平安時代の陰陽  (平安時代中心の歴史紹介とポートレイト)

玉響 「勾玉が触合うほのかな響き かぎろひの輝き」
「玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか」 万葉集

幕末200 鳥羽伏見の戦い-3

2018年01月05日 | 幕末

 三日目の鳥羽街道では、新政府軍の武器に四斤山砲が登場する。この大砲の際才の特徴は砲身中にライフリングが施されているところである。精度と距離が飛躍的に高まった上に火薬と起爆装置が仕込まれている。徳川軍は退却し淀で迎え撃とうとする。淀には周りに幾重にも川と堀が囲む難攻不落の淀城を治めていたのは譜代大名の稲葉正邦、ここに入城できれば新政府軍を迎え撃つことができる。ここに入ろうとした滝川率いる徳川軍、藩主は江戸に居て不在であったが代わりに家老・八太監物が対応した。入場拒否である。しかし近くの名親館を提供。一方淀藩は徳川慶喜からの連絡を待っていた。一方淀藩には新政府・三条実美から徳川に味方するなとの書状を受け取る。これで淀藩は両者に銃口を向けられず、だれをも入場を許さなかったのである。

 同日戦場には錦旗が現れた。この幻の旗を造ったのは岩倉具視で、絶好のタイミングで戦場に掲げた。効果は抜群で日和見を決め込んでいた諸藩は新政府軍についた。かくして新政府軍は淀本陣を制圧した。この知らせは大阪城の徳川慶喜にも伝わった。1月6日、崩壊寸前の徳川軍は淀から後退していたが、慶喜の鼓舞によって幾分士気は高まっていた。いよいよ戦闘は大阪城へと追い詰められた。大阪城は豊臣秀吉が築いた名城を徳川幕府が再建したものである。ここで徳川軍は体制を立て直そうとする。ところがこの夜、慶喜は大阪城から江戸へ逃れていたのである。1月7日未明、慶喜は海陽丸に乗り込んだ。海陽丸の艦長は榎本武揚であったが、このとき澤太郎左衛門が指揮をとっていた。澤は慶喜から江戸への逃亡を命令されたが、はなはだ失望して榎本との合流を期待して、湾内往来による時間伸ばしを行った。大阪城は強固であり、また海軍は薩摩軍を退けて戦うには十分な戦力を有していたからである。慶喜に悟られぬよう密かに海陽丸は1日半に渡って大阪湾内にとどまり続け、1月8日の夜に慶喜は敗戦宣言をした。これによって翌日主を失った大阪城は陥落し鳥羽伏見の戦いは終わった。

 しかしこれは明治維新の戦乱の序章にすぎなかった。これから1年半にわたる戊辰戦争に発展するのである。滝川具挙は慶喜を追って江戸に帰還、戦いの責任をとらされて謹慎の身となった。具挙の息子・滝川充太郎は徳川艦隊とともに箱根に渡り戊辰戦争を戦い抜いた後、明治政府に出仕して陸軍中将となる。そして明治10年西南戦争で戦死。海陽丸副艦長であった澤太郎左衛門は艦長に就任すると新政府に最後まで徹底抗戦、後に海軍兵学校で教鞭をとり日本海軍の創設に貢献する。徳川慶喜は江戸にもどった後新政府に恭順を貫くと後に公爵に任ぜられて77歳で死去する。


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幕末199 鳥羽伏見の戦い-2

2018年01月05日 | 幕末

 戦いの二日目、徳川海陽丸は薩摩の軍艦を砲撃し圧倒的な勝利を収めた。徳川は大阪湾から薩摩を追い出したのである。昭和42年海陽丸の調査が始まり、復元がなされた。当時としては最強のクルップ砲が威力を発揮した。そして鳥羽では幕府軍が勢いを盛り返していた。陸軍改革の成果ともいえる伝習隊は薩摩のミニエー銃よりも強力なシャスポー銃を持っていた。かくして新政府軍は後退したが、伝習隊は逃げる敵の追撃はしなかった。滝川具挙には戦いの戦果よりも戦い方を重んじる傾向があったようだ。滝川は徳川の指揮をとるのが役目ではなかったともいえる。鳥羽街道の司令官は竹中丹後守であった。徳川陸軍のNo.1竹中重固のことで、竹中半兵衛の末裔である。このとき竹中は兵をそのまま残して淀の本営に行っていた。淀本営は鳥羽街道と伏見街道の分岐点に位置し徳川軍の本陣が置かれていた場所である。さらに竹中に代わる指揮官・佐久間信久までが伏見を離れていた。陣笠をかぶって馬上で指揮をする佐久間は格好の標的であり、薩摩に狙われた。かくして幕府軍の指揮系統は乱れ、この日も敗北することとなる。


