を燃やしたとき新羅と通じた吉備上道田狭が謀反をはかっている。雄略には韓媛との間に生まれた白髪皇子という悩みの種もあった。生まれながらにして虚弱体質で大王の器ではなかった。正妃・若日下部命は亡くなり、その後韓媛も亡くなり老いた自分を感じていた頃、吉備稚媛との皇子・星川稚宮皇子に謀反の疑いがかかった。大王になる器のない白髪皇子にかわって擁立しようと意を通じる氏族を動員しようとした後、物部目と大伴室屋は、星川稚宮皇子親子を殺害した。その直後、雄略天皇は亡くなった。後に王位について白髪皇子には妃も子もなく王家の空白の次期が生じる。播磨にいた市辺押磐皇子の二皇子が顕宗天皇、仁賢天皇として受け継ぐが存在感は薄く、その後の継体天皇が新王朝を樹立したのである。

吉備国権勢誇りの象徴である造山古墳

 

 造山古墳は宮内庁管轄下にはおかれていないので古墳内には自由に立ち入ることができます。丘陵部は散策ができるように手入れされ、墳頂部に置かれた石棺も間近に見れます

 

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葛城氏再考・境黒彦皇子と眉輪王

2012年09月16日 | 大和王朝期

 幼武皇子は正妃の他に吉備稚媛を娶り身篭っている。また春日和珥の娘・童女君も妃となりすぐに身篭った。しかし葛城韓媛との話は膠着状態である。 大王や市辺押磐皇子側の葛城の勢力は大きく、韓媛との婚姻になかなか応じようとせず、葛城山に守りの要塞の建設を行い始めた頃、俄かに兄・境黒彦皇子が王位を狙い浮上してきた。王位継承権からいえば幼武皇子よりも優位である。幼武皇子は安康大王、葛城円と対抗すべく、警護隊長・大伴談の兄で大王の警護隊長を務める大伴室屋や、中立の立場を保っている平群真鳥を見方に引き寄せ、河内湖の交易権のほとんどを持っている物部目も見方にした。もちろん東漢つかを長とする渡来系氏族は片腕となっている。しかし大王が境黒彦皇子と手を組み韓媛を手中にして、幼武皇子討伐の詔を出せば、幼武皇子にとっては窮地である。

 幼武皇子はいまや政策に関しては昆伎王からかなりの教えを乞い、大草香皇子に仕えていた難波吉士日香香の子が生き残っているという情報を得て東漢に調べさせた。大草香皇子は葛城円や河内湖周辺の氏族と権利争いをし、葛城円はそれに乗じて大草香皇子を滅ぼしたのであるが、皇子が物部と組み、河内湖の開拓を行うことが気に入らなかった。難波吉士日香香は、大草香皇子に殉死し、その子・難波吉士日木先が物部の配下となっていたのを見方に引きいれ幼武皇子の舎人とした。目的は眉輪王を使って大王を暗殺することにある。つまり、難波吉士日香香は眉輪王の父・大草香皇子に使えていたが大草香皇子が穴穂皇子(今の安康天皇)に殺されたとき殉死した。

 その後、母・長田大郎女は安康天皇に娶られたが、自らの意思も働いたという。つまり眉輪王は母に捨てられたといってもよい。眉輪王は幼い頃からそういう環境の中で何も知らずに育ったが、間もなく事情を理解するようになると鬱病になり、今では気が狂ったような振る舞いをしている。難波吉士木先が身狭青から全てを知らされたとき、自ら眉輪王の舎人になることを志願したのである。つまり眉輪王の狂気を治し、眉輪王に父の仇を取らせることが自らの父の仇をとることにもなるというわけである。幼武皇子の正妃・若日下部命が眉輪王を憐れみ、大王の妃になった長田大郎女を憎んでいるのを知った難波吉士木先は、若日下部命までもが暗殺の後押しをしているようにも思えた。難波吉士木先は名を偽って、眉輪王の舎人となったが、間もなく眉輪王は気など狂ってはいないことを感じると、身を明らかにした。今まで悶死寸前の思いで暮らしてきた眉輪王にとって、木先の存在は大きくなった。いよいよ眉輪王は父の仇・大王を刺した後、幼武皇子の助けで父・大草香皇子の妃・日向髪長媛の出身の日向に逃げる日が近づいた。 これは幼武皇子の安康天皇暗殺計画でもある。日向行きの別れの挨拶で大王と顔を合わせた眉輪王が懐の刀子を抜き大王の胸を貫いたのは一瞬の出来事である。大伴談に護衛され箸墓の傍までいくと、日向ではなく葛城に眉輪王を逃がしたのである。

