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出雲王朝62-加茂岩倉遺跡

2017年08月23日 | 記紀創世紀

 荒神谷遺跡で銅剣が発見された翌年には銅剣の埋納された場所東方斜面から銅矛16本、銅鐸6個が同じ場所から見つかった。常識外れの発見であった。出雲の非常識はこれで終わらず、荒神谷遺跡の東南3㎞の大原郡加茂町で1996年10月に銅鐸が発見された。これが加茂岩倉遺跡である。最終的に発見された銅鐸は39個で、驚異的な数である。因みに各地の銅鐸発見数は摂津34個、河内44個、大和20個、和泉12個、遠江30個、近江41個である。さらに加茂岩倉遺跡は大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を入れてセットにする入れ子の埋納が初めて確認された遺跡となった。 

 今まで出雲国というのはフィクションの世界であると考えられてきた。しかし荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡が発見され、四隅突出型墳丘墓といった山陰から富山に分布した古墳が数多く見つかった。これらは前方後円墳の時代を遡ること200年前に権力があったことを意味し、出雲神話にふさわしい考古学的な遺跡が数多い。大量の銅鐸が出た加茂岩倉遺跡はカモ氏の祖である大国主命の愛児・アヂスキタカヒコネの宮殿があったと思われる。近くには磐座を神体とする矢櫃神社がある。この一帯は大国主命の神財を置いたとされる神原地区であると風土記は語る。いずれの遺跡に於いても青銅器は丁寧に埋納されており、そこには大国主命への深い哀惜の念が込められているように思われる。

加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸・銅矛

 弥生時代は銅鐸、銅矛、銅剣などの青銅器全盛の時期である。道具、武器としての青銅器は祭器に変化していった。当初の銅鐸は5cm程度の道具、つまり鳴らす鈴であったが、最終的には1mを超えて仰ぎ見る銅鐸になった。弥生時代の青銅器文化圏は北部九州を中心に銅矛、畿内を中心に銅鐸であったが、出雲の地でこの概念を覆す事態となったのである。しかもこれらの青銅器には出雲特有の紋様が出現しているから、その意味は大きい。

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