ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.40 山中城

2010年12月26日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2010年12月26日(日)


安土城見学の後、直ぐに名神高速を引き返した甲斐あって、関ヶ原付近では何とか雪には遭わず胸を撫で下ろした。
東名牧の原SAで仮眠し、山中城に着いたのは午前10時半になろうとしていた。

国道1号線は何度か通ったことはあるが、箱根峠のほど近いところに「山中城」があることは全く気付きもしなかった。
こんな山の中に城があることすら知らなかった、というのが正直なところである。

国道1号線沿いのそば・うどん店にスタンプが置かれている。


スタンプは見学の後に押すことにし、先ずは案内板に従って店の横の道を進む。


中は綺麗に整備され、公園になっている。


最初に現れたのは”出丸御馬場堀”だ。
堀の中に畝が設けられてあり、”畝堀”となっている。
堀の底から曲輪までの高さは9mにもなっており、急峻である。

これは、反対側から見たところ。


岱崎出丸”(だいざきでまる)
地名の岱崎をとって「岱崎城」とも呼ばれる、山中城で最も大きな出丸だ。
今は杉の木が生え放題となっている。
秀吉の小田原征伐に備えて曲輪を増築しようとしたが、短期間の急造のため完成することはなかったようである。
この出丸を守った、副将間宮豊前守康俊は壮絶な戦闘の末、全員が討死に、と伝えられている。


岱崎出丸の前方左側には、構築中の曲輪跡がある。
工事の途中に秀吉との戦に突入したものと考えられている、そうだ。


岱崎出丸の先端にすり鉢状の曲輪がある。”すり鉢曲輪”と呼ばれる。
岱崎出丸を防御する曲輪となっている。


すり鉢曲輪の先端から岱崎出丸を見上げたところ。
一段と高くなっているところが、”見張り台”だ。


見張り台からは、三島・沼津方面から韮崎城まで手に取るように望見できる、とある。




この日は天気も良く、見張り台からの富士山が美しかった。


すり鉢曲輪の外側には岱崎出丸を防御するために、”一の堀”が掘られている。
急峻なため、上り下りに苦労した。

調査の結果、畝の数は150m内に17個が確認されている、とのこと。




”一の堀”の国道1号線寄りに向けて、畝のない堀が続いている。
こちらも急峻である。



ここでいったん国道沿いの店まで引き返し、スタンプを押した後、今度は道路の反対側を見て回ることにした。


順路に沿って進むと、先ず”三の丸堀”が現れる。
他の堀のように掘り割ったり、畝を掘り残したり、自然地形を加工したのではなく、
三の丸堀は、自然の谷を利用している点が違う、そうである。
長さ180m、最大幅30m、深さ8mを測る、とある。


城内には池(箱井戸)もあり、馬などの飲料水としても利用していたようだ。
余った水は田んぼの灌漑用に流していた。


時間の都合もあるので、”西の丸跡”は諦め、”二の丸跡”へ行ってみることにした。
門跡を示すような2本の木柱が建てられている。


その先は、両側に土塁が積まれ、急な坂道になっている。


長い坂道を上りきると、正面に”二の丸櫓跡”が控えており、二の丸虎口に行き着く。
右側に曲がると”二の丸曲輪”が広がる。


二の丸櫓跡から今しがた上ってきた方面(三の丸)を見降ろす。


二の丸虎口の左手に橋が架かっており、橋から二の丸を望む。
二の丸は、山中城最大の曲輪である。
本丸が狭いので、その機能を分担したものと考えられている、そうだ。


二の丸から”二の丸櫓跡”を望む。


二の丸と本丸の間には”本丸堀”があり、木橋を渡ると、”本丸”がある。
橋の後ろ側には、”二の丸櫓台”が復元されている。


本丸曲輪跡
山中城の中心となった曲輪である。
中央の藤棚辺りに本丸曲輪の館があった、と記されている。


天守櫓跡
山中城で最も高い場所(標高586m)に天守櫓があった。


本丸と”北の丸”を結ぶ木の橋。
山中城は、土橋が多く構築されているが、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。
木製の橋は土橋に較べて簡単に壊せるので、戦い状況によっては橋を壊し、敵兵が堀を渡らせないようにした。


北の丸跡”は広大で平坦だ。
城内でも二番目に広く、天守櫓にも近いため、重要な曲輪だった、と考えられている。


北の丸は、本丸を除く三方を高い土塁で囲まれている。
今は杉の木が生い茂っているが、当時は堅固な堀・土塁だった、ようだ。


この辺りは、本丸の一段下がった場所に当り、武器貯蔵庫・兵糧庫が建てられていた場所だ。
現在は、公園の一部として整備されている。


駒形諏訪神社」の鳥居をくぐると国道1号線に出た。


国道1号線を駐車場に戻る途中、旧三の丸跡に建てられた「宋閑寺」があった。


敵味方である北条軍と豊臣軍双方の武将のお墓が並んでいる珍しい寺である。
前述の岱崎出丸で討死した間宮豊前守康俊兄弟とその一族、山中城主松田右兵衛太夫、および
群馬県の箕輪城主多米出羽守平長定らの墓(左側)のすぐ隣に、
豊臣軍の先鋒一柳伊豆守直末の墓碑(右側)がひっそりと佇んでいる。



山中城は箱根の入り口を守る北条の要衝だったが、秀吉の北条討伐ではわずか一日で落城してしまった、と言われる。
北条軍4,000に対し、秀吉軍は実に70,000余の大軍、これでは勝負にならない。
やはり多勢に無勢、ということであろう、勝敗の行方は明らかである。
墓の前に立つと、激しい戦いが行われた当時を偲ぶばざるを得ない。

しかし、両軍の武将の墓が並んでいるのを見て、戦の空しさを感じるとともに、
何故か心が打たれ、温かいものを感じた。

冬の寒い時期だったため、公園の緑は枯れていたが、機会があれば緑の多い時期に、再度訪れたいものである。
今回は足を運ばなかった”西の丸”の”障子堀”も是非見てみたい、と思っている。
この後、今回の旅の最後となる、小田原城のある小田原へ向かった。


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