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出雲王朝54-岡田山1号墳の被葬者は額田部氏

2017年08月15日 | 記紀創世紀

 古代の出雲に於いては東部と西部が二大重要地域である。東部は意宇、西部は杵築の勢力である。この二つの勢力と大和政権との関係が大和の出雲征服に大いに関係している。大和が西部の杵築の勢力を滅ぼした東部の意宇に勢力を持つ出雲氏を国造にしたことが大和の出雲征服であると説かれた。しかし出雲の国造はもともとひとつであり、拠点が杵築から意宇へと移されただけであるという説もある。そもそも出雲国造の祖先である出雲氏はどこに拠点を持っていたのだろうか。倭建命などの伝承の舞台は出雲西部である。しかし6世紀の前方後円墳の広がりや平野の広がりなどの地理的条件を考慮すると東部である。大国主命は出雲氏が東部地域の政権を脱却して、出雲全域の支配者になったとき、新たに取り込んだ神である。つまり出雲は東部の支配者が西部に勢力を拡大して出雲全域を支配したと想定できる。

 ここで言う東部の意宇平野西方丘陵にある岡田山1号墳という前方後円墳からの出土品から、被葬者は額田部氏であることが判明した。出土した鉄製円筒大刀に銘文が刻印されていたことから脚光を浴びることとなる。この銘文から額田部臣の四文字が読み取れたのである。この古墳は6世紀後半のもので、当時すでにこの地方が大和王朝の支配下にあったということが推測できる。疑問なのは大和から見て辺境にあたる出雲の豪族に、額田部臣の称号が与えられたことである。いうまでもなく「臣」は朝廷に仕える人で、皇別と称する諸氏だけが持っていた姓であり、姓のなかでも最も尊重されていたものである。つまり出雲には大和朝廷から特別に評価されていた有力な古代政権が存在していたことを意味する。出雲勢力の中の額田部氏とは応神天皇の皇子である額田大中彦にちなむ部である。

意宇平野西方丘陵の岡田山1号墳の被葬者は額田部氏

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益田杏奈@竹原-7

2017年08月15日 | 益田杏奈 松浦里紗 まい 水無月いと みゃ みどり

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