平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

足利尊氏と直義の戦い・観応の擾乱

2017年11月29日 | 鎌倉・室町時代

 観応の擾乱とは、足利尊氏と足利直義兄弟による政権内部の紛争といえる。1335年、時の権力者・後醍醐天皇の元に、共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏に関する驚くべき知らせが届いた。尊氏は後醍醐天皇の許可を得ずに独断で、配下の者たちに恩賞を与えたというのである。建武政権にとっては由々しき事態である。11月、後醍醐天皇は激怒して討伐軍を差し向けると、尊氏は一端九州へ落ち延びたものの翌年再び巻き返した。1336年12月、後醍醐天皇は京を捨て吉野に南朝を樹立、かくして50年にも及ぶ南北朝動乱が幕を開けたのである。一方尊氏は京を抑えて室町幕府を設立する。が尊氏の権限は限定的なものであった。梅松論によると尊氏は弟の足利直義に政務を譲り、以降口出しをすることはなかった。足利直義は足利武家政権を樹立した中心人物なのである。尊氏は軍事指揮権と恩賞充行権があり、足利直義は裁判などの政務全般を司った。しかし二人は武士の所領扱いの訴訟場でぶつかることとなる。足利直義の判決は武士側の敗訴、武士に対して寺社側への年貢納入を命じた。寺社に寄進された所領は永久に寺社が持つべきであるという足利直義の、寺社所領、貴族の荘園保護の政策が濃厚にでた。だが命を懸けて戦ったのに恩賞が認められない武士の不満はくすぶり始めた。この時武士への恩賞給付を積極的に働きかけたのが足利家の執事・高師直である。つまり師直は所領の給付に際して守護の援助も受けられるようにした。こうして師直は幕府のために働いた武士の求心力を得られるようにしたのである。高師直と足利直義の緊張関係はこうして高まっていく。1348年、南朝の武将・楠正行の挙兵により幕府軍を攻略していくこと5か月、ところが師直軍は四条畷の戦いにて楠木軍を討ち取ったのである。さらに師直は南朝の本拠地吉野に進軍すると、御所などを焼き払った。このままでは権力の座が危ういとした足利直義は窮地へと追い込まれるのである。

足利将軍の廟所 等持院

 京都の龍安寺のすぐ南、立命館大学の南隣にあるごく小さなお寺ではありますが立派な方丈庭園には足利尊氏の墓、室町幕府の将軍の木像が納められた霊光殿など興味溢れる刹寺です。等持院は足利尊氏が等持寺の別院としてこの地に創建したもので、疎石を開山に迎えたことに始まり、五山の下に列する十刹寺院の筆頭に位置する。尊氏の死後、菩提寺であった等持寺と併合して、尊氏の法号をもって等持院とし、以後歴代足利将軍の廟所となった。

 

初代足利将軍尊氏             二代足利将軍義詮   

 