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幕末198 鳥羽伏見の戦い-1

2018年01月04日 | 幕末

 1867年12月9日、京の都では西郷率いる薩摩兵が御所を封鎖、王政復古のクーデターを起こした。これにより徳川幕府は廃せられ、雄藩を京に集めて天皇の名のもとに政治を行うことが決まった。かくして徳川慶喜は新政府からはじき出された。岩倉具視の指導のもと大久保利通、西郷隆盛が実行。薩摩に続いて長州も入京して新体制の維持をはかるべく三条実美ら五卿を政界に復帰させるというものである。龍馬暗殺の三日後に薩長両藩に倒幕の密勅が下されたからこそ、この軍事行動が可能となった。岩倉は芸州浅野家と尾張徳川家を味方に引き入れていた。一方明治天皇の側近は外祖父中山忠能を中心にすべてが倒幕派である。岩倉から文書を受け取った天皇はただちに小御所にはいり、王政復古の大号令を発した。つまり摂政、関白、幕府を廃止し、総裁、議定、参与の三職を置き、天下の政治を行うということである。これにより総裁には有栖川熾仁親王、議定には仁和寺宮嘉章親王と山階宮晃親王が選ばれた。

 これに対して徳川慶喜は大坂に戻ったことによって鳥羽伏見の戦いへと進んでいった。新政府軍は兵力4000、ところが旧幕府軍は会津藩など合わせて兵力は15000、また、慶喜は各国とは外交での代表と通告したから、倒幕派にしてみればピンチである。西郷は江戸で騒乱を起こして慶喜を挑発して戦端を開かせようとした。指令を受けたのはかつて清河八郎が結成した攘夷集団・虎尾の会メンバーで山岡鉄舟らとは同志である。かくして江戸警備にあたっていた庄内藩士、これに呼応した幕府の伝習隊、旗本有志ら数千人が薩摩藩邸を囲んだ。12月25日のことである。西郷の命を受けて江戸攪乱を実行した益満休之助の挑発は成功したが、薩摩藩邸は消失、このとき勝海舟は止めきれなかったという。幕臣たちは京で新政府を操る薩摩を討つように大坂の慶喜に遣いを送ったのは1868年1月1日。幕府側主役は勘定奉行・小栗忠順と大目付・滝川具挙、滝川は織田信長に仕えた滝川一益の末裔である。薩摩藩邸焼き討ちの後、兵を率いて順動丸にて大坂城に向かった。大坂城の旧幕府将兵がこれに呼応した。滝川具挙は討薩表を新政府に届けるため、軍勢をひきいて京へむかったのは1月2日。

 一方西郷たちは新政府の中に問題を抱えていた。反薩摩の諸侯たち、つまり徳川家との関係が深い尾張の徳川慶勝、越前松平春嶽、土佐山内容堂である。もしも徳川軍が入京すれば天皇は徳川軍に薩摩討伐の勅許を出すかもしれない。かくして西郷は自信を喪失していた。この時大久保利通は岩倉と西郷に書状を送り戦に臨むべしと進言している。西郷は徳川の進軍ルートを予測して鳥羽・伏見に兵を置いた。総大将・滝川は翌3日に大軍を率いて鳥羽街道から京へ入ろうとしたが、街道を封鎖していた薩摩軍にと衝突する。これにより七日間に及ぶ鳥羽伏見の戦いが始まったのである。結果は徳川の敗北、武器が旧式で士気が低く、勝ち目のない戦いであったと伝わっているが実はそうではない。徳川軍が装備していた銃はフランス製のシャスポー銃、海では海陽丸など無敵の艦隊を有し、軍事力は薩摩を圧倒していた。

 薩摩軍は椎原小弥太率いる兵800、徳川軍は大目付・滝川具挙率いる兵2000。薩摩軍が陣をとったのは城南宮で、兵を隠すには格好の場所であった。また城南宮から200mほど離れた秋の山という竹林がうっそうと茂った場所でも身を潜めたようである。戦が始まったのは夕刻5時、慶喜が朝敵になるのを恐れた滝川は戦準備もせずに進軍した。戊辰戦記絵巻には、準備不足の旧幕府軍は薩摩の砲撃に耐え切れずに敗走した様子が描かれている。実は滝川は鳥羽方面の指揮官であり、本当の総大将は竹中重固といって竹中半兵衛重治の子孫にあたる。3日の午後竹中重固のいる伏見奉行所を包囲した薩摩軍は大砲中心の攻撃に対して、伏見奉行所の外郭に配備されていた新選組が薩摩陣地に斬りこもうとした。第二次長州征伐で敗れた幕府軍と同じ状況であるとの説もあるが、今回の旧政府軍はフランスから新制元込めシャスポー銃を使用していたから、旧幕府軍のほうが優位といえる。では何故大敗したのかというと薩摩の反撃がここまでとは思わなかった滝川の油断である。銃に弾を装備していなかったのである。総大将が竹中半兵衛であればこんなミスはしない。徳川・薩摩最初の激突はこのようにして始まった。

 鳥羽から3㎞ほど離れた伏見でも戦いは始まっていた。ここでは細い路地での市街戦となった。薩摩は同盟を結んでいた長州や土佐の兵など総勢1000、一方の幕府側が会津藩や新選組など2500の兵を動員した。伏見奉行所を本拠地とした徳川は狭い路地で攻防を開始した。薩摩軍は突撃してくる徳川軍を武器・ミニエー銃で迎え撃った。これはライフリングが施された銃で命中精度は、ゲベール銃の100mに対して300mある。この時会津の駐屯兵・白井隊は敵との遭遇をさけて京を目指した。ところが竹田街道で待ち構えていたのは新政府側の土佐兵、別のルートでの入京を許可してきた。これを罠だと考えた白井隊は入京をあきらめて引き返したのである。これは入京して薩摩を朝敵にするチャンスを逃したともいえる。御所には何ら報告が届かずに公家、諸侯間には疑心暗鬼が漂う。土佐、越前は身を引いたことで尚更不安は広がったが、この夜、徳川軍は伏見奉行所を奪われて敗北したことで、徳川は朝敵となった。激戦となった伏見では新選組も薩摩と戦ったが敗れ、土方はもはや刀の時代ではなくなったと痛感したという。