境黒彦皇子墓は奈良・御所市の南 近鉄吉野口駅近辺にあります

 

 

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葛城氏再考・市辺押磐皇子暗殺

2012年09月15日 | 大和王朝期

 安康天皇は葛城円が推す市辺押磐皇子に次の王位を考えているが、その護衛隊長・大伴室屋は葛城に警戒心を抱いており、物部も良い感じを抱いていないというのは、幼武皇子にとって追い風である。大伴室屋は、允恭天皇から顕宗天皇まで5代の天皇に大連として仕えた豪族。458年には雄略天皇の妃となった百済の池津媛を犯した石川楯を処刑している。また、479年8月には、天皇崩御直後に起こった星川稚宮皇子の叛乱を東漢掬と共に鎮圧している。大伴・物部は自分達の身分が保証されているから王家に忠誠を誓っているのである。保証されないとなると事情は変わる。そういう思惑を抱きながら、いよいよ市辺押磐皇子を斃すときが来たと幼武皇子が感じたのは465年のことである。渡来系の若者を集めては自分が建てた学堂で高句麗や宋王朝の政治体制を研究している幼武皇子を見て、幼武皇子に武力による野望は無くなったものと市辺押磐皇子は見ていた。しかし市辺押磐皇子の弟・御馬皇子や葛城円は幼武皇子を警戒している。御馬皇子は屋形を焼いた犯人は幼武皇子とみており、葛城韓媛との結婚の邪魔をされている。また大伴、物部から信頼のある幼武皇子を葛城円は良く思っていない。彼等もまた、幼武皇子暗殺の機会を伺っているのである。そして幼武皇子は、465年の秋に市辺押磐皇子を近江の蚊屋野(かやの、現在の滋賀県)へ狩猟に誘い出し、射殺した。さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人の佐伯部売輪も殺して、皇子とともに同じ穴に埋めた。つまり、塚が築かれなかったわけである。その後、安康天皇の護衛・大伴室屋、葛城円、が挙兵することもなく、僅かに市辺押磐皇子の弟・御馬皇子のみが、あえなく幼武皇子に殺されている。

                                             春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛    ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 麛坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀) 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人) 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
           応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
           ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
    ┣和気王┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣-                    ┃
    鸇比売  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君
甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰    ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┃       ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┣羽田矢代宿禰  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
 ┗巨勢小柄宿禰  ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
   ┃              ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ)
   ┗□-□-巨勢男人-529
        ┣胡人-巨勢徳太-658-巨勢黒磨
        ┣紗手媛 (安閑天皇妃)
        ┗香香有媛(安閑天皇妃)

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葛城氏再考・幼武皇子の策

2012年09月14日 | 大和王朝期

 幼武皇子は葛城氏との関係を深めるために韓媛を妃に迎えようとしていた。また、履中天皇の子・市辺押磐皇子だけでなく、その弟・御馬皇子も石上穴穂宮に顔をだすようになり、現大王の後を継ぐ候補が現れたことを考えると、将来の孤立を防ぐためにも吉備国をも味方に引き入れる必要があった。また吉備国としても大和の権力に勝つのは困難であると思っている以上、吉備の娘を王家に差し出し、生まれてくる子が次の大王にでもなれば、吉備の安泰は狙える。幼武皇子は、西国を固めれば大和にも劣らない力を持つ吉備国の勢力であるだけに、手を結ぶために吉備上道田狭に縁談を持ちかけ、吉備稚媛を妃とすることになる。後のことであるが、吉備稚媛は磐城皇子、星川稚宮皇子の二皇子を産んだ。そして幼武皇子が雄略天皇としての最後を迎えたときに吉備稚媛は星川稚宮皇子を煽って大和政権を握ろうと王位を狙ったのである。吉備水軍も擁立させようと河内に向かうが戦いに敗れ、それ以来吉備は大和の従属と化してしまったのである。

