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出雲王朝41-出雲の信仰心と出雲阿国

2017年08月02日 | 記紀創世紀

 出雲神に対する信仰心といえば古代のオオナムチ命信仰の広がり、近世では各地を飛び回った出雲の御師の活躍、また中世では出雲阿国の活躍がある。阿国は京都の四条河原町でかぶき踊りをして歌舞伎の創始者になったが、踊りは元来神事であり、阿国は神に仕える神聖な巫女の零落した姿といえる。事実、阿国は出雲大社に仕える下級神職の巫女であったらしく、出雲大社修復のための勧進を行って諸国を練り歩いていたという。伝説通り出雲阿国が出雲から出たというのであれば、出雲は各地に向けて巫覡やら御師やらを送り出す何かしらの妖気を漂わせた国だったといえる。

 出雲国風土記からは出雲臣が杵築の出雲大社と意宇の熊野大社、二つの神社を特別扱いしている様子が見て取れる。出雲の国造を中心にした出雲神祭祀は既に盛んに行われていただろうし、地元の人々も出雲大社の祭神を崇拝し篤く祀っていたであろうことは想像しやすい。また、出雲に神々が集う10月を神無月と呼ぶようになったのは、平安時代の末であった。従って出雲だけではなく日本列島の広い範囲で出雲神にまつわる認識は生まれていたといえる。そして8世紀には出雲は祟ると朝廷は記録していたことが問題なのである。だからこそ出雲は恐れられていたし、その恐れは大きかったので盛大に祀られったのである。

 では何故出雲は祟るという思い込みが浸透したのだろうか。生きた化石ともいえる出雲の国造家にヒントがありそうである。出雲神を祀り続けた出雲国造家はどこか奇妙である。これらの行動を突き詰めれば謎は解けるのか。出雲国造家の祖は天穂日命で、この神は出雲国譲りのときに高天原から遣わされたが、高天原に復命しなかった。しかし出雲国造家は、天穂日命とその子供は天津神の出雲制圧に功績があったとしている。出雲国譲りに国造家が貢献したというのなら、なぜその後、国造家だけが新任に際して朝廷に出向いて服従の誓いをするようになったのだ。このあたりも出雲国造家の不思議さが隠されている。出雲東部の意宇に拠点を置いた出雲国造家は、出雲の西部の杵築の先住者の祖神・大国主命を祀るようになった。ここでいう先住者とは西谷墳墓群の王たちを支えた人々であろう。因みに出雲国造家が意宇を離れて杵築に移住したのは平安時代にはいってからである。

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MELO@須磨離宮-9

2017年08月02日 | 松原三絢 村信遙 MELO めぐみ 美紀 みつき

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