 足利直義はいよいよ高師直の暗殺を謀ったが、密告により未遂に終わる。このままでは内乱になりかねないとして尊氏は師直の執事解任を行った。そこで師直は1349年8月、尊氏と直義が籠る屋敷を5万もの大軍で取り囲み前代未聞の軍事クーデターを起こした。要求は足利直義の政務引退と尊氏の嫡子・義詮を据えること。尊氏はこの要求を承認した。そして師直は武勇高い直義の養子直冬に兵を向けて追い落としたのである。直義は政務から外され出家にまで追われた。この時、直冬は九州地元の武士とともに挙兵すると師直派を次々と撃破した。1350年10月26日直義はついに高師直を討つべく挙兵を選んだ。これが観応の擾乱の始まりである。尊氏派の重臣を含む各地の不満武士は次々と挙兵に参加した。一方10月28日、師直軍は直冬討伐のために九州に出陣。しかし集まったのはわずかに500騎ほどであった。そして1351年2月摂津の打出で直義は師直との直接対決すると師直・尊氏軍は惨敗し講和を決断する。ところが休戦協定が結ばれた後直義派の武士が師直を襲撃し殺害したことで、尊氏は右腕をも失うことになるのである。その後の講和に臨んで尊氏は戦いに敗れた武者への恩賞を与えるという強気の条件で決着。擾乱後の直義派の守護勢力を見ると、ほとんど増えていない。すると直義のために戦った武士たちは恩賞が少なかったということであり、心は直義から離れていくのである。また、尊氏の嫡子・足利義詮は御前沙汰という制度を設けて裁判を有利に進めるのである。これにより寺社や貴族には大いに歓迎され、直義は武士の信頼を大きく失うこととなる。1351年7月30日直義は京を脱出して挙兵する。観応の擾乱の最終局面である。直義は味方の武士とともに富山から鎌倉へ移動し、一方尊氏は3千の兵で布陣すると直義は1万を超える兵で包囲する。すると下野武士団が尊氏側に立って挙兵したから直義側は一気に崩れた。尊氏に降伏した直義は翌年の1352年2月26日に46歳で幽閉先の鎌倉の寺で死去。これにより観応の擾乱は終結するのである。こうして室町幕府は恩賞を重視することで確立し、各地の守護に実力を蓄えさせたことは言うまでもない。

                      ┏北畠顕信-1338            
                      ┗北畠顕家1318-1338            
                      ┏楠木正季-1336             
                      ┗楠木正成-1336 
                                      ┣正行-1348
                         赤松円心1277-1350    ┗女(伊賀観世家に嫁ぐ)
            ┏足利直義1306-1352 ⇔ 新田義貞1301-1338┣観阿弥  
                   ┃上杉重能 畠山直宗(直義執権)   上島元就┗世阿弥
                   ┃ ┗能憲                  ┣観世元雅
                   ┃  ↑                   ┗音阿弥
                   ┃  ↓
                   ┃ 佐々木導誉 
                      ┃ 赤松則祐
┏北条泰家-1335    ┃┏高師直  
┗北条高時1303-1333  ┃┗高師泰         【大覚寺統】     
  ┗北条時行-1353 ⇔ ┣足利尊氏1305-1358  ⇔  後醍醐天皇1288-1339
         上杉清子┃┣義詮1330-1367                   ┃┃                 
             ┃┃┃藤原慶子                     ┃┃                 
             ┃┃┃┣義持1386-1428 斯波義将       ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┗義量1407-1425             ┃┃                 
             ┃┃┃┣義教1394-1441 ⇔ 赤松満祐    ┃┃                 
             ┃┃┃┃ ┣-  ┣義勝1434-1443       ┃┃                 
             ┃┃┃┃日野宗子┣義政1436-1490       ┃┃                 
             ┃┃┃┃    ┣義視1439-1491       ┃┃                 
             ┃┃┃┃春日局 日野重子1411-1463⇔今参局┃┃                 
             ┃┃┃┃┣義嗣1394-1418               ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)            ┃┃                 
             ┃┃┃┃┃ 日野康子  ┏━━━━━━━━┛┃
             ┃┃┃┃┃ ┣-     ┃┏━━━━━━━━┛ 
             ┃┃┣義満1358-1408  ┃┣成良1326-1344(光明皇太子)                 
             ┃┃┃   ┣女子   ┃┃                 
             ┃┃┣満詮 日野業子  ┃┣義良(後村上天皇)1328-1368                 
             ┃┃紀良子       ┃┃┣寛成(長慶天皇)1343-1394                
             ┃┃藤原仲子(崇賢門院)┃┃┃                
┏西園寺公宗1310-1335  ┃┣基氏1340-1367   ┃┃┣熙成(後亀山天皇)1347-1424                
┗西園寺公重       ┃赤橋登子       ┃┃藤原勝子?-?嘉喜門院
             ┣直冬1327-1400     ┃阿野廉子1301-1359             
            越前局          ┣護良親王1308-1335            
                         ┣懐良親王1329-1383           
┏1光厳上皇1313-1364                         源師親娘      
┃ ┣3興仁親王(崇光天皇)1334-1398      
┃ ┣4弥仁親王(後光厳天皇)1338-1374    宮人 
┃ ┃        ┣後円融天皇1359-1393 ┣宗純王1394-1481 
┃ ┃藤原仲子(崇賢門院)1339-1427┣後小松天皇1377-1433
┃三条秀子       三条厳子1351-1406   ┣称光天皇1401-1428
┗2光明天皇 豊仁親王1321-1380              日野資子
                                     日野資国┛(日野業子の兄)