城南宮にある鳥羽伏見戦いの跡


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幕末197 庄内藩を経済支援した本間氏

2018年01月03日 | 幕末

 酒田本間氏は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に日本最大の地主と称された豪商である。1689年、現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めた酒田三十六人衆の一人で武士であったといわれる本間久右衛門の息子・原光を初代とする。3代当主である光丘は、士分の取り立てを受け庄内藩の財政再建に取り組んだ。さらに宝暦の大飢饉を教訓に、「八ヵ年計画による米備蓄計画」を藩に起案した。このほか金融業にも進出、大名貸では東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。そしてそこから得た利益を元手に土地を購入。田地を拡大していった。さらには北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となった。

 戊辰戦争の際には佐幕派の庄内藩のため巨費を献じたほか、明治維新後には政府から多額の賠償金の支払いを求められた。その後も引き続き日本最大級の大地主ではあったものの、起業・興業にはあまり執心せず財閥化することなく、一地方企業家にとどまった。しかしながら、防風林および灌漑事業整備に大いに貢献し酒田の近代化に尽力した。さらには根室の柳田藤吉を支えた。1990年、本間家の商事部門等であった本間物産は倒産。その後カウボーイ傘下で再建された後、秋田県仙北市に本社を置く伏見屋の買収によって同社傘下とされた。なお不動産関連は本立信成として今日も現存する。本間ゴルフ創業者は、酒田本間氏庶流にあたる。


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幕末196 新徴組を受け継いだ庄内藩

2018年01月02日 | 幕末

 新選組と言えば、幕末という時代の中で非常に人気の高い集団であるが、この新選組と出自を同じくして誕生したもう一つの浪士組・新徴組」については、ほとんど語られることが無い。新選組と新徴組の誕生のきっかけとなったのは、出羽庄内の志士・清河八郎が考案した浪士組結成によるこ。1863年1月、幕府によって募集された浪士組は、将軍上洛のための警護兵としての役目を背負うものであったが、清河の本心は、尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を持っていたのである。江戸で集まった浪士組は総勢234名、京に到着すると、清河は壬生にある新徳寺に浪士達の代表を集め、その秘めたる策略を演説し、それに同意を求めた。この清河の独断行動に反感を持ったのが、近藤勇や芹沢鴨といった13名の人物で、彼らは清河と袂を分かち、後に「新選組」に変化することになる。

 一方清河に率いられた残りの浪士組は、幕府の命令により江戸に戻ることになったが、清河は1863年4月13日、幕臣の佐々木只三郎の手によって暗殺されたのである。清河を失った浪士組は宙に浮く存在となったが、4月15日幕府は浪士組を「新徴組」と改称し、彼らを庄内藩酒井家に預けることに決定した。酒井家は、徳川四天王の一人として数えられた酒井忠次を祖にする名家であり、幕府の信任が非常に厚かったため、幕府は扱いに困った浪士組を庄内藩に預けたのである。

 新徴組が庄内藩の預かりとなった当時、組士は総勢で169名もいたのだが、当初は彼らにこれと言った仕事もなく、給金なども少なかったため、組から脱走する者や、中には江戸の商家に押し入り、金品などを強奪する者も生じたりしたため、新徴組の存在自体が危ういものになっていた。しかし、1863年10月26日、江戸の治安悪化を憂慮した幕府が、庄内藩ら十三藩に対し、江戸市中警護の命令を下すと状況が一変し、新徴組は再び歴史の表舞台に登場することになる。庄内藩は江戸市中警護の主力として、新徴組をその任務にあてることにした。東北育ちの庄内藩士よりも、関東近辺で募集された浪士組を前身にもつ新徴組の方が、江戸の地理などにも詳しく、その任に最適だと考えたからである。この庄内藩新徴組の江戸市中警護が非常によく行き届いたものであったので、当時の江戸の人々は、次のように囃し立てたという。

「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」 「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」

 新選組が京で名を上げている頃、同じく新徴組もまた江戸でその名を上げていたのである。しかし、そんな新徴組もまた、幕末という大きな時代の渦に巻き込まれていくことになる。幕府と薩長との対立が激しくなった1867年12月25日、江戸において、庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちし、ここに戊辰戦争の火蓋が切って落とされた。新徴組もまた、薩摩藩の支藩であった日向佐土原藩邸を襲撃した後、薩摩藩士とも戦う活躍を見せたのだが、年が明けて勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗を喫し、その後の新徴組は悲運の一途を辿った。明治に入って後、旧庄内藩士は、地元において開墾事業に着手することになったのだが、新徴組もまた、その開墾事業への参加を余儀なくされた。元来、新徴組の面々は関東周辺の出身者がその多数を占めていたため、慣れない東北地方での開墾生活は、彼らにとって苦痛以外の何物でもなかった。そのため、新徴組の組士達は次々に庄内から脱走を試み、それにより切腹させられた者や討ち取られた者などが多数出る、非常に悲惨な結末が待っていたのである。


