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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

有楽町にある南町奉行所跡

2010年09月29日 | 池波正太郎 江戸時代

 以前に南町奉行所跡について紹介したが、今回現地へ行ってきたので再度紹介です。 東京駅で新幹線を降りると山手線で品川方面に向かって隣の駅がJR有楽町駅です。 有楽町マリオンというビル・数寄屋橋方面へ繋がる地下街へ降りるまでに駅南の広場があり、その広場には石垣を再現したベンチや奉行所跡の説明板がある。 ここは南町奉行所の跡であったことが、数多く出土した遺物から判明したとのことである。 その墨書札には大岡越前守様御屋敷と書かれていたという。 説明板には、その墨書札や南町奉行所の平面図、出土した遺物の様子を写した写真、そして南町奉行所の簡単な説明が書かれています。 大岡越前守忠相は第14代南町奉行で約19年間勤め、根岸肥前守鎮衛は17年間、そして遠山左衛門尉景元が7年間奉行を務めた。 この3人が3大名奉行といわれている。 

                                   

 町方与力・同心が与えられていた屋敷を組屋敷といい、その広さは与力が200-300坪、同心は100坪ほどで、ほとんどのものが自らは30坪ほどの屋敷に住み、 拝領地内に屋敷を構えて医者や学者に貸すことで家賃収入を得ていて、幕府公認のことであった。 幕府にしてみれば、体制外の知識人を一箇所に集める工夫であったともいえる。  そして彼らの住んだ屋敷が八丁堀に集中していたことから江戸の町人は、町方同心のことを「八丁堀の旦那」と呼んだ。 今はなき藤田まこと演じる中村主水は必殺仕事人であり同心であるが、仲間からは確かに「八丁堀の旦那」 と呼ばれている。 この旦那、町人を相手にした仕事のため、武士からは低く見られていたが町人からは頼りにされて付け届けなどの副収入や役得があった。 女湯での朝湯は無料、毎朝の髪結いも無料というわけである。  そして南町奉行所の近辺である江戸城大手門の周辺から南側の外堀に囲まれた地域には大名屋敷が集中していた地域でもあり、大手門に近い場所から順に親藩、譜代、外様屋敷があった。 霞ヶ関には42万石の広島藩浅野家や47万石の福岡藩黒田家などの屋敷があった。 浅野家には鮮やかな朱色の門、黒田家には重厚な黒い門があり、両者が隣り合った様子は対照的で面白く、浮世絵にも数多く描かれた。 大名小路は大名屋敷が連なる通りであると同時に、江戸城の内堀と外堀に囲まれた地域名でもあり、現在の丸の内一帯にあたる。 有力大名屋敷だけではなく、定火消屋敷も置かれていた。 今も昔も政治の中枢がこの地域にあったのは同じである。 

 

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