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安土桃山時代の武将・高橋紹運

2015年04月22日 | 鎌倉・室町時代

 ここは福岡県太宰府市の岩屋城跡の山麓で、大宰府天満宮から北西に5kmくらいの山中に岩屋城を構えた高橋紹運の墓である。紹運というは法名で、吉弘鎮理、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種と名乗った。1586年、島津氏が大友氏を滅ぼそうと約5万の大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はたったの800名弱であったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦したのである。これを岩屋城の戦いという。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にして岩屋城は陥落した。しかしながら、この善戦によってのちに黒田長政が九州の北半分を統制するには大いに役立ったことで、高橋紹運の評価は高い。

岩屋城の戦いの戦没者慰霊碑と高橋紹運の墓


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奈良・明日香南の高取城址

2014年12月27日 | 鎌倉・室町時代

 藤原宮、都塚古墳の後はここ高取城へ行ってみた。奈良県明日香村の南に位置する高取町にあった山城である。南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が1332年に築城したのが始まりと伝えられている。当初は越智氏本城・貝吹山城の支城であったが、やがて高取城が越智氏の本城となった。1532年6月、飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)が大和国に侵攻してきたときに、対立していた興福寺の僧兵たちは越智氏に庇護を求めてきた。証如軍は高取城を包囲したが、筒井軍に背後を襲われた証如軍は敗走した。 その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は1580年廃城となった。1583年8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害され、越智氏は滅亡した。筒井順慶は、信長が本能寺の変で横死した後、1584年に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。1585年、筒井氏は伊賀国上野に転封となり、豊臣秀長が郡山城に入城し、大和国は秀長の配下となった。高取城には当初、秀長の重臣脇坂安治が入ったが、後に同じく重臣の本多利久が家臣諸木大膳に命じて築造した。本丸には3重の大小天守、二の丸には大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基建ち並び、広壮な山城となった。また家臣団により高取市街はに城下町となる。利久は秀長の後嗣となった秀保に仕え、秀保が17歳で没した後は、利久の子俊政が秀吉の直臣となり1万5千石が与えられた。秀吉没後、俊政は徳川家康につき、1600年、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させている。俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となっている。


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波賀城跡

2012年12月01日 | 鎌倉・室町時代

 波賀城は1261-63年頃に芳賀七郎が築城し戦国時代末期まで播磨の中村氏が城主として拡張した山城で、因幡街道沿いの城山(標高458m)の山頂に位置する。整備された史跡公園まで車で行くことができ、そこから山頂の城郭に至る遊歩道を5分ほど歩くと、復元された城郭内の二層櫓、冠木門などが見える。また山頂から波賀一帯を見下ろした景色には心を奪われる。史跡公園にある案内板の紹介は以下。

十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。この地には有名な名馬の伝説があります。「その昔、波賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました・・・・。伝説の波賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時から戦国時代末期の、吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点として波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの郭を作って縦深をとっています。また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。平成二年三月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものと結論を得ました。このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。


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足利義教ゆかりの安国寺

2012年11月10日 | 鎌倉・室町時代

 京都府綾部にある安国寺は足利尊氏ゆかりの寺であるが、ここは兵庫県加東市にある安国寺である。室町幕府6代将軍足利義教は嘉吉の乱で赤松満祐により暗殺されたため、足利氏ゆかりのこの地に葬られた。境内裏手にある首塚・宝篋印塔は貴重な文化財であるとのこと。実は今日播州清水寺の紅葉を見に行こうと車を走らせていたら、義教公の首塚という看板を見かけたので立ち寄ってみた。