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幕末195 最強と呼ばれた庄内藩(鶴岡藩)

2018年01月01日 | 幕末

 当時、出羽国田川郡鶴岡に藩庁をおいた譜代藩。藩校は致道館。現在の山形県の大半を領有していた最上氏が1622年に改易され、信濃国 松代藩の藩主・酒井忠勝1587-1662が13万8000石余で第3代藩主として入部、庄内藩が成立し、明治維新まで酒井氏12代が続いた。ところで祖となる酒井忠次1527-1596は米どころの庄内平野をもち、また酒田は北前船の寄港地として栄え、庄内藩の内高は20万石ともいわれた。幕末には新徴組を委託されて江戸市中警備にあたり、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦ったが敗北。藤沢周平の小説で登場する「海坂藩」は、庄内藩がモデルといわれる。

 ペリー来航の1853年に生まれた酒井忠篤-1915を第11代藩主に仰ぐ庄内藩は14万石の譜代大名で、奥羽地方では会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩であった。薩摩が、西郷隆盛の指令で江戸市中にて「薩摩御用盗」といわれる略奪と放火を繰り返したとき、それを取り締まり薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩である。これに対して薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。

 奥羽の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内兵と薩摩兵が対戦した清川の戦いである。支藩の松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退し、副総督の沢為量は新庄を脱出するなど庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。庄内兵の奮戦を支えたのが、酒田の豪商本間家である。本間家は北前船を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時の6代当主本間光美は、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供するなど、総額十数万両を藩に献納したという。庄内兵は、7連発のスペンサー銃(南北戦争で余剰となったものが日本に輸入された)などの最新式の銃砲や大量の弾薬を手にした近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊だった。また、新政府軍との戦いで庄内藩は最終的に4500人の兵を動員しているが、そのうち2200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったという。このような高い比率は他藩では見られないもので、領民と藩との結び付きが強かったことがうかがわれる。

 新庄藩を攻め落とした庄内兵は、新政府軍に与した秋田藩にまで攻め込んでいる。内陸と沿岸の両方面から秋田に攻め入り、「鬼玄蕃」と恐れられた中老・酒井玄蕃(当時26歳)が率いる二番隊を中心に連戦連勝で、新政府軍を圧倒した。しかし、同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、会津藩降伏の4日後、1868年9月26日に新政府軍に屈している。領内への侵攻は一切許さなかったという。

 庄内藩はついには降伏したが、思いがけず西郷隆盛の寛大な処置を受ける。戦いが終わると新政府軍は多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるからであろう。この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南に追いやられ、過酷な生活を強いられた。だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により1870年に酒井氏は庄内に復帰したのである。こうした領民との結び付きの面からも、庄内藩は「最強」だったといえる。


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幕末194 1869年2月15日松平春嶽の参謀・横井小楠没す

2017年12月30日 | 幕末

 福井藩・松平春嶽の参謀・横井小楠は京都東山の霊山に1356名の維新の志士とともに眠っている。 八坂の五重塔から二念坂を越えた東山の麓にある京都霊山護国神社がそれである。 福井藩の参謀として手腕を発揮し誰もが認める明治維新の十傑として今なおその名を響かせている。

 熊本藩士、儒学者である横井小楠1809-1869の正式な名のりは平時存で、北条平四郎時存ともいう。 横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発し、北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国横江村に住し、北条時行の子孫にあたる横江時利の子・時永が、横井に改めたのがはじまりという。 小楠は私塾「四時軒」を開き、坂本龍馬や井上毅などの多くの門弟を輩出し、松平春嶽の政治顧問として、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわったことで知られる。 その基となっているのは「実際に役立つ学問こそ最も大事である」 として結成した実学党にある。 1830年頃熊本城下・長岡監物の屋敷で朱子学の講読会が開かれ活発な議論が行われていた。 当主の監物は忠誠心厚い肥後藩家老であった。 監物邸に集まったのは下津休也、荻昌国、元田永孚、横井小楠の4人の肥後藩士である。 肥後藩政の問題点を論じ合い、肥後実学党の始まりとなった。当時の肥後藩は慢性的な財政赤字に悩み、藩士は窮乏し民衆は災難や借金に苦しんでいた。 横井小楠はその頃 孟子の王道思想に共鳴し民衆の立場に立った政治を志したのである。 藩の財政難は天保期の全国的な現象であり、各地で藩政改革が活発化していたが、その先駆者は水戸藩であった。 水戸藩主徳川斉昭は藤田東湖や会沢正志斎らの藩士を登用するなど天保の改革は全国の武士に注目されていた。 横井小楠は藤田東湖に会って水戸藩の改革の模様を直接聞いたという。 斉昭や藤田東湖が水戸藩の急激な改革を幕府に咎められると、実学党も水戸の一派とみなされて長岡監物は家老を辞めることとなる。  

