フィクションのチカラ(中央大学教授・宇佐美毅のブログ)
テレビドラマ・映画・演劇など、フィクション世界への感想や、その他日々考えたことなどを掲載しています。
 



 今クール(1~3月期)のテレビドラマに関する批評・感想を書く時期ですが、まずは今騒動になっている『明日、ママがいない』 (日テレ、水曜22時)について、先に書いておきましょう。

 『明日、ママがいない』は児童養護施設の子どもたちを描いた作品で、養護施設や、いわゆる「赤ちゃんポスト」を設置している病院からのクレームが寄せられていることでかなり騒がれています。
 この件についてはいくつかのメディアから取材がありました。雑誌等には限られた分量のコメントしか乗せられないので、私の考えをここにも書いておきます。
 私自身は、作品の表現に問題があると思うものの、放送を差し止めるといった措置はとるべきではない、最後まで見て判断し、批評したいという立場をとっています。

 問題となっているのは、いわゆる「赤ちゃんポスト」に入れられた子どもがその後「ポスト」とあだ名をつけられていること、児童養護施設の職員が子どもたちに「お前たちはペットだ。芸の一つもできなければ貰い手はない」といった暴言を吐くことなどです。こうした表現が当事者を傷つけ、新たないじめなどを生むとの抗議を受けています。
 たしかにこうした表現は関係者を傷つける可能性がありますし、作品として必然性があるかどうか、疑問に感じるところもあることは確かです。
 後に書くように、『明日、ママがいない』の脚本監修に野島伸司の名があがっていて、野島作品は1990年代に『高校教師』や『人間失格』などで大きな衝撃を視聴者に与えました。
 私が中央大学その他の大学の講義でそれらの作品を学生に見せると、「こんな作品を放送できたんですか?」「これって何時台に放送されていたんですか?」といった学生の反応が、驚きとともに返ってきます。それだけ、作品内の表現に対する感じ方が変わってきたのでしょう。1990年代に受け入れられた表現が今は受け入れられにくくなってきたという変化が認められます。


 このように、過激な表現は現代には受け入れられにくくなっています。ただし、フィクション作品は現実に近づけば近づくほどよいというわけではありませんし、ときには現実を誇張する場合もあります。それによって傷つく人を出してよいということにはなりませんが、単純に現実を写すわけではない以上、少なくとも作品全体を批評・評価し、そこから「フィクションにおける差別性」について建設的な議論をすることが重要だと考えます。

 今回の作品の脚本は、テレビドラマの業界では新人の松田沙也ですが、脚本監修は野島伸司が担当しています。野島伸司と言えば、1990年代に多くの大ヒット作品を生みだした有名脚本家で、実際に『明日、ママがいない』には、その野島伸司色がかなり強く出ているように思われます。
 野島作品というと、『101回目のプロポーズ』『ひとつ屋根の下』などのコメディ色の強い作品と、『高校教師』『人間失格』などの暗くて衝撃的な作品があり、そのどちらをイメージするかによって、野島作品の印象は視聴者にとって大きく異なるようです。
 しかし、私はそのどちらにも一貫しているものがあり、それが「極限の愛」「狂った愛の実験」だと考えています。詳しくは私の著書『テレビドラマを学問する』 (中央大学出版部)を読んでいただきたいのですが、野島伸司作品にはどれも、人間が極限まで愛を求めたとき、あるいはそのような状況に追い込まれたときにどのような行動をとるか、が描かれていると考えています。それがコメディ的に描かれるか衝撃的に描かれるかの違いは問題ではなく、その根底には同じものが流れているというのが私の理解です。

 『明日、ママがいない』にもその要素は色濃くあらわれています。初回はことさらに刺激的な表現がとられており、制作側の話題作りではないかと感じられるところもないわけではありません。
 ただ、テレビドラマ研究者である私としては、そのような野島伸司作品の特色が、監修に回ったこの作品でもどのようにあらわれていくか、それが過去の作品とどのように共通し、どのように異なっているか。そのような点に注目して今後もドラマを見ていきたいと思っています。




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