
80年代にノーシスの機関誌に投稿されたもので、丁度当時公開された
映画「アマデウス」、モーツアルトの音楽の精神面に焦点を当てながら、
自らの精神的な変化を綴られた方がおり、長いので幾度かに分けて、
こちらに掲載させて頂こうと思います。
ノーシスでは、洗練されたクラシック音楽を、「魂に滋養を供給するもの」
「高次に自らを同調させ、叡智を受けるもの」として、推奨されています。
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【モーツアルト 私の内的な旅の記録】
《映画「アマデウス」》
昨年度のアカデミー賞八部門をさらった、映画「アマデウス」が話題を
集め、モーツアルトへの関心が高まっている。
この映画は、モーツアルトが宮廷音楽家として活躍したウィーン時代を
中心に、彼の人生を描いたものだ。
物語は、当時、やはり音楽家として名声を博していた、サリエリと
比較しながら展開されていく。
サリエリが、モーツアルトの才能を嫉妬していた事は、よく知られている。
彼は音楽家としての権威はあったが、才能の面では二流だった。
そして、モーツアルトの名声は、死後、大変な勢いで高まっていくのだが、
その一方、サリエリの名は次第に忘れ去られていく。
そして、すっかり落ちぶれ、精神病院に入っている晩年のサリエリの追想の
中で、モーツアルトの思い出がよみがえる。
この映画に登場するモーツアルトは、一般的なモーツアルト像とはかなり
違っていて、まったく捉え所がなく、遊び好き、女好きのひょうきんな男して
描かれている。
しかし、その男が作り出す音楽は、何と神々しい響きを放つことだろう。
音楽によって神に仕えようと考えていたサリエリは、神に問わずに
いられない。
<神よ、あなたは音楽によって、あなたのメッセージを伝えるために、
なぜあんな男を選んだのですか?>
彼は答えが得られないまま、神への信仰を捨ててしまう。
この映画を観て、サリエリに同情した人も多いと思う。
サリエリこそ、モーツアルトの才能を正しく評価し得た人物として描かれて
いるからである。
しかしサリエリは、モーツアルトを最も理解していたようで、実は完全に
理解するまでには至らなかった。
いつも嫉妬に燃えて、苦しみ続けていたのだ。
「アマデウス」で描かれているのは、モーツアルトのある一面でしかない。
それは、サリエリという人物の、嫉妬のメガネを通して見たモーツアルト
なのだ。
我々がこの映画を基にして、モーツアルトの作品と、その人生の軌跡を
辿るなら、更に多くのことを発見することができるだろう。
《魂の音楽を求めて》
私(筆者)が音楽を意識して聴き始めたのは、中学生の頃である。
音楽は私を、内なる旅へと導いてくれた。
私は、その頃好んで聴いていたロックによって、大きな影響を受けた。
<私は異邦人である。
宇宙人である。
いや、狂人であるかもしれない。
しかし、こんな狂った世界で平気な顔をしている人々こそ、狂っているのでは
ないか!>
その頃、ロック音楽を聴きながら感じたのは、こんなメッセージであった。
それは、魂から発せられる叫びのように感じられた。
そして私は、その世界にのめり込んで行った。
だが当時の私は、なぜあんな重苦しいフィーリングの音楽に惹かれていったのだろう。
あの頃私達は、確かに何かを訴えてはいたが、心の奥底にある不満を感じても、
解決策を見出す事は出来なかった。
その上、彼らの中には、アルコールや覚醒剤によって、廃人のようになった人も数多い。
そんな若者の一人であった私が、二年ほど前から、音楽に対する考え方を変え
始めた。
私は、魂を揺さぶり、その奥深い所まで訴えかけてくる音楽を求めるようになっていた。
そして、モーツアルトとベートーベンに出会った。
クラシック音楽を聴くのは、初めは抵抗があったが、慣れてくると少しずつ、彼らの
音楽と、私の魂が共振し合うのが感じられるようになった。
時には、静かな崇高な響きの中に、魂の安らぎを得て、愛と平和が実現するように
心から願い、また、不安におののく時は激しい曲を聴いて、勇気と不屈の意思を
奮い立たせる。
私は、ピアノ曲、協奏曲、交響曲といった、親しみ易い作品から聴き始めた。
モーツアルトの作品では、ピアノ協奏曲第二十番、交響曲第三十八章「プラハ」、
交響曲第四十番、そしてレクイエム等々、これらの作品は、映画「アマデウス」の
バックにも流れていた、名曲の数々である。
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この続きは、また他日に掲載させて頂きます。
以下、ノーシスで行われている祈りです。
こちらの方は、翻訳させて頂きました。
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【肉体の保護の祈り】
「ああ聖マルタ、御身は神に祝せられ、いと愛され、ふさわしく、
タボルの山に歩み入りて、御身は大いなるしもべと出会い、
神のみ母のみ帯を、結び縛りつけられたり。
されば、聖三位のとこしえなる、おん父のみ名によりて、
我に向かいて来るよろづの敵の心をも縛り給わんことを。」
ここで3回、ノーシスの「使徒信経」を唱えます。
【ノーシス使徒信経】
「我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、またそのおんひとり子、
我らの主イエズス・キリスト、即ち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、
ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、
古聖所に下りて、三日目に死者の内よりよみがえり、天に昇りて全能の父なる
天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを裁かんために来たり給う主を信じ奉る。
我は聖霊、聖なるノーシス教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、
終わりなき生命(いのち)を信じ奉る。
アーメン。」
【邪眼に対する祈り】
「1万1000のおとめと、聖アンナへの一なる誉れの間にありし
汝の寝所に、相携え、天使らは汝と共にましたり。
聖アンナはマリアを産み、聖イザベルは聖ヨハネを産み給いたり。
これらの七つの言葉によりて、この邪悪は癒されん。」
ノーシス書棚:http://gnosis317.web.fc2.com/
まさに明治は遠くになりにけり
の感はいめないけどね。
寺尾明のシャドーシティー
走馬灯のように過ぎ去りし歳月
夜霧よ今夜もモウ
結構ですコケコッコー
ルビーの指輪でも好いけどね
ではモミ佐間お願~~~~胃さん
90年代中頃から、乱暴な言葉の入った音楽などは増えたけど、世界的に音楽が均一になってしまって、逆に面白くなくなってきたように思うばい。
均一な世界からは、逆にマイコーのような突出した人は、出難いと思うばい。
音楽の世界も薄くなってきて、本当に才能や実力や個性があるから売れるのではなく、売り出し方が上手いから取り上げられる、その傾向がもっと強くなっている印象があるばい。
80年代は、歌が多少下手でも、雰囲気で聴かせる事の出来るような人もいたけどね|・)…