 1853年ペリー来航時に肥後藩は幕府に浦賀の警備を命じられ、監物は警備隊長に任じられた。監物はその間江戸で藤田東湖ら水戸藩士と親しく交わり、横井小楠も水戸藩に協力の申し出をしている。 しかし1855年斉昭が幕府に対してアメリカとの和議を勧めたいとという情報を得ると横井小楠は激しく非難し始めた。一方監物は警護の任を解かれて熊本に帰っても藤田東湖ら水戸藩士とのやりとりをした。 この頃から監物と横井小楠との主張は食い違い始め、ついに横井小楠は監物と絶交する。 横井小楠はペリー来航後の斉昭に失望し、水戸学それ自身を厳しく批判した。 越前藩や柳川藩を同志としていた 横井小楠派と水戸よりの監物派は対立し、実学党は弱体化していく。 1862年幕府の政治総職を受けた福井藩主・松平春嶽は横井小楠を江戸に呼び、横井小楠は春嶽を助けて幕政においても新しい経世論を実現しようとしたが、会食中に刺客に襲われ、その対応のまずさを咎められ、江戸を去ることとなる。 熊本に戻った横井小楠は勝海舟や坂本龍馬に助言を施す程度で、政局には関わらなかったが、明治国家のプラン作りに影響を与えた。 1868年新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側で暗殺される。 実行者であった十津川郷士ら4名は明治3年に処刑された。


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幕末193 新選組副長・土方歳三

2017年12月28日 | 幕末

 153年前の祇園祭のさなかに池田屋事件が起こった。1864年6月5日、倒幕をもくろむ一派は京都の町に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうと計画していた。その集会に僅かな手勢で乗り込んだのが新選組、数名をその場で切り殺し、多くの討幕派を捕らえたのである。池田屋に突入した隊士の一人・永倉新八が後にその凄惨さを語っている。この時新選組副長・土方歳三が身に着けていたものが残されている。古くから甲州街道の宿場町として栄えた日野にて、土方は豪農の六男として生まれた。1835年。この家は土方の兄の子孫が受け継いで今は土方歳三資料館となっている。土方はこの資料館にも保管されている鎖帷子を防具として着用して池田屋にかけつけたという。日野の武州は天領であり、なにかあったら幕府のためにはせ参じる気概が農民にもあったのである。土方が生まれる1年前の1834年新選組局長となる近藤勇も武州に生まれた。27才にして武州で盛んであった天然理心流を継承した。

 この頃250年続いた徳川幕府は1853年ペリー来航、日米和親条約、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、生麦事件と国論は開国と譲位に分かれた。幕府は朝廷に攘夷実行を約束したもののその道筋は見えなかった。政治の中心京都には強硬な攘夷派の藩士や浪人たちが集まり、幕府よりの人物を殺傷するなどの事件があいつぐ。そんな中朝廷の攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まる。その警護のために江戸城下で腕に覚えのあるものが募集され、土方や近藤は迷うことなく参加を決め運命の地京都に赴いた。京都でも土方たちは京都守護職松平容保預かりの身分となり、京都の治安維持を担うのである。新選組は倒幕組への殺傷をいとわず実行したために脅威となった。この新選組の命知らずの戦いぶりと強固な結束は厳しい隊の規則によってもたらされたものである。その隊の規則に反するものは切腹、かくして40人が切腹となった。正式な武士ではない農民上がりの浪士であっただけに、より厳しい掟がポリシー化していったと思える。内部の粛清を続けながら新選組を維持し京都の治安維持に努めたのが土方である。

 1868年1月戊辰戦争は京都郊外の鳥羽伏見で始まった。新選組は銃や大砲を有効に使う新政府軍に敗れて江戸に逃れることとなる。幕府侍の土方は西洋の大砲を見せつけられ自身も洋装へと転じるのである。勝海舟の配下となった新選組は200人もの隊士を連れて江戸川を渡り千葉県の流山で陣を構えた。対陣の目的は幕府よりのこの地の反乱を鎮めること。しかし土方の本意は新選組を近代的な組織にすることである。洋式訓練である。しかし新政府軍の動きは早く、流山着陣の翌日に新政府軍に取り囲まれた。この時本陣には土方、近藤ら数名が残っているのみで、近藤はもはやこれまでとした。このとき土方は近藤勇を大久保大和という偽名を使って出頭させている。その場で自決するよりも時間をかせぐ得策と考えたのだろう。新政府軍は旧幕府軍に大久保大和の存在がないことを確かめると、京都三条河原で斬首刑に処した。

 一方会津を脱出した土方は旧幕府海軍率いる榎本武揚と仙台で合流し遥か蝦夷地を目指す。しかし勝機はなく、快く死せんのみなり、吾輩は既に死神にとりつかれたる也・・・と松本良順に語っている。蝦夷地と呼ばれた北海道函館、市街地の中央に広がる五稜郭の中央には函館奉行所が置かれていた。土方がここに入城したのは明治に変わった翌月、新政府に恭順していた松前藩を駆逐し、翌年の明治2年4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸した。土方は新政府軍の上陸地と函館の間にある二股口で新政府軍を迎え撃ったという。この激戦を二股口の戦いという。旧幕府軍は巧みに築いた塹壕から35000発の銃弾を新政府軍に浴びせて撃退した。だが土方の奮闘むなしく新政府軍に他の守りが突破されて五稜郭への撤退を余儀なくされる。5月11日函館山を超えて新政府軍の大攻勢が始まった。土方は函館港と五稜郭の中間にある関門を死守すべく馬上で戦った。この時土方は新政府軍の銃弾を浴びて死んだのである。享年35歳。流山で別れた近藤勇と同じ年であった。土方の死から一週間後五稜郭は新政府軍に明け渡されて、内戦は終わった。


