去る9月4日未明に、私の父・宇佐美松玉(うさみまつお)が、都内の病院で亡くなりました。83歳でした。4月に誤嚥性肺炎で入院し、5月に一度心肺停止状態になりましたが、その時は処置が早くて持ち直しました。その後はやや安定していたのですが、9月になって再び容体が悪化し、亡くなりました。
私の父は、東京・芝の東京タワーがあるあたりにあった履物屋の次男です。父の祖父(私の曽祖父)は福井県から上京した人間で、その出身地のことは以前に書いたことがあります(→ 「中央大学父母懇談会と福井との縁」 )。その子である私の祖父は足の悪い人だったので、座ってできる商売ということで、芝に履物屋を開いたそうです。
その次男だった父は、勉強よりも商売が好きだった人で、大学にも行かずに戦後は闇屋のようなことをしていたと聞いたことがあります。その後、品川燃料(現・株式会社シナネン)に入り、会社員として勤めました。一生会社員をするつもりではなかったそうで、「会社員になったのは商売の元手を貯めるためだった」と言っていました。しかし、会社員としてまずまずうまくいったので、そのまま生涯同じ会社に勤め続けたようです。結局父は、学歴もないのに、最後は上場企業の取締役にまでなりました。その点では、商才や才覚に恵まれた人でした。
後で書くように、私の進路については口も出さず学費だけ出してくれた父でしたが、何事にも口を出さなかったわけではありません。私はそれほどでもありませんでしたが、姉には随分いろいろ口を出していたようです。私の場合、はっきり記憶しているのは私が自分の家を建てたときのことです。
詳細は省きますが、私は父が家を建てたときのことをよく知っていました。私は父のような家の建て方をしたくありませんでしたし、父に口を出させると際限がないこともわかっていましたので、一切父には相談しませんでした。すると、家を建てることに口を出したくて仕方のなかった父はひどく腹を立ててしまい、しばらくは口もきいてくれませんでした。
新築した家に招待しないわけにもいかないので、家が完成してから両親を家に招いたところ、父は「俺ならこうは作らせなかった」と言わんばかりに、家じゅう至る所に文句を言いまくって帰りました。つまり、私の進路の研究や学問の世界のことは父はわからないので、それには一切口を出しませんでしたが、家を建てるというようなことは自分でもわかるという自負があるので、口を出したくて仕方なかったのです。今にして思えば、少しくらい口を出させてあげればよかったかとも思いますが、少しでも口を出させたら、自分の家のようにどこまでも仕切ろうとするでしょうから、やはり口を出させなくてよかったのかもしれません。
このエピソードでもわかると思いますが、父は昔の男ですので、けっこう自分中心の人でした。仕事から家に帰って晩酌を始めると、とたんに機嫌がよくなるのはいいのですが、酔うと私をからかうのが面白いらしく、嫌がる私にしつこくちょっかいを出してきました。子どもからすればずいぶん迷惑な父親で、その頃私は「酒に酔うと大人はみんなこんなふうになるんだ」と思っていて、「自分は大人になっても絶対に酒飲みにはなるまい」と心に決めていました。酒癖が悪いというほどではありませんでしたが、子どもの私にはずいぶん迷惑な父の酒でした。
ただ、父にいろいろ遊びに連れて行ってもらったこともよく覚えています。私が小学生の頃、愛知県豊川市に住んでいたときには、わざわざチケットをとって名古屋の中日球場(現在は中日二軍の球場)の中日対巨人戦に何度か連れて行ってくれました。私のスポーツ観戦好きの起源は、この頃にさかのぼることができます。また、宮城県仙台市に引っ越してからは、市内のスケート場に何度も連れて行ってくれました。
私が高校生になって、高校の陸上競技部に熱中しすぎてひどい肉離れを起こしてしまったときは、何週間か松葉杖の私を車で学校に送ってくれました。今思うと、いろいろ父に世話になったのだという気がします。
そういうやさしいところのある人だったと思う一方で、父と私は人生観や価値観が違っていましたので、話が合わないと思うことはしばしばありました。私から見ると、父は生涯「商人(あきんど)」といった気質を持ち続けていた人で、私とは違う生き方をした人ですが、父は父なりの人生観・価値観をまっとうしたのだと思います。
そういう人でしたから、父は学問や研究にはまったく関心がありませんでしたし、息子の私がしている文学研究などというものはまったく何のことかわからなかっただろうと思います。おそらく、私が書いた本や論文は1ページも読んだことがなかったでしょう。それで、私が載っている週刊誌のインタビューのような柔らかい記事をたまに見せてあげると、父の言うことはいつも同じでした。それは、「これでいくら貰えるんだ?」という言葉で、それ以外の言葉を私の仕事にしてくれたことはありませんでした。おそらく、それ以外のことは言えなかったのだと思います。
そういう父をうとましく思う気持ちも私には少なからずありましたが、その一方で、父は私の進路に対して、子どもの頃から口出ししたことが一度もありませんでした。私の姉は音楽、私は文学という方向へ進みましたが、どちらも父から干渉されたことはありません。それどころか、姉と私の学費等にはかなりの出費があったはずですが、その点も快く負担してくれていました。
姉は子どもの頃からピアノを習い、高校も私立の音楽科、大学も私立の音楽大学でした。私の方は高校が公立、大学が国立ですが、その分大学院まで行きましたので、どちらもかなりの学費がかかったと思います。そのことを恩に着せるようなことは一度も言わなかった人でした。何でもお金に換算して考える父がこうした出費のかかる私たちの進路に何も言わなかったのは、子どもに対する愛情だったのではないかと思います。
ただし、父は無償の奉仕のような行為を嫌う人でしたから、そこには商人気質の父らしい計算もあったのかもしれません。学歴のなかった父は、教育にお金をかければその分が将来の職業になって戻ってくる、つまり、投資した分は元が取れるという発想もあったような気もします。
そうではあっても、私は32歳で中央大学の専任講師になるまで定職がなかったのですから、普通なら親として文句の一つも言いたくなると思います。しかし、私が中央大学に就職するまで、父は半年ごとに学費として10万円ずつ現金で私にくれていました。「もう自立しているのだから……」と私が遠慮すると、「まあ出せるうちは出してやるからとっておけ」と言って、毎回必ず私に10万円をくれたのでした。その頃私はもう結婚していましたし、生計も自分で立ててはいました。それでも、父が学費を出し続けてくれたのは、父の愛情だったと思っています。
その意味では、私が今あるのは父親のおかげだと思います。父に対する思いはいろいろありますが、今は父の冥福を心から祈りたいと思います。
昨年卒業しました、なんとか崎です。
この度はご愁傷様です。
宇佐美先生との出会いは、僕の人生にとっての大きな転換点でした。
もちろん先生のお父様とはお会いしたことはありませんが、宇佐美毅という自分の師を生んでくれた方に、深く感謝いたします。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
私は外国人ですが、先生のこのブログを読んで深く感動しました。
私は厳しい父親がいますから、よく自分の父親が「うるさい人」と思ったときがあります。でも今改めて考えてみれば、どんな「理不尽」父親でも、自分の息子を愛しているということは恐らく永遠に変わらないでしょう。
最後、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
私の父親への思いはいろいろありますし、あまり親孝行な息子ではなかったかもしれません。しかし、私の父親のことを少しでも他の方に知っていただいて、私も嬉しく思いますし、父親も喜んでくれているような気がします。
コメントに感謝いたします。