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従二位家隆の歌碑

2012年09月01日 | 鎌倉・室町時代

 百人一首の98番に謳われる和歌 「風そよぐ ならの小川の 夕暮れはみそぎぞ夏の しるしなりける」 が刻まれた歌碑が京福電鉄嵐山駅から天龍寺を抜けて竹林の小道へ行く途中にある。 歌の意味は 「風がそよそよと吹いて楢の木の葉を揺らしています。小川の夕暮れはすっかり秋の気配となっているが、六月祓というみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。」 期せずして見つけたので、思わずパチリとスナップ写真の乗りである。 ところでこの歌の作者は歌碑の右に刻まれているが、見えるだろうか。藤原家隆1158-1237といって鎌倉初期の歌人で、藤原氏北家・兼輔の末裔である。藤原兼輔の長男は藤原雅正、その孫が紫式部である。和歌はかの有名な藤原俊成に学び、藤原定家と並び称される歌人となった。藤原定家はもちろん小倉百人一首の選者で、ここ小倉の地で選んだと云われている。『古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころに、藤原良経に師を仰いだところ、藤原家隆を推薦したという。 ところで、野宮・嵐山・亀山の地域にはこのような歌碑がいたるところに配置されていて、全部で百の石碑がある。


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天龍寺の塔頭・妙智院 

2012年08月26日 | 鎌倉・室町時代

 京都嵐山にある代表的な臨済宗大本山天龍寺。足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれ、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため1339年に創建された。阪急嵐山駅で下車後、渡月橋を渡って到着したのは嵐電嵐山駅。野宮神社と竹林の小道を散策した後は、天龍寺境内にある塔頭・妙智院。


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京都・嵐山 天龍寺ゆかりの地

2012年08月23日 | 鎌倉・室町時代

 天龍寺といえば、京都嵐山にたたずむ寺院である。 実は今週この地へひさしぶりに行く予定である。ということで昔記載した記事を読み返しながら投稿してみた。 この地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(786-850)が開いた檀林寺があった。その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇(在位1242-1246)とその皇子である亀山天皇(在位1259-1274)は離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(後醍醐天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。足利尊氏は1338年、征夷大将軍となり、後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の1339年である。 足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。 寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。寺の建設資金調達のため、天龍寺船という貿易船が仕立てられたことは著名である。落慶供養は後醍醐天皇七回忌の1345年に行われた。 季節を問わず天龍寺近辺は観光客でにぎわうが、特に秋の紅葉の時期は特筆するものがある。そして天龍寺近くにある宝厳寺、実は特別公開の時期しか中に入れないという天龍寺の塔頭も見事な紅葉に彩られる。すこし散策しながら北側へ行くと野間神社という源氏物語でも登場する禊の場所や竹林の小道といって竹林で囲まれたその小道は夏でも清涼感たっぷりで、夜間になるとライトアップされる様は幻想的な瞬間を味わえる。どれだけまわれるかわかりませんが、欲張らずにゆっくりと。


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湊川神社で挙式

2012年07月03日 | 鎌倉・室町時代

 湊川は楠木正成が後醍醐天皇の命により足利尊氏軍と激戦を展開し、力尽きて兄弟で刺し違えた場所であり、湊川神社は楠木正成を祀る神社である。 実は、去る6月30日に湊川神社での挙式に参列し、楠木正成に浸ってきました。因みに披露宴はホテルオークラ神戸。残念ながら一番楽しみにしていた参進の儀は雨のためにできなかったのですが、本殿までの廊下を雅楽に合わせて進む儀は、平安時代初期を思わせるすばらしいものでした。