 幼武皇子は葛城、吉備から妃を向かえ大王に成るべく基礎固めをした後、邪魔者の排除に取り掛かった。幼武皇子の寵臣・身狭青は現在の箸墓古墳の近くにある御馬皇子の屋形へ向かっていた。幼武皇子の命で御馬皇子の屋形を焼き事故死に見せかけるためである。その後、幼武皇子は市辺押磐皇子を斃すべく東漢氏、身狭青を使って暗殺組織を作り計画の実行に取り掛かった。安康大王は次の大王を誰にするかを決めてはいないが市辺押磐皇子が有力な候補であったのは間違いない。父・允恭天皇が亡くなった時に、次は市辺押磐皇子だという密約があったかもしれない。なんといっても市辺押磐皇子の母は葛城黒媛で、その父は葛城葦田宿禰である。葛城円は安康天皇に睨みをきかせながら市辺押磐皇子と組んでいるのである。葛城円は父・葛城玉田宿禰が允恭天皇に殺された経験を今に生かしている。こうした状況に危機感を抱いているのが大伴談・室屋兄弟であり、河内の物部であった。因みに葛城は飛鳥の西だけではなく難波及び明石の西まで勢力を広げていた。300年遡ること神功皇后の母・葛城高額媛は明石の隣の垂水に住んでいたという。現垂水には五色塚古墳という兵庫県では最大の前方後円墳があるが、これは葛城の勢力を誇示した古墳と言えるかも知れない。安康天皇は幼武皇子とは肌が合わないせいか良くは思っていないが、安康の護衛隊長・大伴室屋は幼武皇子をかっている。渡来人を重用し大伴談などの昔からの護衛を軽く見ているように見えるが、これからの時代は身狭青のような先進国からの学識にも優れた部下が必要であると幼武皇子は考えており、大伴室屋はそれを理解していたのである。

五色塚古墳は葛城高額媛の墓かも

 

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葛城氏再考・木満致

2012年09月13日 | 大和王朝期

 朝鮮半島南の伽耶諸国に任那があったが倭国とは交流が深く、権力を振るっていた木満致(もくらまんち)という百済の官人が倭を訪れた。昆伎王と会い葛城円の屋形に泊まり大王に会う予定の木満致に幼武皇子は興味を抱いた。大和の石上宮には葛城円、市辺押磐皇子をはじめ王族・有力豪族が集まり、高句麗が百済を攻めようとしている旨を木満致は伝え、新羅権勢という蓋鹵王の要請を申し出ると、形式的な返答をする安康天皇に対して幼武皇子は苛立った。そんな時、木満致が幼武皇子との面会を求めてきた。幼武皇子は土産に、墳丘を小石で葺き、円筒埴輪を並べた巨大を墳墓を案内することにした。幼武皇子と夕餉を供にした木満致は、池津媛を殺し木梨軽皇子に罪を被せたのが幼武皇子とする噂がでたらめであることを確認したという。池津姫というのは百済の王族の娘で幼武皇子の側室となりますが、石川楯(蘇我氏の根拠地があった豊浦を開墾したという石河股合氏の祖)と密通したことから458年に火刑となる。この命を下したのは幼武皇子であるが、木梨軽皇子に罪を被せたのは単なる噂であることを木満致は夕餉の席で確認したのであろう。ところで、木満致は馬子の父の稲目の曽祖父・蘇我満致と同一人物とも云われている。

石川楯が豊浦を開墾した

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葛城氏再考・大草香皇子の暗殺

2012年09月12日 | 大和王朝期

 穴穂皇子が王位に就く(第20代安康天皇)に際して、大草香皇子という邪魔な皇子がいた。大草香皇子は仁徳天皇と日向髪長媛と間に生まれた皇子で允恭天皇とは異母兄弟にあたるが、王位を狙ったために、穴穂皇子に誅殺されている。娘を王家に差し出し政権を担おうとする葛城氏が日向髪長媛の子・大草香皇子を排除しようと働きかけたのは確実ともいえる。そして穴穂皇子は、大草香皇子の正妃・長田大郎女を奪い、大草香皇子の妹・若日下部命を幼武皇子の正妃として推薦した。この時幼武皇子は申し出を断っているが、後に承諾し正妃としている。また、葛城を自分の勢力範囲にしようと若い葛城氏の韓媛に結婚を申し込んだが断られている。この時代葛城襲津彦以来、王家の外戚を保ち続けてきた葛城氏の力は強大で、一時允恭天皇は葛城玉田宿禰を殺害して葛城の勢力が衰えた時期があったが、それでもその力の大きさを思い知らされたことになる。葛城円が市辺押磐皇子と組んで葛城の勢力拡大を着々と進めていたからである。穴穂皇子が大草香皇子を殺害したときに、大伴・物部は敵意を表したが、葛城にはそれを封じ込める力を持っていたほどである。462年幼武皇子は大草香皇子の妹・若日下部命を正妃に迎えることになるが、その顔には全く生気はなく、恐らく閨を共にすることはないだろうと幼武皇子は思った。婚約者の兄に親を殺されたのであるから当然かもしれないが、若日下部命には女としての魅力に欠けているというコンプレックスがあったのも事実のようである。しばらくして幼武皇子は葛城円の屋形へ向かった。娘の韓媛を妃とするためである。王家を牛耳る大豪族の娘を妃に迎えることは後の大王継承を考えても必要である。昆伎王に諭された幼武皇子が一度断られた縁談を再度もちかけたのはその為である。葛城円と酒をかわしたときに呼び寄せられた13歳の韓媛を見て幼武皇子は心が躍り、若日下部命とは大違いの韓媛を妃にすることを誓った。