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幕末192 西郷隆盛

2017年12月22日 | 幕末

 桜島を望む鹿児島県南洲墓地には2023名の同志とともに西郷隆盛が眠っている。旧徳川幕府勢力を一掃した戊辰戦争では1868-1869薩摩長州明治新政府軍の勢力を率いて勝利した。そんな西郷に多大な影響を与えた人物が第11代薩摩藩藩主島津斉彬である。薩摩には多くの外国船が来航し斉彬は海外の最新情報に通じていた。アヘン戦争で敗れたアジアの大国秦が西欧列強と不平等条約を結ばされている状況に大きな危機感を感じていた。列強の侵略に備えるために日本初の西洋式工場群・集成館を建設した斉彬は武器弾薬の製造や造船技術の近代化をなど藩をあげて富国強兵に努めた。国を一つにまとめようとする先進的な斉彬の思想を取り入れようとしたのである。1873年新政府の重責を担っていた西郷は新たな外交問題に直面する。当時の日本にとって大きな脅威はロシアによる南下政策である。鎖国を続けて近代化の遅れていた朝鮮王朝がロシアの支配下に入ることを恐れて明治政府は正式な国交を求めた。しかし挑戦はこれを拒んだため両国には緊張が続いていた。そうした朝鮮に対して武力で開国を迫る征韓の声が強まっていった。西郷は使節となって朝鮮へ渡り交渉を行おうと提案する。

 ところが西郷は思わぬ反対にあう。大久保利通は西郷といえども朝鮮に介入すれば戦争は回避できないと考えていた。当時大久保にとって差し迫った課題は内務省を設立し政府主導で国内産業を育成することであった。戦争となるとインフラ整備や在来産業の育成などは後回しになることを警戒したのである。大久保をはじめ政府首脳によって韓国との交渉を阻まれた西郷は自ら政府を離れた。その後西郷と大久保が会いまみえることはなかった。

 明治6年11月西郷は3千人の薩摩兵とともに帰郷する。もともと士族が多かった薩摩に私学校を設立、尊王と民衆への慈悲を掲げた。これは政府転覆の兵力ではなく幕末のエネルギーを日本を守る軍事力に組み込もうとした。かつて維新のために戦った士族たちは武士としての特権を明治政府によって奪われていった。1876年に俸禄が打ち切られ廃刀令によって刀まで取り上げられた。ついに士族の怒りが爆発した。神風連の乱、秋月の乱、佐賀の乱、萩の乱など九州を中心に反乱が続発した。だが西郷は政府への不満を武力で行使することは大義がないと諫めた。一方東京の大久保利通は私学校の連中に西郷が担ぎ出されるのではないかと危惧していた。

 西郷と大久保の思惑がすれ違うなか、大久保率いる政府軍は薩摩藩が富国強兵のために建設した集成館では、最新式のスナイドル銃の弾丸など日本海軍の弾薬の多くが製造されていた。明治10年1月その弾薬を巡り事件が起こった。政府が夜間密かに弾薬を運び出そうとしたのである。私学校への脅威を覚えての措置であった。事態を知った私学校の生徒たちはすぐさま鹿児島各地の弾薬庫を襲い大量の武器を奪い取った。さらに事態を悪化させる事件が発生。西郷や私学校の内部分裂を誘うために政府が送り込んだ密偵がつかまった。連日の拷問による自白によれば、西郷が不穏な動きをすれば暗殺もやむなしというものであった。私学校の生徒の怒りはもはや暴発寸前であった。

 明治10年2月 9日鹿児島を打開するため大久保は、西郷の遠縁にあたる海軍中将川村純義を鹿児島に送り込んだ。川村は若者たちに担がれないように西郷を説得する使命を帯びていた。しかし私学校の生徒に阻まれて上陸さえできなかったという。これで薩摩郡の挙兵はさけられないと東京に打電すると、政府は4千の兵を派遣。一方西郷は1万3千の兵とともに東京に向けて鹿児島をたった。薩摩軍は西郷を阻むものはないと楽観視していたが、政府は熊本城での籠城戦をしかける。本格的な戦闘が始まったのは2月22日、熊本城付近に西郷の痕跡は見当たらないというから、西郷の意思とは別に戦いは泥沼化していった。

 西南戦争最大の激戦地・田原坂では今もなおスナイドル銃の弾丸が見つかるほどである。後方支援のある政府軍と、何も支援がなく賊軍扱いに変わる薩摩軍との決着がついたのは17日後、それ以降は九州全域を薩摩軍は敗走するのである。薩摩に帰り着いた西郷軍はわずかに400を数えるのみ。政府軍の総攻撃を受けた西郷は、もうよかろう・・・とつぶやき自決した。ここに7か月に及んだ西南戦争は終わったのである。両軍合わせて使者14000人、政府が使った戦費は4100万円、国家予算の85%にのぼったという。