----- 楠木正成の超略歴 -----

 楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。  二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。1335年十二月には鎌倉から京へ攻め上がり1336年1月11日には京へ突入すると、後醍醐天皇は京を捨て比叡山に避難する。しかし今度は京の市中の合戦で尊氏は新田義貞に惨敗した。楠木正成の謀略が加勢したらしい。また公家でありながら武士以上の軍事力を持つ奥州の北畠顕家が後醍醐天皇の危機を救うべく上洛してきたのである。 尊氏は敗れて丹波から播磨を経由し、ここで播磨(現在の上郡町)の武士・赤松円心を寝返らせると九州で兵を募るという知恵も授かった。 そして南北朝時代に突入する決定的な作戦をも授かった。 それは持明院統の光厳上皇から京回復の院宣を貰うというものである。かくして後醍醐天皇の大覚寺統と光厳上皇の持明寺統の争いが本格的に始まる。 足利尊氏が九州で兵を募っている間、赤松円心は播磨白旗城で新田義貞軍と奮闘し、尊氏は十数万の軍を率いて京に攻め上がった。しかも伊予の河野水軍をも見方につけて瀬戸内海を進撃してきた。後醍醐天皇は楠木正成に尊氏追討を命じると弟・正季とともに兵庫・湊川の合戦が始まった。主力の新田義貞は脆くも崩れ、楠木正成軍は僅か73騎になり力尽き、兄弟で刺し違えた。


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貞慶と海住寺木造四天王立像

2012年06月18日 | 鎌倉・室町時代

 近年海住寺より発見され奈良国立博物館に寄託されているのが海住寺木造四天王立像である。持国・増長・広目・多聞天の順に東・南・西・北の方位に対応し、その身色は緑色、赤色、白肉色、青色に塗り分けられている。またその形相を見ると、持国天は右手に五鈷杵を、増長天は左手に戟、広目天は左右の手に巻子と筆、多聞天は左手に宝棒を持ち、顔は、持国天と広目天は像から見て左斜め方向、増長天と多聞天は右斜め方向に向けている。誌に紹介されている写真でわかるだろうか。1180年源平の戦い兵火で南都大仏殿が罹災した際、大仏は大破し、二菩薩・四天王は焼失してしまった。鎌倉復興期の大仏殿諸尊の像容については、幸いにもこれを伝える文献がある。醍醐寺に伝来した1284年に書写された「東大寺大仏殿図」がそれで、四天王像に関しても、各尊の本体および邪鬼の身色、持物や顔の向きに加え、担当した仏師の名が明記され、復原的に考察するよすがとなる。そして海住山寺像はほぼ完全にこれに一致し、大仏殿四天王像の忠実な模像、すなわち大仏殿様四天王像であることがわかる。しかし海住山寺の四天王像の造立に関する記録は、残念ながらこれを今見いだすことができないが、同寺五重塔に安置されていたのではないかとする説がある。海住山寺中興の祖で戒律の復興につとめた貞慶は、1208年に笠置寺から海住山寺に入った。彼は同年九月七日、河内国交野新堂において後鳥羽院より拝領した二粒の仏舎利(一粒は東寺、一粒は唐招提寺伝来)を、二日後の九月九日に海住山寺に安置する。しかしその後の経緯を見ると、貞慶は仏舎利の奉安の場として塔の建立を企図したと思われるが、その完成を見ることはかなわなかった。

 金亀舎利塔は唐招提寺に伝わる仏舎利を納める器である。鑑真和上の渡海中、海に沈んだ舎利を亀が背にして浮かび上がってきたとの故事にちなんで造られたもので、高さ92cm、総体が金銅の打物、台座となる亀形部は木胎に金銅板を被せたもので、白瑠璃舎利壺を収める軸部は蓮華唐草の透かし彫りになっている。


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貞慶と春日権現験記絵

2012年06月16日 | 鎌倉・室町時代

 今回は春日権現験記絵といって最高峰の大和絵の話で、宮廷絵師の高階隆兼によって描かれた全20巻の絵巻である。神がひき起こす不思議な出来事の数々が57の物語で表されている。春日大社はもちろん藤原氏の氏社で、春日権現験記絵には氏社の摂社・若宮大社の前に貞慶が春日明神の勧請のために詣でている姿が第16巻に描かれている。