第20代安康天皇 菅原伏見西陵

 

 

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葛城氏再考・木梨軽皇子失脚

2012年09月11日 | 大和王朝期

 翌462年、穴穂皇子は、他の皇子達を集めて長子・木梨軽皇子の処罰について会議をしている。同母妹の軽大娘皇女と通じることは禁忌であり、また百済の王家出身の池津媛を焼き殺したことにより百済との友好に傷を付けたからである。会議での皇子達の意見は、幼武皇子以外は伊予への島流しである。幼武皇子は、幼い頃から遊んでいた実姉・軽大娘皇女を犯した木梨軽皇子を許せるはずもなく死罪を訴えていた。ついに幼武皇子は他の皇子達を説得することにより、木梨軽皇子を自決に追い込み、そして石上宮で、穴穂皇子が次の大王につくことになるのである。これが後の安康天皇である。ここで允恭天皇の崩御は453年、安康天皇の即位は454年であるから、木梨軽皇子の自決は允恭天皇の崩御の直後という説には矛盾が生じる。第一皇子木梨軽皇子は安康天皇の時代に島流しとなり、軽大娘皇女は後を追って伊予へ行ったという説もは定かではないが、こちらのほうが真実のような気がする。

四国・伊予にある木梨軽皇子の墓

 

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葛城氏再考・幼武皇子

2012年09月08日 | 大和王朝期

 461年、百済の昆伎王(蓋鹵王の弟)が倭国を訪れた頃のことである。倭でいう舎人にあたる、学識・武術に優れた身狭青を寵愛していた。百済が高句麗の脅威を感じていた頃で、昆伎王は身狭青を高句麗に潜入させ、その脅威を調査させていた。本来、百済は新羅と組んで高句麗に向かうべきであったが、百済と倭が仲がいいのを新羅は良く思っていないのである。それに371年に第12代百済王・近肖古が高句麗に大勝した際、国原王を殺したことを忘れていないからである。因みに、百済の第17代腆支王は397年に来倭し帰国の時に大勢の倭兵を伴っている。そして、倭兵の多くは百済の女人と結婚し、その子孫は倭系百済人となっている。こうしたことから倭と百済は以前より交流が深かったのである。その頃、倭では允恭天皇の子の木梨軽皇子、穴穂皇子、履中天皇の子・市辺押磐皇子が政権争いをしていた。昆伎王が倭に渡り混沌とした倭の情勢を掴み、次時代の王を見極めようと考えたのはこの頃である。そしてこの年に、寵臣の身狭青を倭国の側近に仕えさせ、朝鮮で孤立しようとしている百済と倭の友好を考え、昆伎王・身狭青一向が倭の大和・河内の飛鳥に着いたのである。その頃幼武皇子は舎人の大伴談と狩に熱中していた。大伴は大王家の軍事氏族で大伴談は幼武皇子の護衛隊長である。大伴談の兄は大伴室屋といい、安康天皇の護衛体調をしており、後に継体、安閑、宣化、欽明天皇に仕えた大伴金村の祖父である。昆伎王は、允恭天皇の後を継ぐ皇子達を見極めるべく挨拶をしている。木梨軽皇子は允恭天皇の長子であり、可愛がっていた皇太子であるが暴君で、同母妹の軽大娘皇女と通じ評判が悪い。その点、穴穂皇子は温厚で器が大きい。また境黒彦皇子は若く、跡継ぎにはまだふさわしくない。昆伎王と身狭青が気になっていたのは幼武皇子(後の雄略天皇)である。気が荒いが学術にも長けており評判は悪くない。そして昆伎王の寵臣身狭青はこの後、幼武皇子を見込んで間者となるのである。 

第21代雄略天皇丹比高鷲原陵

 

 実際の雄略陵は大塚山古墳ではなく岡ミサンザイ古墳との説が有力

 

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