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幕末191 1878年 紀尾井町の変

2017年06月12日 | 幕末

 1878年5月14日、大久保利通は、霞が関の私邸から馬車で赤坂仮御所に向かっていたところ、紀尾井坂近辺で暗殺犯6人に襲われ日本刀で斬殺された。紀州徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷があったことから紀尾井坂と呼ばれるようになったが、元々紀州徳川家の跡地が清水谷公園となり、現在大久保公哀悼碑がある。暗殺犯のリーダー島田一郎は石川県士族で29歳、陸軍軍人として中尉にまでなって、西郷に共鳴して下野していた。副将格の長連豪は22歳、島田と同じく加賀藩出身の士族で、鹿児島の私学校にも留学した経験があり、桐野利秋や別府晋介とも親しかった。残る4人は杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、浅井寿篤でいずれも30歳以下の不平士族であった。彼ら6人は翌日揃って宮内省へ自首すると、臨時裁判が行われて7月27日の判決とともに処刑された。実は大久保が当日乗っていた血染めの馬車は現在岡山県倉敷市にある。

 維新の三傑 大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允が亡くなった今、政治は伊藤博文、黒田清隆、大隈重信、軍事は山県有朋、大山巌に任されることとなる。彼ら年長の大隈、山県でさえ大久保の8歳年下である。そんな彼らが大日本帝国の構築をすべて任されることとなり、いかなる運命を辿ることとなったかについては、別途紹介する。


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幕末190 1877年 西南戦争-7

2017年06月12日 | 幕末

 和田越え迄撤退した西郷軍は包囲されている。わずかな望みとともに可愛岳の絶壁を登って政府軍の包囲網を突破すると9月1日に鹿児島へ到着した。2月に出撃して半年後には鹿児島の城山へ逃げ帰ったことになる。ここはかつで島津の本城鶴丸城の詰め城があったところである。9月24日政府軍による総攻撃が始まると、西郷はここ西郷洞窟から市街に向かったが、足腰に被弾し走行不能になると、別府晋介の介錯で自刃した。

 薩摩のサムライが非業の死を遂げていた頃、東京では内国勧業博覧会が上野で開催され、45万人の入場者が集まった。明治政府にはやるべきことがあるといわんばかりに大久保利通主導で様々なメーカに生産物を出展させていた。つまり産業振興を図っていたのであるが、一方では大久保政治に対する反感も色濃く残っていた。西郷への愛情の念は、多くの士族にとって大久保への憎悪へと変わっていった。政敵西郷を政府の力で体よく葬り、自分は我が世を極めている・・・それが大久保のイメージである。しかも大久保は政府の金を懐に入れて私腹を肥やしているとも見ていた。前に記載した尾去沢銅山事件や山城屋事件など明治を代表する汚職事件と同類だとみられていた。汚職事件に立ち向かった江藤新平などを大久保が葬る形となったから致し方ない。

 ところが大久保は明治政府の中では最も清廉潔白な人物と言ってよい。私財をなげうって予算がつかない行事を行っていたほどであるから、後に暗殺されることとなったのは、ある意味不運であった。


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幕末189 1877年 西南戦争-6

2017年06月12日 | 幕末

 政府軍は銃器、テント、軍服などあらゆる装備で西郷軍を上回り、海軍の援護により西郷軍の背後から艦砲射撃を行った。総攻撃の前日13日、第二旅団の山川中佐は西郷軍の隙をついて的中突破、熊本鎮台への入城に成功、これで西郷軍は万事休すである。この頃、維新の三傑といわれた木戸孝允の病が悪化、5月26日に最後を迎えた。木戸の妻、松子は祇園の芸子幾松である。木戸の最後の言葉は、不眠不休の看護をした松子に対するものではなく、「西郷、もういい加減にせんか!」であったという。

 西郷は体制を立て直すために、薩摩、大隅、日向に部隊を展開させ政府軍と決戦する体制をとる。というか実際にはゲリラ戦に転換といったほうがいい。そしてこの頃から脱走兵が出始めて鉄の結束はなくなっていく。ついに西郷軍兵士は3500となり、延岡の近くの和田越まで退去し、政府軍に包囲される。西郷隆盛はもはやこれまでと、全部隊に解散命令をだした。そして西郷は陸軍大将の制服を脱ぎ和服に着替えて死を覚悟した。

明治10年8月15日 和田越決戦の地にて西郷隆盛散る


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幕末188 1877年 西南戦争-5

2017年04月22日 | 幕末

 西郷軍が本格的に熊本城を攻めたのは2月22日、この夜乃木少佐は軍旗を奪われて敗走したが、第二旅団として体制を立て直して再び田原坂を越えて熊本に入ろうとした。第二旅団の総員は6300名、実は6400名で構成されていた第一旅団は福岡に到着していた。そして中央の山県有朋は第三旅団の編成を検討していた。この西南戦争、政府軍は6万人、西郷軍は3万人で戦われ、戦死者は双方合わせて14000人に上るが、田原坂での戦死者が25%を占めることからいかに激戦であったかがわかる。西郷軍の大将格の篠原国幹が戦死したものの、戦意は旺盛で日本刀による白兵戦を敷いた。これに対して政府軍も警視隊の中から士族出身で剣術に優れた者で部隊を構成し白兵戦で応戦した。こうして設けられたのが抜刀隊である。るろうに剣士の抜刀術はここからきている。元会津藩士の警視隊員が13人斬りを白兵戦で成し遂げた・・・という誤報を報知新聞の若き記者・犬養毅が報じたことから広がったようである。