 建久7年(1196)9月27日の夜、笠置寺の般若台の鎮守として春日大明神をお祀りするため、小さな社を造ってから、貞慶は同朋を引き連れ春日社に参拝した。たまたま正預(本社の長官の1人)等が不在だったので当番の氏人(社司の補佐にあたる神官)に命じて、御蓋山の1,5メーター以上の榊を切り出し、第一殿のご神前で榊を手に持って祝詞を上げてもらってご神霊を榊に勧請し、貞慶自身が受け取り、その榊は一旦南門の脇に安置して若宮にお参りした時に、春日明神が貞慶に乗り移って「般若台を守ろう」という託宣を和歌の形で得たのだという。貞慶一行は、本社だけでなく若宮社にも参拝する。御験記の絵は本社と若宮社の間の道(御間道)を美しく描いていて、春日社においてこの御間道は、単に道の機能を超えた信仰空間である。夜間の参拝では、しばしば境内諸社の巡拝である宮廻りがおこなわれた。その最も短いバージョンが本社と若宮の間の往還で、数十度、百度、千度といった度数を重ねるほど篤い崇敬の表明となった。本話では、若宮と本社の間は一度往還されただけだが、春日明神に憑依された貞慶が若宮の方に立ち返り、石段の下から拝礼する所が描かれ、御間の度数参りもかくやと思わせる。よく見ると南門前の橋のたもとには、水船と柄杓が置かれ、いつでも手水が出来るようになっていて、多くの衆生の参詣を伺わせる。また道の所々には、灯籠が掛けられている。今日では中々実感しにくいが、近世までは、多く夜に神社にお参りしたし、特に祈願のあるときは、神前で参籠をした。本話は、春日明神を勧請申し上げるので特に夜である必要があったが、御験記に記される参詣は、多くが夜である。本話からは夜間も対応出来るよう神官が輪番で詰めていたことが明確になり興味深い。真っ暗闇では、如何にも不便だから、御間道には神への手向けも兼ねて灯籠が設置されたのだろう。今日、隙間無く石灯篭が並んだ美しい景観も同様な信仰が生み出したものなのである。「春日大社宝物殿学芸員の解説より抜粋」 

 この貞慶を描かせたのは時の左大臣・西園寺公衡で、藤原氏一族の繁栄を祈願して製作させた。近年、本絵巻の構成や詞書の内容に貞慶執筆の春日信仰にまつわる説草が深く関係していることが明らかになった。ところで、時の左大臣の家系を遡ると蒼蒼たる面々を見つけることができる。藤原1000年の栄華を誇った道長の系統ではなく閑院流藤原氏の系統にあたり、祖は藤原師輔の十二男・公季です。ついでなので公季について記載すると、母は醍醐天皇皇女康子内親王。伊尹・兼通・兼家・高光・為光の異母弟ということになります。公季は生まれて間もなく母を失い4歳で父を失います。そこで、姉の安子(村上天皇皇后)に養われ、親王たちと同じように内裏で育てられます。内裏で育ったため、「自分は高貴な生まれだ」という自負があったようで、妻も皇族・有明親王(醍醐天皇皇子)の娘です。康保四年(967)に叙爵し、永観元年(982)に参議、長徳元年(995)に大納言となり、その後道長政権下で内大臣を長く勤め、最終的には太政大臣となっています。居住していた邸宅にちなんで閑院と号し、その後裔が「閑院流」と呼ばれることとなります。この閑院第は、二条大路南、西洞院大路西に所在し、もと左大臣藤原冬嗣第で、巨勢金岡が水石を配した名所であり、これを公季が伝領したと伝えられます。(『拾芥抄』中)。公季は、孫に当たる実成女が当時の大納言藤原能信(道長男)と結婚した際、この第宅を能信に譲り、彼自身は息子の実成の第に移っています。藤原実資はこのことに関し、太政大臣たる者が旧居を捨て、小宅に移るのは後代の謗りを忘れたものとする深覚(公季の同母兄)の非難に同調し、たとえ譲るにしても同居し、一生閑院を去るべきではないと日記に書き遺しているという。「平安夢柔話より抜粋」

  藤原盛子?-943
   ┣藤原伊尹924-972
   ┣藤原兼通925-977
   ┣藤原兼家929-990
   ┃ ┗藤原道長966-1028
    
  ┣藤原安子927-964 村上天皇中宮

   ┣源高明室
忠平  ┣藤原怤子 - 冷泉天皇女御
 ┗藤原師輔909-960
   ┣藤原公季(閑院流祖) 小式部内侍(和泉式部娘)
  康子内親王┣藤原実成  ┣頼仁1025-? 
    有明親王女 ┣藤原公成999-1043 
      藤原陳政女   ┣藤原実季1035-1092
             藤原定佐女┣藤原苡子1076-1103 堀河天皇女御
                  ┣藤原公実1053-1107
               藤原睦子 ┣徳大寺実能1096-1157
                    ┣藤原璋子1101-1145(待賢門院)-鳥羽天皇中宮
                    ┣藤原通季1090-1128
                  藤原光子┣藤原公通1117-1173
                     忠教娘┣藤原実宗1145-1214
                     藤原通基娘 ┣西園寺公経1171-1244 西園寺家の実質的な祖
                       持明院基家娘 ┣西園寺実氏1194-1269   
                            一条全子┣西園寺公相1223-1267
                                 家女房  ┣西園寺実兼1249-1322
                                  中原師朝娘┣西園寺公衡1264-1315
                                     ┣覚円   (興福寺別当)
                                     ┣西園寺鏱子(永福門院 伏見天皇中宮) 
                                     ┣西園寺瑛子(昭訓門院 亀山天皇後宮)
                                       中院顕子


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貞慶と興福寺

2012年06月15日 | 鎌倉・室町時代

 奈良・興福寺といえば藤原氏の祖・ 藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。710年が実質的な興福寺の創建年というから、まさに藤原不比等全盛の頃の創建なのである。興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれその都度再建を繰り返してきた。中でも1180年、源平合戦での平重衡の南都焼討による被害は甚大であり、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのが解脱上人貞慶であった。 記事に記載の戦乱により生家の藤原南家が没落して・・・の戦乱というのは平治の乱をいう。没落というのはもちろん信西と息子・貞憲たちの配流を意味している。また、南家の没落については、既に没落していて記事の表現は正確ではない。信西の俗名は藤原通憲といい、祖父の代から大学者の家系であったが、1112年に父・実兼が急死したことで、通憲は縁戚であった高階経敏の養子となっており、没落したのは高階家というのが正しい。しかし貞慶にとっては藤原氏の氏寺である興福寺は特別な存在であったのは確かだろう。平家による南都焼き討ちに対して復興のための勧進状をしたためたという。貞慶がなくなったのは1213年であるから今年が800年遠忌にあたる。


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貞慶と明本抄

2012年06月14日 | 鎌倉・室町時代

 奈良・興福寺に伝わる明本抄は貞慶が弟子・良算に筆記させた因明に関する研究成果である。1年かけて内容を推敲し、再び調べ正すには及ばないと述べ、翌年貞慶は亡くなった。将来を嘱望されながら寺を出て遁世し、南都仏教界に多大な影響を与えて後、海住山寺で病を得たあとの弟子への遺言のようなものである。