 抜刀隊による白兵戦について解説する。西郷軍の銃は先込め式のエンフィールド銃は雨の中では非常に使いにくい。銃口から火薬と弾丸を棒で押し込む方式は晴れの日であっても戦闘効率は悪い。一方政府軍が持つスナイドル銃は、火薬は薬莢にはいっているからなんの問題もない。西郷軍は銃性能で遅れをとったばかりか、政府軍の増援部隊の南下によって、軍を熊本城包囲軍と田原坂防衛軍に二分しなければならなかった。加藤清正が築城した強固な熊本城落城にこだわった作戦が裏目にでたのである。かくして田原坂は政府軍に突破され、西郷軍は城を包囲している本軍と合流し、体制を整えようとした。一方政府軍は福岡から第三旅団を結成し、海軍との挟み撃ちを考えていた政府軍は4月14日を総攻撃の日と決めた。


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幕末187 1877年 西南戦争-4

2017年04月22日 | 幕末

 西南戦争の勃発は1877年2月15日で、60年ぶりの大雪に見舞われた。総員3万人は西郷を総司令官として鹿児島を出発した。6大隊の長は、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、永山弥一郎、別府晋佑、池上四郎である。永山弥一郎は寺田屋事件の生き残りで、有馬を討った大山綱良とは合わないだろうが、桐野の説得で止む無く参加を決意した。別府は桐野のいとこで、池上四郎は久坂玄随のように医者にはなじめず幕末の騒乱に積極的に参加した。こうして熊本城攻略戦の火ぶたはきられた。

 田原坂は西南戦争最大の激戦地で、加藤清正が熊本城の第一防衛線として作った坂であった。しかもこの坂、熊本城の北側にある。鹿児島を出発した西郷軍は6日後には熊本城を包囲したが、政府軍は既に防戦体制を整えていた。皇族の有栖川宮熾仁親王を逆賊追討総督に任命し、政府軍の士気は大いに盛り上がった。熊本鎮台総司令官は土佐の谷干城、参謀長は薩摩の樺山資紀。しかし西郷軍の決起により熊本城を簡単に落とし、全国の不平士族も立ち上がるだろうと楽観視していた。西郷軍は2月22日の夜明けに熊本城に正面攻撃をかけた。城は当然防衛体制に入り、政府軍は西郷軍に対して砲撃を加えた。この戦いに遅れをとったのが乃木希典。乃木希典は長州人で吉田松陰の叔父の玉木文之進の弟子にあたる。萩の乱の直前に中央から呼ばれて熊本鎮台に所属した乃木は連帯を率いて熊本に向かい西郷軍と戦闘状態に入った。この時乃木は連隊旗を敵に奪われるという失態を犯している。

 乃木希典は日露戦争の旅順攻防戦で有名になったが、後に明治天皇の後を追って妻ともども殉死したことでも知られている。1912年の殉死の際に残した遺書では西南戦争での連隊旗事件を恥じて、死に場所を探していたと記載している。これには理由があるが、別の機会に紹介する。


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幕末186 1877年 西南戦争-3

2017年04月15日 | 幕末

 私学校党有志が鹿児島の施設を襲撃したころ、明治天皇は京都に行幸しており、供奉していた薩摩出身の海軍次官・川村純義は鹿児島に派遣された。川村の妻は西郷の母方のいとこであったこともあり、西郷の爆発を制止する目的があった。会談は結局実現しなかったが、私学校党の有力幹部、桐野利秋、篠原国幹が会う必要などないと進言したからである。後に勝海舟は西郷一周忌の際に、追悼の和歌を詠んだ。西郷は死後賊軍になったが、まったくの無実の罪であり、それでも挙兵したのは薩摩の若者に身を預けたからだ・・・という趣旨の歌である。

さて西南戦争に戻ると、彼ら西郷軍は鹿児島を出発して熊本を目指したが突破できずに鹿児島に押し返されたから惨敗である。しかし桐野利秋をリーダーとする彼らは負けるなどとは夢にも思っていなかった。何故なら彼ら私学校党は西洋文明を無視したりはしない。最新式の武器である大砲や洋式小銃の訓練も行っていた。そもそも西郷は私学校軍を外国との戦いに出陣させようと考えていたから武器は近代的なのである。一方新政府軍は民の中から徴兵された兵が主力であるから、西郷軍の強さは明らかである。実際西南戦争における政府軍の勝利は奇跡と言ってよい。ではその奇跡を起こしたのは政府軍を率いた山県有朋か?西郷の作戦にはそもそも勝つ気がなかったような節もある。はたまた最も強固な熊本城を攻めようとしたのが間違いだったのか?たとえ最強の熊本城であっても西郷軍は落城させる自信があった。


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