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貞慶と海住山寺

2012年06月13日 | 鎌倉・室町時代

 海住山寺、それは貞慶が再興して晩年を過ごした寺である。恭仁京が置かれた奈良の三上山の中腹にあり、眼下に広がる奈良の都を観音浄土に見たてた上で命名されたのが海住山寺なのである。実はこのあたり、私の大好きな場所でもある。自分の徳不足に悩んだ聖武天皇は幾度となく都を変えた。そしてこの恭仁京もそのひとつであったのだが、藤原氏の謀略によって跡継ぎで聖武天皇と県犬養広刀自の第二皇子で皇太子の有力候補であった安積親王はここ恭仁の都で744年に亡くなった。難波宮への行幸の途中の出来事であり、供をしていた藤原仲麻呂による毒殺との説が有力である。 聖武天皇一族の不運はこれで終わらなかった。安積親王の姉・井上内親王は斎王として伊勢に下向していたが、安積親王の死によって斎王の任を解かれて退下する。その3年後に白壁王(後の光仁天皇)の妃となり、他戸親王を産む。770年に白壁王が即位して光仁天皇となると内親王は立后し、他戸親王は皇太子となるが、翌年皇后による光仁天皇呪詛事件が起こり、皇后は廃され、他戸親王の立太子も廃された。代わって後の桓武天皇となる山部親王が立太子となることから、桓武を後押しをもくろむ藤原良継や藤原百川らの謀と見られる。 また、同じく聖武天皇の娘・不破内親王は息子・志計志麻呂を皇位につけようとして称徳天皇を呪詛した罪で内親王の身位を廃された。厨真人厨女と改名させられ平城京内の居住を禁じられるとともに、志計志麻呂は土佐国に配流となっている。他戸親王とは兄妹にあたる酒人内親王は、斎王となっていたが、母の死によって退下後に山部親王の妃となっている。兄の廃太子によって皇太子になった山部親王の妃になるという奇妙なめぐり合わせも異常な政治的配慮によるものと思われる。このように政敵謀略によってことごとく不運な境遇に追いやられた聖武天皇の一族のことを思い出させるのが、恭仁京であり、海住山寺なのである。尚、安積親王、井上内親王、酒人内親王の墓(和束墓、宇智陵)はいずれも、恭仁京の近くにあります。 この時代から約400年余り経って貞慶が再晩年にこの地を選んだのは何故なのだろう。平穏な観音浄土を願った貞慶らしい一面を見れたような気がする。


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貞慶と十一面観音来迎図

2012年06月12日 | 鎌倉・室町時代

 貞慶ゆかりの海住山寺には十一面観音来迎図という室町時代に描かれた墨絵が所蔵されている。このような図は鎌倉時代以降に数多く描かれたが、楽器を奏でる菩薩などの構図は平安時代に描かれた阿弥陀来迎図の影響を受けているという。まさに平等院鳳凰堂内にある楽器を奏でる飛天菩薩像の影響そのものである。しかし今まで紹介した貞慶の南無釈迦というのは法然、親鸞が広めた南無阿弥陀仏と相対するものであったはず。阿弥陀来迎図の影響を色濃く受けるというのは、恐らく貞慶の本意に反するものであったと私は考える。 藤原道長に代表される平安時代の貴族は洪水・飢餓・雷などに悩まされた。桓武天皇など権勢を振るった者も同じであるが、これは自らもしくわ先祖の犯した疚しい部分に祟りがあるはずだと信じていたからである。ゆえに未来に浄土を求めた。貞慶の場合を考えると、祖父・信西入道が保元の乱で清盛、義朝を擁して勝利すると、信西は薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。そして信西は自分の息子たちを要職に就けたのであるが、旧来の院近臣や貴族の反感を買い、強引な政治の刷新は反発を招いたのである。かくして1159年、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃するという平治の乱が起こった。この知らせを聞くと追手からの逃亡を諦めて自害した、とも発見されて斬首となったとも言われているが、信西の息子・貞憲たちは配流となった。 この時、4歳の貞慶(貞憲の次男)は成長していくに従って権力者の立場ではなく、戒律を重んじた釈迦仏教に傾倒していった。信西一族が貴族の主流でありえれば、貞慶は誕生しなかったに違いないと思うのは私だけだろうか。


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